第六話 戦国の英雄
石油ストーブの柔らかいぬくみが眠気を誘う中、私はノートにせっせと書き連ねた単語を読み上げる。
「グーデンモルゲン、タダシ! ウヒィデホォアストデュ?」
たどたどしい、外国語の文章を読み上げる私。
「ひょっとして、Guten Morgen, Tadashi! Wohin fährst du? って言いたいの?」
パソコンに向かい、アルは背中越しに流暢なドイツ語を披露する。
夕飯をおじいちゃん込みの三人で食べた後、アルは仕事をしていた。何でも納期がまじかに迫ってるとか。
おじちゃんは、私たちの仲を認めてくれた……というよりも、思考を停止した。もしくは問題の先送り?
ようは、おじいちゃんの視界に仲のいい兄妹とうつっていればいいと。目の前でイチャイチャするなと。そういうマイルールを押し付けてきたのだ。無言の圧力で。
で、今は妹が兄にお勉強を見てもらっているという体裁をとっている。何時おじいちゃんが部屋に入って来るかわからないから、あまり近寄ることもできない。
なんか、だいぶお付き合いから遠のいているような気もするけど。今は試験前、単位を落とすわけにはいかない。
なんとかドイツ語の訳を終わらせないと。
「そうそれ。で、訳は?」
「おはよう、忠くん。どこにいくの?」
歩くポケトークのアルが日本語に直してくれる。それを聞きとりシャーペンを走らせる。
「次は、イッヒファルナファキョウト」
「京都にいきます。ってあのねえ雪深。僕にやらせてたら勉強にならないよ」
クルリと回転いすを回し、私に呆れた顔をむける。呆れた顔でも見とれるほど、美しい。むろん、兄上の顔も呆れている。なんか二倍馬鹿にされた気分だ。
ずるをしていることは、重々承知。だって、あきらかに勉強が間に合わないんだよ。愛知にいた都合上。第二言語の試験ぐらいいいじゃない。辞書をひく手間を省くだけなんだから。
「アルに聞いたら早いし……でもすごいね。ドイツ語もできちゃうなんて。何か国語しゃべれるの?」
ここは、機嫌をとって協力してもらわないと、後、テキスト十ページ分あるんだから。
「母国語のスペイン語と日本語。あと英語とドイツ語、フランス語、イタリア語かな」
さらっと言いやがったな。日本語しか話せない私に対する当てつけか。
まてまて、腹を立てている場合ではない。試験は来週に迫っている。
「英語もしゃべれるんだあ」
何食わぬ顔で、アルをよいしょする。
「イギリスのパブリックスクールにいってたから、僕の英語はクイーンズ・イングリッシュ。日本で学習するアメリカ英語とは多少異なるけど」
英語に種類あるんだ。これ言ったら、確実に馬鹿にされるな。
「イタリア語は、お友達から教えてもらったの?」
ホテルで脳内に登場した、イタリアちょい悪おやじのことを思い出した。
「……そうだね」
んん? なんだ今の間は。私の推理はどうも当たってないよう。でもそれをごまかすという事は。おのずと答えが見えてくる。
「へえ、こんどそのイタリア人のお友達にあったら習いたいなあ」
会う予定もないイタリア人。普通なら、ここは、そうだね。でながして終わるところ。
「そんなに習いたいなら、僕が教えるから」
むきになって言う。ますます怪しい。別に正直に答えたらいいのに。イタリア人の彼女に教えてもらったって。
外国語を習得する一番の近道は、その言語を話す恋人を作ればいい。と誰かが言っていた。アルに今まで恋人がいないわけないんだから。
なんか私、信用されてないなあ。もう過去になっている女の人に焼きもちやかないし。
「そうだ、勘十郎の恋人だった人が、誰だかわかったんだ」
現在の私は男の人とお付き合いしたことがない。アルの元カノに対抗できるネタは、勘十郎の恋人しかいない。
「それ、蔵人のこと? どこで会ったの? 誰だったの?」
いやに食いついてくる。予想を上回る反応にちょっとびっくりする。それに、蔵人の名前は知ってたのか。
「アルも三角デルタで会ったことあるでしょ。友達の薫だったんだ。すごい偶然だよね」
「ええ! 僕彼女の顔見ても、全然わからなかったよ」
やっぱりか。薫の読みは正解。なるほど。前世で顔を知らないと現世でもわからないと。私も知らず知らず、前世の記憶を持つ人と、ここ京都ですれ違っているのかも。
「勘十郎の家臣なんて兄上は覚えてないよ」
ずばり言い当てられて、何も言えないらしい。
「でね、夜の賀茂川の土手に座って……」
「何してたの?」
また食い気味に聞いてくる。なんか、私の思う事と違う想像をしているな。
「何って恋バナ。薫も今好きな人がいるみたい」
ここまで言って、不信感から目を細めているアルの顔を見る。
薫の意中の人、一色さんのことは言えない。私と婚約しかけた人だから、アルも会ったことはなくても、名前は知っている。
「そんなの信用できない。好きな人がいたって、前世の恋人が現れたらそっちになびくかも」
何言ってんだ。ひょっとして、前世の恋人に焼きもちやいてるの?
