第四話 あかねさす

「ゆきちゃんどうしたん。真っ青な顔して」


 家の前まで帰ってきて、気合をいれて玄関を開けたのだが、いかんせん顔色にまで気合を入れられなかった。


「ちょっと今日寒かったから。自転車こいだら、寒くて寒くて」


「さっきアルさんも真っ青な顔して帰らはったで。なんや熱あるて。インフルエンザかな」


 自転車を押す手がとまる。


「大丈夫なの?」


「病院行くって言ってたし、また連絡来るんちゃうかな」


 光流くんの病気になれている市香ちゃんは、大したことないように、軽く言う。大人がインフルかかるって大ごとだよ。そういいつのりそうになり、すんでのところでやめた。


 連絡は食事中、おじいちゃんの携帯にかかってきた。


「ほうかほうか、それはお大事になあ。食べもんとか大丈夫なんか?」


 ちょっとおじいちゃん、私にかわってもいいんじゃない? いやここで私が出て取り乱したら……。


「そないか。ほな」


 だから、その「ほな」で全部しめないでよ。全然状況がわかんないでしょ。

 目の前に座る殺気立つ私に、おじいちゃんは言った。


「やっぱりインフルやったそうや。しばらく仕事休むて」


「食べ物とかは?」


「食欲ないけど、病院の帰りに栄養の入ったゼリー買って帰ったやて」


 栄養補助ゼリーのことね。そんなのでいいのかな。でも、食欲ないだろうし。まてまて、必要以上に心配してはならない。あくまで兄妹設定の範囲内で。


 食事を終えて、私はお茶碗を洗うとそそくさと二階に上がり、スマホを出ししばし悩む。しゃべるのもしんどいだろう。でも声が聞きたい。


 いや、自分の感情を押し付けてはいけない。ここはやはりラインで。

 とりあえず――大丈夫?――と極簡潔にメッセージを送った。すかさず、既読がつきメッセージが。


 ――雪深は体調どう?

 

 自分のことより私のこと……。


 ――私は元気だよ。


 ――よかったうつしてなくて


 つい二日前に密着してたんだもんね。


 ――何か食べ物もっていくよ。何がいい?


 ――来なくていい。うつすかもしれないのに。薬もらったから寝てたらなおる。


 ――でも、着替えとか。


 ――病気になっても一人は慣れてるから、大丈夫だよ。おやすみ。


 拒絶に落胆し、彼の孤独を思い泣きそうになる。私が泣いてどうする。しんどいのは、彼なのに……。

 

 翌日、気もそぞろに大学から帰ってくると、当然ながら彼の事務所は無人。市香ちゃんが声をかけてきた。


「今までそこにアルさんいてたのが、不思議やなあ。一日来てはらへんだけで、あれは夢やったんかと思うわ」


 私の落ちた気分を、さらにめり込ませることを言う。最初は彼がこの部屋にいることが、あんなにいやだったのに。


 今は、ここに彼の姿を探してしまう。ただいまといいながら玄関をあけると、手を振りながらおかえりって言ってくれる彼を。


 無言の私をいぶかしみながら、市香ちゃんはつけくわえる。


「ゆきちゃん新作の糸入ったんやけど見る?」


 そんなことで、気分はあがらない。そのまま、素通りしようとしばし胸の内で抵抗を試みたが、あっさり降伏。新作という言葉の魔力はすごいな。


 お店にあがり糸が並ぶ、マホガニーの棚へ。その一番上に置かれていた、夜があける暁の色。


「朱鷺色の糸。きれいやろ。染料は印度茜いんどあかねをつこてるて」


「あかねさす紫野行き標野行き野守はは見ずや君が袖振る」


 今まで勉強以外で和歌なんか口をついたことはない。この感性はきっと勘十郎だな。なんてったって織田の貴公子だったんだから。


「額田王の恋の歌やな……て、ゆきちゃんどないしたん?」


 いきなり万葉のうたを口にして、朱鷺色の糸を凝視する私。市香ちゃんは不思議そうに見る。その探るような視線が一色さんのことを思い出させた。


「最近、なんやきれいになったなあ、ゆきちゃん。もともとかわいい顔はしてたけど。おとなっぽくなったわ」


 その言葉に、全身が硬直する。

 市香ちゃんが、私の気持ちに気づいたからって、お母さんに告げ口するとは思わない。けど、私はきっと市香ちゃんにすがりたくなるに決まってる。


「この糸、コーンごとちょうだい」


「ええけど、何編むの? 中細の糸やし、コーンで買ったらかなりな量やけど」


 そんなの後から考える。とにかくこの糸が欲しいのだ。

 自室で、市香ちゃんに不審がられつつも手に入れた糸を窓辺においてながめていた。


 磨りガラスを通した夕刻の光をうけ、よりうつくしくその暁の色は輝いている。


 一色さんに言われたことは何一つ解決していない。この家に住み続けるには、アルと距離をとらないと。それが正しい選択なのに。


 それなのに私は今、一分一秒でも早く彼の顔をみたい。

 この糸をみていたら、死にかけたあの日の空に何もかも溶けていきそうだった。

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