第1章 オリエンテーションなき初勤務編
第17話 新しい朝が来た
目が覚めると、寝室はまだ暗かった。
俺は何度かもぞもぞと身じろぎすると、横になったまま大きく伸びをした。
綿の
広いベッドは俺が両腕を横に伸ばしても端に届かないくらいの余裕があり、今まで体験したことのないその快適さは、しかし素直に喜べるものではなかった。
この世界が、一晩の夢で終わることはなかったという証明なのだから。
目覚めたら敷布団をマットレスの変わりに敷いた、宮城県の端っこにある自宅のベッド、ということにはならなかったようだ。
ほとんど何も見えない暗闇の中で身体を起こし、ベッドの左端まで四つんばいで移動すると、俺は天蓋、そう天蓋なんて身に余るようなものに手をかけて、それを開いたのだ。
枕元に光が差し込む向きに造られた窓、それ覆うカーテンの隙間から意外なほどよく光る月明かりが一条、こちらへさし込んできていた。
そのおかげか天蓋をひとつめくっただけで、まだ夜明け前の室内は明かりがない割に物がよく見えるのだった。
頑丈そうな木の枠とゆるやかに波打つカーテンで囲われた窓、やたらでかい鏡のついた装飾の細かい鏡台、雲形定規が渋滞を起こしたような模様が並ぶ壁が見える。
目元をこすりながら、やわらかい毛に覆われたスリッパを履いて、板目が斜めに並ぶ床を歩き窓の方へ。
カーテンを少し開いてみる。
外、月の光が映し出す景色は石の道、レンガの家、もみの木のような針葉樹。
向かって右からの白い月光を浴びたそれらは、みな一様に黒く長い影を左に伸ばしていた。
その影を目で追うようにずっと左に視線をやれば、空と町並みの境目辺りから、朝日の茜色を作るための卵みたいに藍色がにじみ出てきたのが見えた。
そこで俺は、アメリの言葉を思い出す。
「明日、夜明けにここで集合ね! クエスト一緒に受けよう、いろいろ教えるから!」
冒険者ギルド、あの場所へ夜明けに集合だ、と。
銀髪の毛先を肩の辺りで揺らし、口をパカッと開ける愛想のいい笑みを浮かべて、小さな先輩は確か、そう言った。
その笑顔も言葉も、はっきりと記憶に残っている。
あんな顔で言われたら仕方がない。
危ないことはしたくないが、もうすぐ日も昇るだろうし、身支度を整えて行くしかないだろう。
そこでふと、俺は右手の甲を確認した。
猫耳フードの魔導師が不思議な力で輝かせた俺の右手の甲を、昨夜この寝室で眠る前に何度も見返したのと同じように。
あの時、グロウに握られた手から広がる虹色の光は、最後に紫に収束した。
鮮やかな紫色は光から実体へと凝固したかのように、手の甲に宿ったのだ。
手首側に行くにつれて細くなる太いギザギザが中央を走り、その周りを細いギザギザがまとわりつくようにいくつも囲う紋様が、右手の甲に刻まれている。
アメリと初めて会った時に見せてもらった、炎を模したような流線が連なる赤い紋様とは色も形も違っていた。
あれがスライムを葬ったときの炎の魔法を指すなら、これはつまり。
「
未知のものが自分の手に宿っているという言い知れない気持ちを、フローリングの床にこぼすようにして独り言を呟く。
なに真面目な顔で雷属性とか言ってるんだよ、厨二病もほどほどにしろ。
と、誰にも聞かれていないのをいいことに独り言を続けたいところだけど、冒険者ギルドが総員総毛立つような魔導師グロウがあれだけファンタジー全開の大仰なことをしておいて、ただ痛いだけの厨二タトゥーということも、よもやあるまい。
この刻印によって、あんなふうに、アメリがやったように魔法が使えるのだ。
あのソプラノリコーダーみたいな声でほにゃららファイヤー! とか言って火の玉を撃ち出したみたいに、俺もなんちゃらサンダー! とか言ったらどっかから電撃が出るのだろう。
本当に出るのだろうから、ここで試すのはやめておこう。
……しかしだ。
かっこいいポーズくらい、練習してみてもいいのではないか。
はっきり言っておこう。
俺は別に、ファンタジーの世界で剣と魔法の大冒険がホントにできたらなーとか思っちゃうようなタイプの人間ではない。
肝心なときに頼りにならない筒井工場長とか、キレ散らかすと手に負えない営業の長谷沢とか、元の世界の仕事ではモンスター人間はいたけど、本物のモンスター相手に命を懸けるわけじゃなかった。
くたびれるばかりの仕事だったけど、得られる安月給でロックバンドのCD買ったりライブに行ければ俺はそれでよかったので、気持ちはどちらかといえば元の世界に帰りたいくらいだ。
……しかし、しかしだ。
そんな俺とて、いざ自分が本当に魔法を使えるとなれば、これは高ぶる気持ちがないわけじゃあない、仕方ない。
なんたって、魔法が使えるんですよ?
