第五話 殺人ウィルス

 突然スマホがなる。瞬時にタップし耳に当てた。


「熱さがった?」


「まださがらない……雪深の声聞きたくて」


 弱弱しい声が、機械を通して聞こえてくる。どこか申し訳なさそうな、それでいて少し甘えが入った声に何もできなくて、すごくまどろっこしい。


「薬ちゃんと飲んでる? 水分は? お医者さんにもう一回いったらって、そんな体力ないか。まだ食べるものある? 今からでも持っていくから何か言って」


 声を落としてついつい早口でまくしたてる。そんなことしても会えない不安をうめられないのに。


「いらない。来たらダメだよ。うつすから」


 何わがまま言ってるんだ。というか、どっちがわがままなんだろうこの状況。


「じゃあ、ドアノブに食べ物ひっかけておくのは? それなら会わないし」


 本当は、会って顔色確認していろいろ看病してあげたい。でもここらへんが妥協点だろう。


 彼もこの案にはさすがにおれて、明日大学が終わってから持ってくる事を了承した。私は安堵して、また早口でしゃべりだす。


「ゼリーばっかり食べてるんでしょ。何か栄養のあるもの。おかゆとか」


 つくったことないけど、たぶんつくれる。


「熱いものはやだ。喉が痛いから」


「じゃあ何か食べたいものいって。はやく」


 だんだん、語気が荒くなる。相手は子供にもどったような病人だというのに、わがままをやんわり受け止められない。世のお母さんたちはすごいな。


「雪深を食べたい……」


 内耳に届く、熱にうかされた声。その熱の発生源はウイルスだけど、もう私の中ではいかがわしい熱に変換されていた。


 ……だめだ、電話越しにも色気をまき散らされたら、思考停止するしかない……ブラックアウト。


      *


「何ゆうとんじゃ! このエロスペイン人」


 電話越しに聞こえてきた雪深の怒声に、アルは熱い吐息をもらした。ほんとうにこの弟は、絶妙のタイミングで邪魔してくる。


「兄上思い出せ。高潔で誇り高き武士だったことを。女なんて家を存続させるための子を産む道具ぐらいにしか思ってなかっただろ」


「いやもうそんな時代じゃないんで」


 そう言っても弟の怒りはおさまらず、罵声を浴びせ続ける。話す内容はあれでも、声は愛しい雪深のものなので、アルは黙って聞き続けるしかなかった。


                    *


 アルが熱を出して三日目。講義が終わるのを今か今かと待ち焦がれ、チャイムと共に駐輪場へダッシュ。だされたレポートのことは頭の片隅においやる。


 昨日の電話ではなぜか意識が途中で飛んでしまい、気が付くと電話は切れていた。手元には彼のマンションの部屋番号が書かれたメモが。


 下鴨神社の鳥居をくぐり、ただすの森の入り口にあるマンション。緑にかこまれたエントランスへ入る。そこで彼の部屋番号108を押した。


 間延びしたピンポーンの音が急いた胸をこ馬鹿にしているようだ。


「はい、雪深慌ててきたんだね。髪が乱れてる」


 こちらからは見えなくても、あちらからは見えているようだ。慌てて手で髪を撫でつける。なんかずるい。私も見たいのに。でも、昨日よりいくぶん楽そうな声にホッとした。


「熱どう? あのね、いちごすぐ食べられるように家で洗ってきたから。後プリンにみかんの缶詰。ミネラルウォーターにカロリーメイト。こんなんでよかった?」


 すぐにでも、切れてしまいそうなつながりにすがって私はしゃべり続ける。


「うん、ありがとう。熱は少しさがった。部屋は一階右手の一番奥だから」


 その声と同時に、格子がはまったガラスのドアがあいた。

 廊下を小走りに走ってゆく。その先にアルはいるけど会えないのに。金の文字で書かれた108のプレートの前でしばし深呼吸。


 ドアノブにそっとビニール袋をぶら下げる。だめだ缶詰やら水やら重いものが入ってるから、これではずり落ちる。で、ドアの前に置く。


 まてまて、ここじゃあドア開けた時邪魔になる。それじゃあ、ドアの横に置くしかない。で、置いた。


 でもすぐに持ち上げた。食べ物を直におくのは衛生的にどうだろう。袋に入っているとはいえ。カバンの中からとりだしたハンカチをドアの横にしき、その上に袋を置いた。


 再度確認するように、袋を持ち上げそっとおろした。

 もうこれで、することはなくなってしまった。


 観念してドアに背をむけ、後ろ髪を引かれつつとぼとぼと出口へ向かって歩き出す。何歩あるいただろう、もう少しで角を曲がる。


 その時、後方でドアのあく音がした。私は反射的に後ろを振り返る。

 フリースのルームウェアを着て、おでこには冷えピタ。黒の巻き毛は何時もよりくりくりで、顔はマスクに覆われている。


 三日ぶりに見る彼に、ためらいなく走り寄ろうとしたら、手のひらをかざされ止められた。マスクが外され、薄い唇がはっきりとうごく。「ありがとう」と。


 殺人ウイルスが地上に蔓延し、終末を迎えた地球に残された恋人たちみたいなこの状況。そうだよ。彼に近づいたら死ぬんだよ。そう思わないことには、自分の足を止められなかった。


 私は踵を返し、足早に立ち去った。猛然とこぐ自転車は風をきり、頬に冬の冷気が張り手をかます。凛凛とした寒さが心を凍らせていく。


 人を好きになるってハッピーなんじゃないの? それなのに私の心は鉛を飲み込んだように、沈んでいく。


 こわい……これ以上好きになるのが、こわい。

 

 中学の失恋を引きずってるんじゃない。そんな子供じゃない。


 この恋の先行きが、不透明すぎて泣きたくなるだけ。

 だって、私たちの恋は誰にも祝福されない。


 前世とか、勘十郎とか。私たちを隔てるものはいくらでもある。その自分ではどうしようもない隔たりに負けそう。


 負けたくないけど、今は彼から逃げるように冬空の下自転車をこいでいる。


 家になだれ込むように帰ると、私は机の中にしまっていた一色さんの名刺を取り出した。

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