アル、了見が狭すぎる。信長のくせに。
「じゃあ、アルも私が薫になびいちゃうと思うわけ?」
「そんなこと思わないよ……でも……」
さすがに、言いすぎたと思ったのか、歯切れが悪い。
「僕、雪深に言ってないことがあるんだ。今日はっきり言っておく」
椅子のキャスターを滑らせ、私の傍により手をとる。表情は真剣そのもの。
言ってないことって? 意表を突くシリアス展開。その薄い唇からどんな言葉が漏れるのか。想像するだけで、動揺が隠せない。
この場は、焼きもちやいてごめんね。テヘペロってアルがかわいく謝れば丸く収まるところでしょう。なんて心の中で、逆切れしてもしょうがない。
アルに握られた手は薄っすら汗をかきはじめた。
今おじいちゃんに踏み込まれたら大変やばい状況だけど、強く握られた手をふりほどけない。
まさか、薫が言ってた隠し子とか? そこまでじゃなくても、他の恋人とか? この顔だ。一人や二人いても全然おかしくない。いやむしろ私一人というほうが不自然なんじゃないだろうか。
戦国の英雄。日本史のヒーロー。もはや一ジャンルを形成している、みんなのアイドル信長様を独り占め。なんてできようはずがない。
独り占めできると思う私が間違っている。ああそうだ、きっとそうだ。だから何を言われても驚いてはならない。
「僕は雪深のことが……」
ごくり。私は生唾を飲み込んだ。
「好きなんだ」
「……うん、知ってる」
「どうして? 始めて言ったのに」
目を丸くして、心底驚いている顔に腹が立つ。あなた、今までしてきた自分の行いをわかってますか?
プロポーズは、前世込みの打算であっても、その後のあれやこれやはなんだったんですか? 好かれていると思っていたのは、単なる私の思い込みだったって言いたいわけ?
スペインでは、ベッドに押し倒したり、キスを要求するなんて、好きじゃなくてもできるんですか?
……しそうだな。うん。挨拶程度ぐらいにしか思ってなさそう。
ただ単に、文化のちがい?
アルの成分は戦国武将信長様だけでできていない。半分は情熱の国スペインの遺伝子が入ってるんだから。
それでも、思いまどった無駄な時間を返せ! ただでさえ試験前で脳がキャパオーバーぎみだというのに。
あほか! そういってなじってやりたい。このおとぼけ天然スペイン人を。
思いのたけをぶつけたら気分はすっきりするだろうけれど、ドイツ語の勉強に付き合ってもらわないと、試験がピンチ。
まだつぶらな瞳で、不思議そうに私を見ているアルの顔にキスするべきか、張り手をかますべきか。それが問題だ。
ねえ、こんな時どうすればいいの、勘十郎。やっぱり兄上のあつかいにまだ慣れないよ。この人のトリセツをちょうだい。
――なら、俺にかわれ――
私の中で、勘十郎の声がした。
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