火薬でもVFXでもない、マジモンのサンダーですよ?
やはりかっこいいポーズくらい、練習してみてもいいのではないか。
いいのでは、ないだろうか。
開いた右手の平をこっち側に向けて顔の斜め前に出し。
ちょっとアゴを上げながら前方へ腕を伸ばす。
「ッッさんだーーーーーーーーーーっ」
まだ暗い周囲に配慮してボリュームを抑えつつ、「さ」の歯擦音を若干タメ気味にして俺は魔法を唱えてみた。
「ん?」
何も起こらない。
27歳独身男性、完全に痛い厨二病ポーズをキメてしまった。
その直後だよ。
「キクミヤ様」
「うぉええいす!?」
部屋の入り口のドアが静かに二回叩かれて、一人のメイドが頭を揺らさない滑らかな足取りですぐさま無遠慮に入ってきたのは。
俺は返事のなりそこないみたいな返事をするのがやっとだった。
そのメイドの細いことといったら、服の上からでも明らかなほどだった。
スレンダーと痩せすぎの境界線みたいな細さのボディに乗っている褐色肌の顔は、まるで無表情を己が信条としているかのような鉄面皮。
「おはようございます。グロウ様より、夜明け前にお起こしして冒険者ギルドまでお連れするようにと仰せつかっております。お支度に何かお手伝いすることは?」
「あ、いえ、大丈夫です……」
急に出てこられたものだから、何を言われたのか半分理解できないまま生返事をしてしまった。
「それでは、部屋の外でお待ちしております。ギルドまでは距離がありますので、馬車をご準備いたします。では後ほど」
言うだけ言って、メイドはさっさと部屋を出てドアを閉めてしまった。
終始足音が小さい女性だった。
「はあ、見られた」
一生の不覚だ。
あろうことか、あんな痛いポーズをとっていた直後にずけずけと部屋に立ち入られてしまうとは。
ああ、パソコンの前にパンツを下ろして座っているのを母親に見つかったときと同レベルの死んでしまいたさ。
むしろ消すか?
あのメイド、サンダーで。
まてまて、俺は何を。
一瞬浮かんできた物騒な考えを頭の隅に追いやると、俺はまずカーテンをすっかり開け、寝間着のガウンから転移時に着ていた服に着替えることにした。
日が昇ってくる前に、アメリと合流しなくては。
ベッドの脇に脱ぎ散らかしていたはずの衣服は、いつ誰がやってくれたのか知らないけど、同じ場所にきれいにたたまれていた。
ちょっと気味が悪いが、さっきのメイドだったらやれそうな気がする。
上下を着替え、鏡台のところに置いてあった洗面器の被せ物を取って、ああそうだよな、水道ってのはないんだよなと思いながら中の水で顔を洗ったあと、改めて鏡を見る。
スライムに映った時ははっきり見えなかった全身の装いが、月明かりのおかげで確認することができた。
この服を着た自分をちゃんと見つめたのは、今が初めてなんじゃないだろうか。
紺をベースに、生地を様々四角に切る白い模様が施された前合わせのトップスと、同系色のボトムス。
ザ・ヨーロッパといった風情のファッションであふれるアグゥの町の中で、この作務衣みたいな格好が目立たなかったのは。
「んしょっと」
その上に纏った、これのおかげだ。
身体のほとんどを隠すことができる黄褐色のフード付きのポンチョ、いやいや、ファンタジーの世界に来たんだし、丈の長さからしてもマントと呼ぶのが相応だろう。
そう、マントのおかげ。
順番を間違えたと思いながらも手に水をつける。
町のみんなに比べると地味に思える黒髪ツーブロックを、前髪上げ気味に七三風に撫でつけると、冒険者キクミヤのできあがりだ。
転移前の時点でひそかに20キロのダイエットに成功した身体は中肉中背、これといって語るような特徴もない薄い顔は、会社勤めのストレスが眉間に地割れを起こすのをすんでのところで食い止めているのが唯一特徴といえば特徴か。
さて、行くか。
俺の、俺だけど菊坂フミヤではない、キクミヤの新しい朝はこうして始まろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます