✯5 でもたぶんこんな感じだって想像はつく。髪をなびかす風か、疾走する車の感覚


 いつの間にか席を立った衛幸えみゆさんが、通路から身を乗り出してそっと夜祥よすがちゃんを抱きあげていった。


 聖母には程遠いはずの彼女がこのときばかり神々しく見えたのは、僕を背徳の境地から遠ざけてくれただけのためだろうか。


 幼い聖女は、母の腕の中でいまだまぶたを伏せたままでいる。

 人の袖をつかんでいたかよわい御手みては、揺りかごから零れ落ちた布のようにだらしなく貧相に垂れさがっている。


「わりぃな、ひな坊。こいつ、本気で突然寝始めるから」


 そういって衛幸さんは、はにかむように苦笑する。


 それを見て、ようやく僕は胸をなでおろすと同時に、ごく一般的に驚き呆れ返ることができた。


 母親よりも娘の方が、母親の手に余るほど厄介だったなんて。

 いや、子どもというのは元来こういうものかもしれない。

 夜祥ちゃんのことを物静かな普通のよい子だとしか思っていなかっただけに、僕は勝手に不意打ちを食らって勝手に戸惑っているだけなのかもしれない。


 子どもとは元来、持て余すもの。


 それでも、夜祥ちゃんの寝顔を眺める衛幸さんの姿は、どことなく穏やかでおごそかに映る。


 ふと、無性に訊いてみたくなった。


 今まで訊こうにも訊けなかったこと。

 訊かない方がいいなら訊かなくていいだろうと、当たり前のように割り切っていたこと。


 衛幸さんが自分の席に戻って、夜祥ちゃんを先に座らせて、自分が座るのと同時に夜祥ちゃんの肩を自分の方に倒すまで、僕は待った。


「……衛幸さん」

「なんだい、ひな坊?」

「ひな坊と呼ぶのをやめて、僕の質問に答えてくれますか?」

「人の質問には答えないくせに。ガキくせえうちはいつまでたってもだぞ?」


 鼻で笑ってそういわれたけれど、不愉快の裏返しではないようで、衛幸さんのまなざしは温もりそのものだった。

 見つめ合いながらややあって、「いいさ。訊きなよ」と返してくれる。


「どうして、夜祥ちゃんを」


 落ち着いて口を開いたはずなのに、逡巡しゅんじゅんが生まれた。

 なにを訊こうとしていたのかを振り返って、少し変更すべきと結論づけることになる。

 最初に思いついていた質問は、僕の役目ではない。そう思ったから。


「――引き取ることにしたのは、なぜなんですか?」


 穏やかな目をしたまま、衛幸さんが息をついた。「クソ真面目に訊くよなあ」と茶化し半分に呆れ、けれどはぐらかしたいようではなく、ただことばを探すようにテーブルの隅へ視線を投げていた。

 そこに置いてある灰皿から、いさしの煙はもうあがっていない。


「……本当に親子だから。じゃ、ダメか?」

「あなたが本気で答えられるのであれば、それで納得する用意はできてます」


 今度こそ衛幸さんは目を白黒させて僕を見た。

 それから笑う。だれかをほめるときのように。


「べつに」と彼女は答えた。


「いうほどの理由なんか、ありゃしないさ。自分をひととおり育て終わったような気になったから、新しく育てるもんが欲しくなった。ちょうどおれが育てちまっていいものがすでにあったから、のこのこと引き取りに行った。それまで思い出しもしなかったものを、ある日不意になんとなく。実際その程度」


 おかげでいろいろと思い知らされる毎日さ、といって、衛幸さんは夜祥ちゃんの髪をなでた。自分に似ず、下へすとんと落ちる黒い髪。


「夜祥ちゃんは、あなたのことを覚えては?」

「んなわきゃねえ。覚えてるもなにも、おれの顔どころか乳の味すら教えずにいたんだ。写真見せられても、実際顔突き合わせてみても、ピンとこなかったろう。こっちもこっちで、死ぬほど痛かったってことだけは一応覚えてたけど、やっぱり再会して『ああ、クセツジューネン』みたいな感動はこれっぽっちもなかった。こういうとこで似た者同士ってことばを使うのは、まあ、間違ってんだろうけど」


