第五話 紅茶染め
翌日、大学から帰るとそっと玄関を開ける。今朝土間に止まっていた自転車がなくなっていた。あるはんは下鴨神社横のマンションからここまで、ハマーの黄色い自転車で通勤している。
かばんを置いて、お隣の生駒商店へ。誰も座っていない受付を素通りし、奥へ。社員さんが私に気づく。
「会長はいはりませんで。なんや出はったみたい。社長なら倉庫にいたはります」
亀じいちゃんの居所を教えてくれた。それにしても鶴の方は何をしてるのやら。
亀じいちゃんは、段ボールが積みあがった倉庫の片隅にいた。
「ゆきちゃんどないしたんや。兄貴はおらんで」
むしろ、鶴より亀の方がこの場合頼りになる。同じ双子だけど、生真面目な雰囲気の亀じいちゃん。頼りがいのあるがっしりした体格の亀じいちゃんに話しかけた。
「毛糸のバック作りたいから、極太で何かない?」
「あー極太の毛糸か。ちょっと待ちや」
そう言うと、倉庫の勝手口付近に置かれた箱を持ってきた。
「これこれ、糸むらがあるからはねたやつや。これやったらあげるわ」
染められていない白い毛糸。どこに糸むらがあるのか素人目にはさっぱりわからない。段ボール箱にどっさりと入った状態で亀じいちゃんは私に差し出した。
私はありがたく頂戴し、仕事の邪魔にならないよう退散しようとしたら、呼び止められた。
「そうやそうや、植物園のチケット渡さな。ちょっと待ってて」
そう言って今度は事務所の方へ行ってしまった。
今週の日曜日、光流くんと植物園にいく約束をしたのだ。その日市香ちゃんは東京へ雑貨の展示会へ。柴田さんは日勤。亀じいちゃんと竹さんも用事があって、光流くんのおもりがいない。
そこで白羽の矢が立ったのが私という訳。光流くんはデートだって喜んでいた。
亀じいちゃんがいそいそと戻って来た。
「はいこれ、ただ券」
段ボールを足元に置き、植物園の優待券を受け取った。
亀じいちゃんの趣味は菊づくり。毎年植物園で行われる菊花展に出品している。なので毎年ただ券がもらえるのだ。
「今年はどうだった?」
もう菊花展は終わっているので、今年の成果を聞いた。
菊花展では、その花の美を競うのだ。最高賞は京都府知事賞。
「今年は、ライバルの北川はんが土づくり失敗しはったから、わしが知事賞とったんや」
そう言って、亀じいちゃんは黒い笑いをもらす。私はよかったね、と言いつつチケットを見ると二枚あった。
「光流くんの分もいるの?」
たしか中学生以下はただだったような。
「ああそれな、あるはんの分や」
はああああ! ここまで魔の手が忍びよってるのか。
「今朝ここへ挨拶にきはって、そん時にちょうどみつがいて植物園楽しみやゆうたら、いったことない言わはったし」
お隣にまで挨拶にまわるなんて、ぬかりがない。
「あるはん、ええお人やなあ。菊づくりの話も熱心に聞いてくれはって、今度見たいやて」
自分の押しを褒められ、頬を染める女子高生みたいな亀じいちゃん。
「よく光流くんオーケイしたね」
とてもじゃないが、あの二人、仲良くできないと思うんだけど……なんせ信長と光秀だから。
「ポルシェ乗せたげるて、あるはん言わはったら喜んでたで」
光流くんは男子幼稚園児の二大派閥、電車派と車派において車派に所属している。特にスポーツカーが大すきで、ミニカーもたくさん持っている。
そりゃあ、ポルシェをちらつかせたらイチコロだったろう。
ということは、今度の日曜日三人でお出かけ……。
あるはんが連れて行ってくれるのなら、私いらないよね。そう思っても光流くんの悲しむ顔を見るのは、忍びない。
忍びないけど、私は確実に信長様に包囲されているんじゃないだろうか?
じわじわと、まわりの仲間を切り崩して裏切らせる。気づけば、私一人孤軍奮闘。
勝てる気がしない……。
植物園のチケットをポケットに突っ込み、段ボールをかかえとぼとぼと帰還。店番をしている市香ちゃんの元へ。
泣きつきたい。泣きついて嫌だと言いたい。でも私も二十一。こんな理不尽に負けていられない。ああ、負け戦とわかっていても魔王とだって戦ってやるさ!
「亀じいちゃんに糸もらってきた!」
心のうっ憤をかくし私は朗らかに言った。
「どれどれ、うん。これぐらいの太さやったら、八号針でええわ。ちょっと待って今編み図かいたげる」
「バック底がこげ茶で毛糸がまっ白。木の持ち手だったら、なんかまとまりないかな?」
「そうやなあ。この毛糸染めに出す? でも時間かかるしなあ。バック底は明日到着予定やわ」
もう今すぐにでも編みたい気分なのに、これ以上待てない。
「自分で染められないのかな?」
「そうや、自分でし。簡単な紅茶染めとかは?」
「紅茶ってあの紅茶で染めるの?」
「そうそう、茶葉はなんでもええわ。ベージュに染まるし、木の持ち手とあうんちゃう? ネットで検索したらやり方出てくる」
そう言って、メモ用紙に書いた編み図を私に見せる。
「八段ごとに
ざっくりな編み図を書いてくれた。まっこれでわからなかったらまた聞けばいいか。とりあえずベージュの毛糸にするべく、紅茶染めをしてみよう。
ネットで検索したところ、紅茶染めはいたって簡単だった。染めた毛糸を干さなければならないので、お天気の日を選び、さっそく作業に取り掛かった。
ダイニングテーブルに材料を並べる。
毛糸だいたい、三百グラムほど。これは、一度水につけておく。
おばあちゃんが煮物で使っていた大鍋に、水を二リットル。
去年のお歳暮でもらった、賞味期限が切れそうな紅茶のティーパック十個。
鍋にお湯を沸かし、沸騰してからティーパックを入れた。しばらく煮だし、染めたい色より濃い色になったら、水を絞った毛糸を入れればいい。
淡いベージュより濃い色目にしたいので、しっかり紅茶を煮出す。
よし、これくらい。さあ毛糸を入れようとした瞬間。内玄関の戸がコンコン。ノックされた。
「すいません、お水をくませてください」
あるはんだった……。
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