第六話 沈まれ心臓

 事務所として使っている部屋に、水道はない。しかし客人に飲み物を出さなければならないそうで、その時はキッチンの水道を使って、とおじいちゃんは言っていた。


 もうこれ以上紅茶を煮出すと色が濃くなりすぎる。今ここですべての作業を放り出し逃げるわけにはいかなかった。


「どうぞ……」


 弱弱しい声で返答しても、聞こえたようで戸はガラリと開いた。


 私の背中を見て、一瞬息をのむ彼の気配がする。そのまま気をきかして出て行く……。

 わけもなく、私の背後に立った。


 気にせず絞った毛糸を大なべに入れ、菜箸でかき回し火をとめた。これで二時間ほど放置すればいいのだ。さあ、自分の部屋にかけこめ。


 くるりと、振り返ると、彼の胸にぶつかりそうになり、さっと横によけると声が上からふってくる。


「僕のこと怒ってます?」


 彼が持つ電気ケトルを睨みつけて言った。


「……怒ってません、ただ怖いだけです」


「当然ですよね。興信所を使って身辺調査なんて。でも、いいわけはさせてください」


 落ち着いた低い声に操られ、その場から動けない。


「河原であってから、僕はあなたを探そうとした。手掛かりは名前だけ。その日のうちに興信所に行きました。でも、報告を受ける前にあなたと浄福寺であったのです」


「その報告書に、不登校のことも書いてあったんですか」


「はい。小学校から通う名門中学の一年生の秋から。二年次は一日も登校していない。そして女子中学に転校し、病気のため休学していたことにして、中学二年生から通いなおしていると」


「その興信所、優秀ですね。全部事実です」


「あの……なぜ不登校を」


「あなたに関係ない」


 そう言い、彼の横を通り過ぎようとしたら、焦った声でまだ話しかけてくる。


「塩、入れました?」


 へっ塩? なんのこっちゃ。思わず足がとまる。私の塩対応へのクレームか。


「紅茶染めしてるんですよね。色止めに塩を入れたらいいですよ。しっかり色が定着する」


 色止め。そんなこと私が見たホムペにはのってなかった。


「これぐらいの水だったら、大さじ二杯ぐらいですね」


 せっかく染めるのだから、よりいい色で染めたい。慌てて、引き出しから塩と大さじをだし、鍋に入れてかき混ぜた。

 後ろから、手が伸びてきてガスコンロのスイッチを押した。


「もう一回煮立たせた方がいい」


 それは、御親切に……って距離が近いわ! 

 彼との身長差はだいたい二十センチ。後ろから覆いかぶさるような立ち位置に、いまなっている。


 しずまれ心臓。これは、恐怖におののく鼓動だ。けして、ときめいているわけではない。


「紅茶染めしたことあるんですか?」


 声、震えてないよね。


「母が布花を作る時、自分で好みの色に染めるのを手伝ってたんです。紅茶のほかにも玉ねぎの皮や、コーヒーなんかでも染まりますよ」


 再び沸騰してきた鍋から、煮詰まった紅茶の濃く渋いにおいが立ち込める。私が息苦しさを感じると、カチリと音がして火が消された。


 息を思い切り吸い込む。紅茶の渋みが頭に抜け、心拍数も平常時に戻っていく。


「植物園のお弁当どうします? 私、光流くんと朝からいく約束してたんで」


「あっ、お弁当は僕がつくります。何か好きなものありますか?」


「お料理できるんですか?」


「もちろん。一人暮らしが長いので、なんでも作りますよ。和食もまかせてください」


 スペックがエベレスト級に高いな。でも、全部まかせるのはなんだが、申し訳ない。


「あの、おにぎり私がつくります。光流くんはハンバーグが好きで、私は何でも食べます」


「わかりました。じゃあ、おにぎりお願いしますね。土曜日十時に迎えにきます」

 そう言って、彼は笑って電気ケトルに水を入れた。


                  *


 生駒商店の斜め前の駐車場に、メタリックブルーのポルシェが駐車されている。ボンネットには、はね馬のエンブレムが誇らしげに輝いていた。


 その前にサングラスをかけたハリウッドセレブばりのあるはんが、呆然と立っていた。

 私の足にすがりつく光流くんは、今にも泣きそうな声で言った。


「ゆきちゃんの乗る椅子がない!」


 その通り、このポルシェは二人乗りだったのだ。

 今から十分前、あるはんは私たちを迎えに来てくれた。お弁当と光流くんがつかうジュニアシートを持ってくれ、駐車場までエスコート、そこまではよかった。


 ポルシェを目の前にして光流くんは興奮状態。昨日保育園でお友達にポルシェに乗ると自慢したとしゃべり、助手席にジュニアシートを置いてもらいぴょんと飛び乗って一言。


「ゆきちゃんはどこに乗るん?」


 彼はこの一言を聞いて、はじめて三人で乗れないと気がついたようだった。


「私バスでいくから、アルさんと車で先に行っておいで」


 私がそう提案しても、むくれた光流くんは言う事を聞かない。期待感をあおるだけ煽り、いざ目前で叶わなかったのだから、五才児のメンタルではしょうがない。


 ここは日をあらためてと言おうとしたら、ポルシェを見学にきていたおじいちゃんが言った。


「生駒商店のバンで行っといで。みつポルシェはまた今度乗してもらい。今日の目的は植物園やろ」


 そういうことで、車体に大きく「生駒商店」と入ったライトバンでお出かけする事にやっと落ち着いた。運転するのはもちろんあるはん。

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