第5話 アグゥの町


「あの二人、中に入れて大丈夫でしたかねえ」


「いいんじゃね? 男の方、本当に魔召紋ねえし。あぶねーだろ」


「そうなんですが、見覚えがない気がしましてねえ」


「まあな。でも実際、夕方頃に現れて、俺らが助けたことにしとけば」


「お互いこともなし、というわけですかね。男のほうもなんだかぼーっとしていて」


「無害そうな顔してたもんな。サボり分も、小遣い程度で誤魔化せるならいいか」


「だいたい日当分くらいはくれてやりましたからねえ」


「え、お前そんなにやったのか!? バカじゃね?」


「何を勘違いしているのです? あの子の、日当分ですよ」


「あ、そゆこと。俺もそんくらいだ」


「合わせて日当二人分ですか。安いもんですね、なんせ」


「俺らの日当の、たった三割だしな」





「ここがアグゥの町だよ」


 丘と同じ名前なのか、シンプルだな。

 俺は目の前の景色をぐるりと見渡した。


 トラックが一台通れるくらいの道が、正面にまっすぐ伸びている。

 石やレンガでできた家が、その両脇で壁のように視界をせばめていた。

 この道に人はほとんどいなかった。


 だけど改めて前を見ると、少し先で道がクモの巣状に集束していて、そこにはたくさんの人々が行き交う姿があった。

 人が人の営みを育む、音と匂いであふれていた。


 子供がはしゃいでいるのを見守る母親、道の隅で開かれるいくつもの露店から張りあがる声、どこかへ急いで歩くかしこまった襟の服を着た男。

 俺はまだ見慣れない光景で暮らしている人々の中から、自分の理解できるものを探していく。


 それぞれの通路は中心で集まって、そこが広場になっている。

 花壇に囲われた噴水があって、その横で誰だかわからない人の彫像が水瓶を持ち、そこからも水が途絶えることなく流れていた。


 元の世界のような近代的な高層ビルなんてどこにもないのに、俺はそういう建物が立ち並ぶ東京に初めて出かけた時の感情が再来するのを感じた。

 田舎では体験することのない、賑やかさに呑まれて自分の存在が薄くなっていくような感覚とともにやってくる孤独を。


 建物の隙間を縫うように電車が走るビル街とは形が違っても、この町は都会なんだと俺は理解した。


「はあ、やっぱり。初めて見たって顔してる」


 アメリが呆れたような苦笑いで俺にそう言った。

 その声で少しだけ、俺の存在が濃さを取り戻したような心地がした。


「だって、本当に初めて見た景色だから。全部知らない場所だよ」


 ぼんやりしたような声で返事をしてしまった。

 だって、この町のどこに何があって、そのうちのどれに行って何をすればいいのか。

 そういうことも全部知らないんだよ、俺は。


 もしかしたら、俺はこれからここに住むようになって、あの人ごみの中の誰かと仲良く話でもしているのだろうか。

 今の俺には、自分がこの町に違和感なくとけ込み、風景の一部になるところがまだ想像できなかった。


「仕方ないなあ。それじゃあキクミヤ、最初にこれからお昼まで町を案内するね」


「うん」


「その後はごはん食べて、そしたら家のこと手伝ってほしいな。助けてあげたんだからいいでしょ?」


「家のことって?」


「うん……」


 恩を売って何かさせようという割に、アメリはその先を言いよどんだ。


「俺にできることなら、やるけど……」


 勢いは悪いけど、俺はアメリの顔を見てほとんど本能的にそう返事をした。


「おっ、いいの!? じゃあ掃除と洗濯物の取り込みと、晩ごはんの下ごしらえ!ガーッとやるから手伝って!夕方までに済ませておきたいから!」


 目をぱっと見開いてアメリは早口でまくし立ててきた。

 何をやらされるのか心配したけど、そのくらいならなんとかなるだろう。


 あの、言いよどんだ一瞬。

 助けたくなる顔をしていたと感じた。

 ステージの上で笑顔で踊るアイドルが、ずっと隠しているはずの不安やしんどさの雫を、気が緩んで汗と一緒にぽたりとこぼしたような、そういう顔。


