第3話 新月
加川の手は暫くの間 止まっていた。
それはもうマッサージと呼べるものでは無く、触っていると言う状態だった。
カオルの背に触れていると。カオルが枕に顔を埋めながら喋り始めた。
その声で、ぼんやりとしていた加川の瞳に 正気の灯が戻る。
正気に戻ったばかりだからなのか、カオルが枕に顔を埋めているせいなのか、カオルの声は妙にくぐもって加川の耳に届いた。
「私の作った話しはきっと面白くないわ」
「そんな事はないだろう。キミのお喋りは楽しいじゃないか」
また加川を違和感が襲う。
「ねぇ。どんなに楽しいことも、繰り返されれば鮮やかさを失うわ」
カオルの声の くぐもりが増す。
「いったい、どうしたんだい?」
その質問をした途端、冷や汗が出る。
妙な感覚だった。
こんな記憶は無いのに、以前も 同じ流れを辿って、同じ質問をカオルにした気がする。そう加川は感じた。
ありふれた質問だ。していてもおかしくない。
加川は気を保とうと 頭を振る。
と、突然 うつ伏せに寝ていたカオルが首を捻って加川を見つめながら言った。
カオルは泣いている。
「ねぇ……知っている?」
加川は身構える。
知っている?覚えている?
いつの頃からか、加川はその質問に対して、怯えを感じるようになっていた。
*
妻が泣いている。
ポロポロ ポロポロ涙がこぼれている。
泣きながら、あんなに世間知らずだった妻が、気丈な声を作って私に告げる。
「————あなたが私の話しを楽しんで聞いてくれるのは、あなたが全てを忘れて行ってしまうからなのよ」
(ウソだ……)
「全て?それは言い過ぎだろう。 確かに僕はボンヤリ屋さんだけど、何から何まで忘れるなんて有り得ないよ。 キミの旅行のお話しは面白かったよ。 ホラ、それは覚えてる」
妻はクシャリと崩れたような笑顔を浮かべた。
「そうね、ごめんなさい。覚えている事もあるわね。 でも、どこに行ったかまで覚えている?」
5年前に加川は脳腫瘍の手術を受けた。
手術は成功し、加川は一命を取り止めたが脳にはダメージが残った。
加川の脳には、結婚後14年間の思い出しか残らなかったのだ。
新たな記憶を維持できる限界は、おおよそ24時間であり、24時間を超えて記憶できるかは、きまぐれな神の気分次第である。
古い記憶を洗い流し、新しい想い出は降り積もらない。
*
カオルは悲しかった。
この やり取りも、もう何回したことだろう。今までと同じであれば、このあと加川はカオルと一緒に泣く。
しかし、明日には一緒に泣いたことも忘れてしまう。
カオルだけが悲しみを引きずるのだ。
5年のあいだ、加川は毎日 新鮮な気持ちでカオルを愛してくれた。その愛はいつまでも変わらない——変われない愛であったので、カオルも変わらず愛して行く事ができた。
しかし、カオルには恐れていることがある。
それは、どうせ忘れてしまうからと言う、カオルの傲りだ。
加川は忘れてしまうが、その時々に感じている感情は本物であることを、カオルは頭では理解している。そして、加川は自分自身が記憶障害である自覚が無いせいか、自身が記憶障害であると知った時に、酷く傷つくことも分かっている。
ひどい時は、自覚した時にリセットが起こる。
最初のうちは、––––今でも、カオルは加川がショックを受けないように気を使っている。
けれども、カオルも疲れてしまう時があった。
加川とは幾ら思い出を、注いでも 注いでも、共有する事が出来ない。
加川がこういう状態になってから カオルはときどき立ち止まって、二人の将来を考えなければならない立場になった。
愛も糞もなく、生きて行くために現実的に未来を見る時、その果てし無く続く荒涼な景色に カオルは絶望する。
隣では加川が優しく笑うが、加川の目に映っているのは、結婚後、14年間の満ちて行くまでの景色だけだ。
加川の瞳が優しく笑うほど、同じ未来が見れない事実を突きつけられて カオルは立ち止まったまま、歩き出せなくなる時がある。
そんな時に加川を見るカオルの目は暗く———
大きな荷物を見るようだった。
今日も教える必要がないのに、覚えておいて欲しくて 加川に余計なことを言ってしまった。
加川が傷つくのは分かっていた。
傷つけてでも 覚えておいて欲しくて言ったが、傷ついても どうせ忘れるのだから、そんな思いがあったのも確かだ。
蘇生の早い心臓に グサグサとナイフを刺して、八つ当たりをしている。
分かっていても 止められないときがあって 怖かった。
*
カオルは泣きながら黙って加川を見ていた。
加川はショックのせいでボンヤリとしている。
いや、ボンヤリとしているのはショックのせいばかりでは無い。そろそろリセットの時間が近いのだ。
加川の脳には一日に一度 新月のような闇が訪れ、闇はその日の思い出を全て奪い去って行く。
夜が明ければ、そこにいるのは14年前の加川だ。
(私もリセットをしよう)
カオルはアルバムに挟んである 加川が書いた、
『思い出は月のように』を手に取った。
その原稿用紙はセピア色になり カオルが何度も繰り返し読んだので、ぼろぼろになっている。
けれどもカオルは、読む度に はじめて加川の言葉に触れたときの喜びを、鮮やかに思い出すことが出来る。
(満ち欠けをくりかえし、私は前に進むのだ…)
物語りは、こう始まる。
「ねぇ……
思い出は月のように 神帰 十一 @2o910
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