✯6 一人になりたいと思っても、一人になるとつまんない


 初めて入る店で頼んだスコーンは、衛幸えみゆさんに推薦されたものだった。遠慮で厚意を無下にする理由もなかった僕が、いわれたとおりの注文をしたのも必然だろう。

 だから負けるもなにも、最初から全部衛幸さんの手のひらの上だったということになる。

 少々やるせないがしかし、焼きたてで運ばれてきたスコーンの味に嘘はなかった。


「しっかし、まだチューもしてねえとは……」


 陽光が金色から濃くなり始めた街角へ出るなり、衛幸さんは僕を見て唇をとがらせる。

 先に本屋の店先に立っていた僕は、なにもいえずに顔をそむけるばかりだった。

 アテのはずれた結果でお気に召さないのはわかるが、そもそも僕とぎんはそういう関係ではない。とまで言及するとねちっこい顰蹙ひんしゅくを買うだけでは済まなくなりそうだったので黙っておいた。これ以上貞操ていそうに関する僕の名誉を傷つけられたら胃に穴があく。


 本屋は車道がある道路と歩行者優先道路とが交差する角に位置していた。

 対角線上はくつ屋で、クリスマスの装いからは若干縁遠い。

 そう思っていたら、奥から出てきたひとりの客は赤いリボンのかかった箱を抱えていた。

 緑のエプロン姿の店員が、頭につけた鹿のツノを揺らしてお辞儀をしている。やはりこの時期はどこもそういう演出を忘れないらしい。


 ツノをつけた店員は、笑顔で客を見送り終えるなり、店先の植え込みの方を見ていぶかしげな顔をした。


 こちらからも、同じ植え込みのかげから赤い三角帽子が突き出しているのが見てとれる。


 店員がなにかいいながらそちらへ近づこうとした瞬間、赤い帽子が飛びあがって、同じ色のボレロとフェルトのくつの組み合わせが歩行者優先道の方へ走り去っていった。

 翻ったプリーツスカートのすそから一瞬派手な柄の下着が見える。なんというかそんなところで認識できてしまった自分が悲しい。


「あのサンタ衣装はどっから持ってきたんだ……」

「およよぃ? お嬢ちゃん?」


 うしろで衛幸さんが奇妙に戸惑うような声をあげる。

 振り向いた拍子になにかが膝にぶつかってきた。

 危うくかかとで蹴りそうになったところを踏みとどまって、わき腹に顔をうずめてくるものを確かめる。


「よ、夜祥よすがちゃん?」

「〰〰……」


 なにかくぐもったよくわからない声を漏らしながら彼女は僕に抱きついてきていた。抱きつくというより全身でもたれかかってくる感じだ。

 結局店を出る段になるまで目を覚まさなかった彼女は、衛幸さんが会計を済ませているそばで目をこすりこすり、ふらふらしながらようやく立っていた。

 まだ寝足りないというか、すでに寝ぼけているのだろうか。


「って、ちょっ、うおおお!?」


 僕が戸惑っているうちにお腹に巻きついていた夜祥ちゃんの腕がゆるみ、小さな体全体が下へずり落ち始める。

 服が地面で汚れると思い、とっさに肩をつかもうとしたが、その前に彼女の両手がキャソックの前後のスリットから内側に滑り込んで、ズボンのベルトにちょうど引っかかった。

 同時に夜祥ちゃんの膝から力が抜け、僕のベルトに子どもひとり分の体重がいっぺんに襲いかかる。


 悲鳴をあげながら反射的にズボンを押さえつけたけれど、夜祥ちゃんの手はベルトに引っかかったままだ。直前まで彼女の服の方を心配していた僕は、なにをまずなすべきなのかなにもわからなくなる。


「よよよよすがちゃっ、見える! 見える!」

「あぁらら、なんか気に入られたっぽいな、ひな坊」

「落ち着いてないで助けてくれませんかお母さん!?」


 慌てて懇願すると「おいおいそこはお義姉ねえさんだろ?」とかわけのわからない文句を垂れながら、なぜかしぶしぶといった態度で夜祥ちゃんを抱きあげてくれた。

 カフスかなにかが引っかかっていただけらしく、ほとんど抵抗なく夜祥ちゃんの体は僕から離れてくれる。

 両脇に手を入れられてネコのように抱えあげられた状態で、彼女はやはり目を閉じて寝息を立てていた。


「あー、こりゃもうしばらくダメそうだな」

「な、ナルコレプシーとかじゃないですよね、夜祥ちゃん」

「縁起でもねえことをいうなあ。ちょいと神経が太すぎるだけだよ」


 そういうことなかれ主義の考え方が一番危ないんじゃないだろうかと、正直不安にならざるをえない。僕が心配性すぎるだけならいいが。


「まひな……」


 不意に名前を呼ばれた気がしてハッとする。

 無意識に衛幸さんを見ると、視線で合図して声の正体を教えてくれた。


 宙ぶらりんのまま眠っている夜祥ちゃんの口が、かすかにだが動いている。


 そういえばまともに彼女の声を聴くのはこれが初めてだった。


 自己紹介のときですら口を開かなかった彼女が、寝言で僕の名前を呼んでいる。

 若木の幹を打つキツツキの音と似て、その声は不思議な響きを伴い、ずいぶんと耳に残った。


「さん、にん……ひな、ぼぅ、と……」

「……………………」

「少年が絶句している。これはラブ入っちゃったか?」

「愕然としているんですよッ! 呼び名! ま抜け! 悪い方で覚えちゃってるじゃないですか!」

「まー銀霞に脈がねえならそういうことなのかもなぁ。んーひな坊なら結構アリかなぁー」

「人の話を聞けェ! 結構アリなわけないだろうが!」


 地が出ているなどと気にしている余裕はすでにない。

 なにより夜祥ちゃんに悪い方のあだ名で呼ばれたことが大ショックだった。胃どころか心に風穴をあけられた気分だ。

 しかもショックの大きさを自覚すればするほど、それだけ夜祥ちゃんに特別な思い入れがあったような気がしてきて、あれ、本当は僕ってもしかしてもしかするんじゃないか、などとあらぬ自問が幕を開けてしまう。神も仏もない気分になる。


「お家の戒律が厳しいと苦労すんなぁ、ひな坊」

「まを抜くな! なにに同情してんだ! あんたがゆるいだけだ!」

「門限の話だよ。もうあんまり時間ないんだろ?」


 こしゃくな! 話を逸らすとはこしゃくな!

 と憤りかけたけれど、実際衛幸さんのいうとおり、自分で定めたタイムリミットは街灯の明かりとともにもう見える距離からにじり寄ってきていた。日の短い季節とはいえ、とっぷり暮れ終わってから商店街を出たのでは、晩餐ばんさんにギリギリで間にあうかどうか。


 それでもまだ困ってはいなかった僕に、娘をだっこのかたちに抱え直しながら、衛幸さんは「どうする?」とたずねてくる。


「こっちのお姫様は、目が覚めたら引き続きおまえとショッピングがしてえそうな。そのぐらいの時間はあんのかもしれんけど、どうするよ?」


 衛幸さんはこの手のことを人に確かめる性格をしていない。

 たずねるということは、相手に選ばせるということ。

 僕は彼女に選択肢を提示され、そして迫られていた。こっちのお姫様か、それとも――


「すいません」要は、わざわざ選ばされたようなものだ。「……ほかに済ませないといけない用事があるので」


 衛幸さんはなにもいわずに微笑む。


 失礼します、と軽く頭をさげた僕に、娘を抱いた彼女は軽く手を振った。


 僕はきびすを返し、車道を渡るために横断歩道へ向かって歩きだす。


守雛まひな


 ちゃんとした名前で呼ばれ、立ち止まった。


 振り返れば、依然として娘を抱いたままの母親らしき人物が僕を見つめている。

 その表情はあまりおだやかではなく、教師のようにぜんとしたもの。


「おれの落ち度は、夜祥の存在をずっと伏せていたことだ」


 あいつのことばが思い出される。


 ふたりのなかを取り持つのは、なにも知らずに生きてきたから――我ながらよく覚えている。


「ただ、それを普通に謝りにいくのも、卑怯だと思ってる」


 そうですね。僕があなたの立場でもそう思うでしょう。


 ただ、今の僕に厄介なお鉢が回ってきたのは、あなたのせいだ。


 恨みごとはそれで精いっぱい。


 無言で見つめ合って、それで返事が届いたのかはわからない。


 間もなく背後でカッコウが鳴き始めたから、僕は再び頭をさげて、またきびすを返した。


 門限が近い。

 それまでに、あのサンタになりそこなった小娘をつかまえなくてはならない。


 肉親に迷惑をかけてまで他人ひとさまの事情に首を突っ込む趣味は、僕の方にはないのだから。



 つづく

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