第二話 川をわたる

 大きくふみだした私の偉大なる一歩が石に着陸する前、耳へ流れこんできた低くて渋い声。同居する母方の祖父の趣味は写経。なのでこのお経にはなじみがあった。あったけれど、それを唱えてるのはおじいちゃんでもなく、ましてやおばあちゃんでもないはず。


 私は思わず、モデルさんの顔を拝もうと頭を九十度にぐきっと横へ向けた。

 そのご尊顔を拝もうとしてばちがあたったのか、それとも重い帆布バックのせいなのかバランスを崩し、あわや川の中に頭から突っ込みそうな事態に陥ってしまった。


 ぐんぐんきらめく川面が近づいてくる。この陽気、濡れても風邪ひかないかな。

 いやいや風邪ひくぐらいたいしたことじゃない。骨でも折ったらどうやって帰ろう……。


 って、のんびりしてる場合じゃないから!

 そう思った瞬間。私の腕は力強く引っ張られ、大きく傾いだ体が元の石の上に無事おさまった。


 生命の危機とまではいかなくても、負傷寸前の危機を回避できた私の胸は破裂寸前。その衝撃に耐えかねへなへなと膝から崩れ落ちた。しかしこの状況でも、命の恩人にお礼の一言を言わねば。


 わななく胸に手を当てながら、まだ腕を支えてくれている命の恩人を見ようと、私は顔を上げた。


 人にお礼をする時は、相手の目を見て言うのが礼儀。そう小さい頃から、母に口酸っぱく言われてきた。母は私の内向的な性格が人様に不快に思われないよういつも気にしていた。私にはそれがものすごくプレッシャーだったけれど。


 そんなことはさておき、今目の前にいる人の瞳はヘーゼル。秋のからっとした光の下ではゴールドに見える瞳。


 命の恩人はおじいちゃんでもおばあちゃんでもない。よりによって超絶ほりの深い外国人だった。おまけにイケメンときている。だめだこんな人と目を合わすなんて、メデューサに睨まれたも同然、石になって死んでしまう。


 眉と目の間隔ゼロ。双眸は谷底に光る星のごとし。その鼻エベレストのごとくそそり立つ。唇はあくまでも品よく引き結ばれている。それらが混然一体となり奇跡の調和を生み出していた。


 平たい顔族の代表みたいな私は思わず石にならないよう顔をそらし、母の教えにそむきそっぽを向き、とりあえずお礼の言葉をひねり出した。


 早くこの場から逃げ出したい。私はこの外国人に受けた恩をさっさと忘れ、とっとと次の石へ飛ぼうとした。

 

 それなのに、このイケメン外国人は腕を離してくれない。

 抗議するにはまたあの顔を見ないといけない。それはもう勘弁。ここは腕を自力で外すしかない。そう思い振り払おうとすると、逆に前方へと引っ張られた。私の足は慌ててついていく。


 モデルみたいな外国人に腕を支えられ華麗に石を飛ぶ私。絶世の美青年と平たい顔族の川わたり。とんでもない絵面だ。


 無事、薫の待つ対岸に到着。たった、数メートルの川わたりは三途の川を渡ったくらい疲れた。まわりに人が少なくて本当によかった。

 再び、うつむいてごにょごにょお礼を言ったのに、私の腕は捕まえられたまま。


 なんで? そう疑問に思ったが、はたと重大なミスに気付いた。日本語でお礼を言っても通じないじゃないか。恥の上塗りである。意を決し、つたない英語を絞り出そうとした時、その美青年は口を開いた。


「あなたの名前を教えていただけますか?」


 とっても流暢な日本語で言われた。私は帆布バックの持ち手を握り締め、名前を答える、答えないの二択の狭間で迷う。


「知らない人に名前を言ってはいけません」幼稚園児の頃から刷り込まれている防犯の心得。しかし、相手は命の恩人。もうこの人は知らない人ではないのではないだろうか? 


 いやいや、まてまて。これではお菓子をもらったらもう知っている人、と勘違いしてしまう小学生の心理といっしょじゃないか。


 言うべきか、言わざるべきかそれが問題だ。

 すでにバックの持ち手は、私の汗でうっすら湿ってきている。ええい、ここは断るべきだ。こんなイケメンと接点持ちたくないし!


「この子、弾正だんじょう 雪深ゆきみって名前です」


 思わず、重たいバックをドスンと足元に落としてしまった。薫がのろい私にかわって答えてくれたのだった。


 うつむく私の頭上から、ふたたび命の恩人の言葉がふりそそぐ。


「女性ですか? 男性ではなく」


 ……ひどいよ。そりゃ平たい顔面なんて見分けがつかないんだろうけれど。

 私の髪は三か月に一回は美容院に通って、おしゃれなボブにしてもらっている。一応。今日だってスカートはいてるのに。ひょっとして長すぎて袴と勘違いされた? 


「見たらわかるやん。この子が男に見えんのやったら、目えくさってんのとちゃう?」


 またまた薫が、答えてくれた。売られた喧嘩は買うで、って勢いだけど。

 失礼な外国人は、関西弁スラングの威嚇を理解したようで、「失礼」と一言渋い声で言った。


 それを合図に、薫は私の腕をとり道路へと上がる階段目指してずんずん歩き出した。やっとあのイケメンの前から脱出できた安堵の隙間に、モヤモヤがしみ込んでくる。階段に一歩足をかけ、ためらいながら後ろを振り向いた。


 あの人はまだ、その場に立ち尽くし私のことをじっと見ていた。


                   *

 

 それから大学校内の駐輪所に止めた自転車を取りに行き、家路についた。この国のみやこ――京都人は今でもそう思っている――洛中の中心点である御所の北側。今出川通りを、薫と並んで自転車を押しながら歩く。


「なんかうちさっき、余計な事した?」


 薫が珍しく、しおらしく言う。しおらしいわけも、余計な事の意味もわからない私は「へっ?」と間抜けな返事をかえす。


「だって、あのイケメン雪深にすごい興味もってたし」


「いやいや、ないって。そんなドラマみたいなこと。あんなイケメンとなんて、顔面偏差値ちがいすぎ」


 へへっと笑いながら頭をかく。それに私はドラマみたいな恋どころか、自由な恋愛もできない。


「またそうやって、自分を卑下する。雪深はかわいいって」


 薫は自分の容姿を見慣れているのに、美的感覚がずれている。


「お母さんにはいっつも暗い子って言われてたんだよ。実際いんキャだけどね」


 風が吹いて、御所の木々がざわざわとうねりを上げる。東京のことなんて思い出したくもないのに、こうやって自分から地雷を踏みにいってしまう。せっかく京都に暮らしているのに。今が楽しい。それだけで十分。


 大学卒業後も、京都に居続けるために頭を悩ませている。

 絶対、東京には帰りたくない。

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