第5話 這い寄る影
沙夜は真紅と手をつなぎながら、終わりの街を歩いていた。
店じまいをしている街の住民たちへと、うさぎのぬいぐるみを知らないかと尋ねて回っているが、その結果は芳しくはない。
良くも悪くも、この街はモノで溢れているため、探し物をするのには少しばかり、いや、だいぶ不向きだった。
どうしたものか、と沙夜が唸っていると、くいと、手が引かれる。
「……お姉ちゃん」
「どうしたの? 何かあった?」
ううん、と真紅は首を振ると、ぎゅっと温めるように、小さな両手で沙夜の手を握る。
「わたしね、まっくらなところにいたの」
と、真紅が言った。
何の話だろう、と沙夜が首をかしげると、えと、と言葉を探すような仕草を見せて、真紅の瞳をさまよわせる。
「そこはさむくて、さみしくて。泣きたくなるの」
つたないながらに、何かを伝えようとしてくる。
「一人ぼっちなの。だれもいなくて、わたしはひとり」
とりとめもなく、真紅の口からこぼれる呟きを聞きながら、ときおり不安そうに見上げてくる不安げな瞳へ、聞いているよ、と伝えるために沙夜は頷きを返す。
一人は寂しい。
それは沙夜にも、痛いほどわかるから。
でも、と真紅はうれしそうに笑ってくれる。
「お姉ちゃんがいてくれるから、さみしくないの。あたたかくて、うれしいの。……えと、だから、だからね?」
ぎゅっと沙夜の手を握ってくれる。
やはり、その手はひんやりとしていて。
「こうしたら、お姉ちゃんも、さみしくないの」
「え?」
「お姉ちゃん。さみしそうな顔してたから、わたしが、いっしょにいてあげる」
そう言って、真紅は笑う。
沙夜は内心で苦笑をこぼした。こんな子どもにまで気を遣わせて、何をやっているのか。
「……お姉ちゃんは、わたしといっしょに、いてくれる?」
「うん。ありがとう。ちゃんとぬいぐるみが見つかるまで、一緒にいるよ」
「ほんと?」
ぱっと表情を明るくした真紅へと、もちろん、と答えようとした。
そのとき、どこか遠くから、荘厳な鐘の音が響いてきた。
ああ、これがきっと、喫茶店を出るときに沙夜の言っていた『時計台の鐘』なのだろう。鐘が鳴ったら帰る、というのは、どこか子どものころを思い出して、ついと沙夜は頬を緩めた。
さて、この子が安心できるようにと、沙夜が微笑もうとした、そのとき。
『――お前のせいだ』
耳元で囁かれたかのような低い声に、沙夜は弾かれたように振り返った。
耳を押さえながら振り返った先には何もない。撤収準備をしている露天商たちがちらほらと散見されるだけで、耳元で囁くようなことをできるモノはいない。
「お姉ちゃん、どうしたの?」
真紅が不思議そうに見つめてくる。
聞こえてない? と、沙夜は訝しみながらも、真紅を安心させるように何でもないよと微笑もうとして。
『――お前のせいだ』
その声に、表情を凍り付かせた。
背筋に冷たいものが走る。直接、頭の中へと話しかけられているかのような、おぞましい感覚に、沙夜の体は壊れた人形のように震えだす。
『――お前の、せいだ』
また、声がする。
重く、冷たく、粘つくような低い声。負の感情を煮詰めたような、どろりとしたものが、沙夜一人に向けられている。
……影。影だ。
夕日によって引き伸ばされた真紅の影が、沙夜の影が、道行くモノたちの影が。揺らめき、歪なヒトガタを模してゆく。
そうして、彼らは話し出す。ひそひそと、陰口のように。
『ああ、可哀そうに。可哀そうに。あの娘さえいなければ死ななくてもよかったのに』
『本当に。あの娘がわがままを言わなければ、あんなことには』
『一人じゃ何もできないくせに、人様には迷惑ばかりかけて』
影が揺れる。歪んだ笑みを浮かべながら。
影が揺れる。口々に、
思わず身を引いた沙夜の足音に、ぴたりと声がやむ。そうして、ゆらりと。ひそひそと話をしていた影の顔が、一斉に沙夜へと向いた。
にぃ、と三日月のように口の端を歪めながら、見つけたとばかりに影が嗤った。
『――お前のせいだ』
愚かな少女を嘲るように、人の弱さを見下すように。
「――違うっ!」
反射的に、沙夜は叫んでいた。
けれど、そんな沙夜を嘲笑うかのように、歪なヒトガタが、ゆらりと揺れる。
『お前のせいだ。お前さえいなければ』
「……ち、ちが」
『ああ、可哀そうに。まだ若かったのに。お前がいたから』
「……わ、私のせいじゃ」
『きっと恨んでいるだろうねぇ。なんせ、お前に殺されたんだから』
「……違うっ! お母さんたちはそんな人じゃないっ!」
沙夜が耳をふさいでも、叫びを上げても声はやまない。