 衛幸さんはまた笑う。


 親子としての再会以後、ふたりの間にどんなやり取りがあったのかはわからない。

 今なら訊けば教えてくれるとしても、やはりそこへ踏み込んでいくのは、僕の役目ではないような気がした。


 ただ、衛幸さんは夜祥ちゃんを無理に取り戻すことができたとしても、そうはしなかったはずで、そして夜祥ちゃんは今、衛幸さんと共に暮らしている。

 そういう結果がすでに目の前にあるのなら、僕なんかが訊いていいことは残りひとつ。


守雛まひなよ」


 けれどその問いは、先に答えを示されて。


「後悔だけは一度もしたことがない、なんて思うか?」


 答えられない僕を見て、衛幸さんは肩をすくめるような仕草をする。

 と、片手で茶色い小さな手帳をどこからか取り出して、テーブルの上でページを開いた。

 皮張りの表紙から二ページほどをめくって手を止める。そこにあるものを僕には見せず、衛幸さん自身の口が読みあげた。


「――たといわたしが捧げても、まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。いけにえは、砕かれた魂、それと――」

「……あなたはそれを、さげすまれません。――へん51ごじゅういち

「勉強家だな」


 パタ、と音を立てて閉じた手帳を、彼女は下に戻さず胸ポケットに入れる。


ってのを、まだこいつに見たことはない」入れ替えるように煙草の箱を取り出しながら、伏せた目で夜祥ちゃんを見おろす。「自分のも結構薄いけどな」苦笑。


「それでも、たまに絶望したくなるときくらいある。。この先ありえないとも限らない。そう考え始めると、不安でどうしようもなくなるときはある」


 彼女はライターを取り出さなかった。


 中身を確かめるように箱を振り、そのままなにもせずにテーブルの隅の灰皿のそばに置く。


 なにかをしながらでなければ話をしていても落ち着かない。まるでそういうふうにも見えた。


 ヒントをいくつももらって、僕の中にも確信めいたものができあがっている。


「また日々思い知らされてもいるのさ。自分なんか育て切ったと思ったって、さっきいったろ。だが現実は伸びしろたっぷり。娘なんてひとりで手ぇいっぱい。難しいことはするもんじゃあないな。最初にいったこと覚えてるか?」

「最初、というと?」

「この店に来てからだ」

「ああ」


 スコーンの話、の次だ。人に甘えることを知らない子ども。


「甘えさせ方なら、よく知ってるつもりだったよ。ぎんがいたからな。でも、この笑わねえミニすけは、初めからそんなもん求めちゃいなかったんだと今は思ってる。本当のところは、まだよくわかんねえけどさ。なにせ、どう扱っても文句ひとついわねえし、かと思えば、感謝のひとつも口にしねえ」


 衛幸さんは膝で眠る少女を静かにののしった。「薄情な小娘だよ」と。


「薄情なら、教育してやりゃあよかった。根暗で無気力な性根をたたき直して、甘えるべきときに子どもらしく甘えてくるようしつけてやれば、情に厚くて感受性とか協調性とか豊かな子どもに生まれ変わって、万事解決するのかもしれない。それまでの夜祥はニセモノで、ホンモノの夜祥が帰ってくる。――おれはそういう〝強い母親〟には向いてなかったよ。そもそもまともな親ってものを知らない……いや、忘れちまったせいかね。なんだかんだ、似た者同士でお子サマ同士、同レベルで持ちつ持たれつってやつさ」

「……それじゃあ、銀霞は納得しませんよ、たぶん」


 納得しない。だからどうした、となるはわかっていた。


 今話しているのは、衛幸さんと夜祥ちゃんの問題だ。


 銀霞は最初から外野にいる、それもかなり恣意的にものを見るタイプの、ありふれた人たちと同じところにいる。


 衛幸さんも夜祥ちゃんも、人からどう見られるかなど気にしてはいない。

 人に自分を巻き込ませず、自分に人を巻き込まない。

 ふたりともそういうタイプだから、今の関係でうまくいっているのだともわかっていた。


 それでも、衛幸さんが銀霞のことをどう考えているのか知りたくなった。

 巻き込みたくても巻き込めない、巻き込まれたくても巻き込んでもらえない位置で、めげずに奮闘してきたあいつのことを。外野だとしても、声が聞こえるほど近くにいたはずの。


「ようやくその名前が出たな」


 衛幸さんは我が意を得たという顔をしたが、その目のやさしさは、ようやく安心できたぞとも語っていた。僕がずっと触れずにいたことで、思いのほか気を揉ませたらしい。


「わかっちゃいるさ。わからないわけがない。あんだけ親子がテーマの映画ばっかしこたま見せられれば、いわれなくても罰ゲームだってわかる。一番最近のは、脳ミソの年齢が七歳の父親が、同じく七歳になった娘を法廷で取り合ったり、さらってバスで逃げたりする話だった。中身七歳の父親なんぞよりも、娘の父親への執着っぷりが異常でさ、感動モンなんだろうけど、てめえの母性は七歳児に劣るって、最後までいわれてる気分だったよ」

「あなたは妹に甘すぎる」

「だろうな。あいつの洋画趣味には正直ついていけん」

「あいつの本当の趣味はホラーやアクション映画ですよ」

「もっとついていけそうにねえな。グロいのは苦手なんだ」

「でもあなたはかたちばかりつき合い続ける。あなたは本当に妹に甘い」

「厳しくつっぱねてりゃあ、あんな残念な阿呆には育たなかったのかねえ」

「たぶんもっと残念な阿呆になってます」

「おまえ、ホントあいつには容赦ねえな」

「禿げた筋肉質のイギリス人がオイルまみれでヌルヌルになって格闘しているシーンで目を輝かせる女の子のタガが外れたとなれば、残念で阿呆な結果しか見えてきませんよ」

「あー、なんか見た覚えあるぞ」


 あいつと同じ屋根の下で暮らしている衛幸さんが、あいつの趣味を僕より理解していないはずがなかった。


 だから、僕なんかよりもはるかに強く実感してもいるはずだったのだ。

 あの残念な阿呆がしてきたことを。

 父親に執着する娘のような献身けんしんを。


「映画一本が普通二時間あります」

「ネタに使えそうなのが三本に一本見つかるとして、単純に六時間。さらにおれたちに見せてる間、推移を見守るのにプラス二時間。その他諸々も合わせて延べ半日ってところか」

「映画だけじゃないはずです。あいつがあなたたちのために用意してきたものは」

「そうだな。『私はもう見た。暗闇も、フラッシュのような光の一瞬のきらめきも』」

「ダンサー・イン・ザ・ダークですか?」

「正解。『過去の自分も見たし、未来の自分もわかってる』……これ以上おれたちのために時間を使うなって、ひとこときっぱりいえばいいんだろ? 自分のことに時間を使え、おまえをおれたちに巻き込ませるな、そうしてほしくて育てたわけじゃねえ、と」

「そこまでわかってるなら、どうして――」

「おれの役目じゃないからだよ、ひな坊」


 衛幸さんは僕を見てそういった。


「いったろ? 娘はひとりで手ぇいっぱいだって」


 ああ、この人はとことんまで――


「そういうつもりで、僕にあんな質問を……」

「有力候補だかんな」しゃあしゃあとのたまう。この人はこの人で、妹以外に容赦がないらしい。


「なに、間に合わなくなったら助けてやる。だが今はまだ遅くない。ゆっくり菓子が焼けるのを待ってたってゆるされる」

「あなたがそう思ってるだけかもしれませんよ?」

「そのときは、懺悔ざんげ室にでも足を運ぶさ」


 ちょうど湯気の立つバケットをさげてやってきたウェイトレスに、衛幸さんは紅茶をひとつ注文した。



 つづく

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