第三章 すまう

第一話 前世の記憶 弐

 遠くで、水の流れる音がする。私はどこにいるのだろう。

 近くに川でも流れてるのかな? いや、雨だ、雨が降っている。懐かしい尾張国を潤す雨が。


               *


 今年は春先に父が亡くなり、兄が織田弾正忠おだだんじょうのじょう家の家督を継いだ。


 しかし、順風満帆な門出ではなかった。尾張八郡のうち四郡を弾正忠家が支配していたが父という重しがとれ、あちこちで反旗が翻る。


 この八月の暑さの中、戦いの火蓋が切って落とされた。

 兄は見事この戦いに勝利した。勘十郎も微力ながら参戦し、父にも劣らぬ兄の勇猛果敢な戦ぶりを間近でみ、共に歓喜の勝鬨を高らかにあげた。


 家臣が居並ぶ大広間、勘十郎は直垂ひたたれ姿も堂に入り、上座に座る自信と気品に満ち溢れた兄に向かい一礼し、颯爽と退出した。


 外は雨が降っていた。日照りが続く八月の雨は、作物を潤す貴重な雨。このような日に雨が降るとは、織田家の行く末を寿ぐ吉兆ではないか。

 そう心の内で僥倖をかみしめる後ろ姿に、声がかかる。


「こたびの戦の論功行賞は、いかがな次第でございましたでしょうか?」


 縁先で控えていた、小姓に上がったばかりの蔵人くらんどだった。左目に泣きぼくろがあり、まだ幼さを残した顔を一瞥し、再び歩き出す。


「みな、勝ち戦で意気揚々と、兄上に進言しておった。あの前田のこせがれなぞ、初陣で首を一つ上げたとそれは鼻高々に言うておった」


「あー、あのお館さまの衆道のお相手でございますか。たいそう美男とか」


 勘十郎はクスリと笑みをもらす。


「兄上は美しいものがお好きだからな。女のようにうつくしい弟の前髪を落とすのが忍びないと、元服を伸ばされているほどだ」


 二人の同腹(同じ母親)の弟喜六郎は、十三になる。元服してもおかしくない年齢だった。


「それにつけてもこの戦、本当に勝ててよかった。これで兄上の家督相続に難色をしめすものはいなくなっただろう」


 この言葉に、蔵人はぴたりと歩みをとめる。不審に思った勘十郎はふりかえり、その顔がゆがんでいるのを見とがめた。


「なんだその顔。何か不服でもあるというのか」


「先代様は、勘十郎様に家督をついでいただきたかったのではないですか?」


 その言葉を不快に感じた勘十郎にひと睨みされても、蔵人の口はとまらない。


「最後まで頼りにされていたのは、勘十郎様。勘十郎様に熱田神宮へ判物(花押付きの文書)を出すことも許可されていたと聞きます。それは、お館さまと同じ権利をお許しになったという事」


「ようしゃべるのお。その口をすうてやろうか」


 なまめかしい流し目をむけられ、蔵人は耳まで真っ赤になりうつむいた。

 二人が同衾したのは数回。まだ蔵人は、夜の務めになれていない。


 父の行いに淡く期待したことを言い当てられた。その不快さは、蔵人の恥じらう姿を見て、幾分やわらぐ。


 父が、末期に頼りにされておられたのはたしかに自分である。しかしそれは、兄よりも優秀な跡取りと思われていたからではなかった。


「そなたは、父上の最後のありさまを見ておらぬからそのように言えるのだ。父上は病に倒れられてから、頭がおかしゅうなられた。あんなに目をかけていた兄上の事が疎ましくなられるほど」


 どこか、虚しさをかかえた声に、うつむいていた蔵人は顔をあげる。


「だからそれは、勘十郎様のほうが……」


「違う。あれは嫉妬だ。死にゆく雄が己より精気みなぎる優秀な若さをうらやむ。そういうことだ。俺は、ただの凡人だからな」


 そう言い捨て再び歩みだした勘十郎の前に、蔵人は立ちふさがる。小姓としてはあるまじき行為だった。


 勝ち気な眼光で勘十郎を真正面からみすえ、主君に言い聞かせるようにゆっくりと言葉を吐き出す。


「この織田家を率いていくにふさわしいお方は、勘十郎信行さま。あなただ」

 

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