直接、頭の中へと声が響いているかのように、はっきりと。
『――痛い、痛いわ。沙夜、どうして?』
『――ああ。どうして……父さんたちを?』
「――っ」
影が、両親の声を、口調を真似る。
心臓が早鐘を打つ。呼吸が乱れて息ができない。ざぁと耳鳴りもする。
『沙夜。こっちへおいで』
歪なヒトガタが、影から這い出しながら、ゆっくりと沙夜へと手を伸ばしてくる。
「い、いやっ」
沙夜が伸ばされた手を振り払うと、ぴたりと影たちの動きが止まった。
頭の中に響いていた影たちの声も、揺らめいていた歪なヒトガタも、何もかもが。
え、と一斉に動きを止めた影たちに沙夜が呆けた声をこぼすと、どうして、と声がした。その声に振り向くと、そこにはうつむいた真紅が立っている。
表情は、影になって見えない。
「ねぇ、どうして?」
と、真紅が問うてくる。
その影の中から、血に濡れたような輝きを灯した、紅い瞳で沙夜を見つめて。
「どうして、にげるの?」
ざわりと、真紅の影が揺らいだ。
まるで、彼女の感情の揺らぎを映したように。
「……真紅、ちゃん?」
「……一緒にいてくれるって、わたしと、いてくれるって、言ったのに」
「ど、どうしたの?」
「――どうして、いっしょにいてくれないの?」
真紅は泣いていた。
紅い瞳から涙をこぼしながら、頬を伝う涙を拭うこともなく、ただじっと沙夜のことを見つめて。
「――どうして、みんなわたしを一人にするの? どうして、遊んでくれないの? どうして、……ねぇ、どうして?」
ざわざわと、影たちが揺らぎだす。
真紅の影が歪む。少女の輪郭が揺らぎ、ぼやける。
「――ああ、そっか。お姉ちゃんもわたしを、捨てるんだね」
そう言って笑った真紅の姿が、どろりと溶けた。
……代わりにそこに立っていたのは、ぬいぐるみ。
くの字に曲がる、頭から伸びた長い耳。
可愛らしくデフォルメされた柔らかそうな体に、短い手足。ぐるぐるの包帯。
口元はそういうデザインなのか、波打つように歪んでいる。そして涙を流しながら、こちらを見つめる瞳の色は――真紅。
真紅が探していたぬいぐるみの特徴そのままの、ぬいぐるみだ。
ああ、と沙夜は痛みをこらえるように胸を押さえた。
『お姉ちゃんも、こっちへおいでよ。……そしたら、さみしくないよ?』
ぬいぐるみが、そっと沙夜へと手を伸ばすように、その短い腕を持ち上げる。
ずるりと、動きを止めていた影たちが這うように動き出し、口々に何事かを囁きながら、ゆっくりと沙夜へとその手を伸ばしてくる。
『沙夜。こっちへおいで』
影が、両親の声を、口調を真似る。
ぞわりと足元から這い上がる悪寒に、沙夜は唇を噛んで駆けだした。
道行くモノたちが驚いたように沙夜へと何かを叫んでいる中、沙夜はその雑踏を押しのけるようにして、みっともなく逃げ惑う。大通りを、細い路地を、夕暮れに染まりゆく終わりの街を、闇雲に走り回った。
しかし、どれほど早く走っても、建物の影に隠れても、影はしっかりと沙夜の後ろをついてくる。
逃げる。逃げる。逃げる。
ただ、恐怖に突き動かされるように、闇雲に走った。
どこかにぶつけたのか、体中が痛かった。どこかで転んだのか、膝からは血が流れていた。それでも、沙夜は影から逃げるように走った。
だが、自分の影から逃げられるはずもない。
人通りの少ない通りの、アンティークな意匠の街灯を背に、沙夜は乱れた息を吐いた。
影が揺れている。歪なヒトガタが嗤っている。
そして、ぬいぐるみの紅い瞳が、ただじっと見つめてくる。
――嫌だ。嫌だ。嫌だ。
乱れた思考の中で、沙夜は叫んでいる。しかし、その声が聞こえるわけもなく、恐怖に歪んだ沙夜へと、歪なヒトガタが手を伸ばしてくる。
この手に捕まったら、帰れなくなる。そんな確信があった。
ゆっくりと、手が伸びる。
にぃ、と歪なヒトガタの口元が歪む。まるで、恐怖する沙夜を嘲笑うように。
(……まだ、まだ死にたくない。……まだ、私はお母さんたちにっ、)
影の手が、沙夜の首元へと触れようとして――歪なヒトガタが、横から巨大な何かに殴られたように軽々と吹き飛んだ。
「……ぇ?」
わけもわからず、沙夜の口からは呆けたような呟きがこぼれる。
たん、と軽やかな靴音とともに、ふわりと舞う、モノトーンの給仕服のスカートと、銀色の髪。
舞い降りた人影の、紺碧の瞳が呆れたように細められる。
「――だから、言ったじゃないですか。気をつけて、と。道を失ったら帰れなくなりますよ」
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