 したたかに生きているようで、時にこんな顔もするんだな。

 アメリだってまだ歳相応に子供なんだ。

 あの子に頼りきりになっていたのかと思うと、そんな自分が恥ずかしかった。


 矢継ぎ早に俺に用事を話した後、アメリは少し考え込むように口をもごもごさせていたが、大きく息を吸ってため息混じりに話を続けた。


「うちね、お父さんが病気で寝込んでるの。お母さんは昼間は看病、夕方からは酒場で働いててさ、夜に帰ってくるんだ」


「もしかして、アメリが外にいたのも仕事なの?」


「そ。あたしも稼がないといけないもんね、お母さんの分だけじゃ足りなくて。外でモンスターが悪さしてないか見回ってたの。日が暮れる前くらいにあの門をくぐるまでがお仕事って感じかな」


 そう話すアメリの顔には、さっきわずかに見せたような影は、もうさしていなかった。


 俺の見ていないところでも、あのスライムみたいなやつらを相手に炎の魔法をかましていたのだろうか。

 危険そうだし大変なのだろうが、自分の力で家族を支えていることに誇りを感じてもいる話しぶりだった。


「こんなとこで油売ってて、大丈夫なの? まだ仕事の時間なら、見つかったらまずいんじゃ」


「そこは大丈夫、町の中で見張られてるわけじゃないし。今日はキクミヤのことで門番が何か聞かれても、昼間にあたしが中に入ったって言えないだろうから。夕方ごろに門番からキクミヤ渡されてきたことにしとけばいいじゃん、たぶん向こうもそうするよ」


「はあ、そんなもんなのか。あの大通りには結構人もいるけど、チク……言いふらされたりとかは?」


 日本語が通じるから気にしなくていいかと思ったけど、チクるが通じるか疑問に思えて言い直す。

 どうでもいいことを気にしながら重ねて問いかけた話は、アメリに笑われてしまった。


「しょっちゅうサボってたら怒られるかもしれないけど、しつこく聞き込みされたりしないよ。それにもしもの時はキクミヤのおかげで言い訳できるから、今日は特別ね!」


「じゃあ、その辺はいちいち確認されないし、俺を連れまわしてれば問題ないと」


「そ。で、夕方になったら冒険者ギルドに今日の報告に行くから、そこまでちゃんと一緒にきてね」


「冒険者……ギルド?」


 RPGにはよくありそうだけど、実際に目の前の人間が口にした覚えがない言葉が、また出てきた。


「うん、そこから仕事をもらってるんだよ。キクミヤも働くアテがないならそこで探してみたら?」


「まあ、アメリがそう言うなら」


「でもギルドに行く前に、まずはこの町のこと見てもらうね!うーん、最初はあの大通りと広場を見てもらうのがいいかなー」


 俺はアメリに案内されて大通りにぶつかる道を進み、最初に見えたあの広場に入っていった。

 にぎやかな喧騒は歩を進めるたびに近づいてきて、そこでは誰もが日本語を話しているように聞こえたせいか、俺はほんの少し安堵した。


「ここには露店がいっぱいあるでしょ。食べ物とか普段使うものなんかは、あっちこっち行かなくてもここでけっこう揃うから、覚えといてね」


「すげえ」


 思わず声が漏れた。

 俺の住んでいたところは田舎だったから、ここより生活水準がよっぽど上だったとしても、こんなに人が行き交うのは祭りのときくらいなものだった。


 野菜や果物、魚や肉なんかが露店に並んでいる辺りは、混沌とした匂いになってるけど嫌いじゃない。

 見たことのないものも、元の世界にあるのと似たものもあるけど、どんな味がするのだろうか。

 足が生えたナスみたいなのはいったいなんなんだ、お盆かよ。


 お菓子みたいなものとか、雑貨らしきものとかも売ってる。

 見慣れない金物があれこれ並んでいるのは、よく見たら武器屋じゃないか。


 なるほど。

 この露店街一帯が、町のコンビニみたいなもんなのか。


「あっちの大通りをまっすぐ進んでいくと冒険者ギルド。反対側の、あの煙突のおっきい家からちょっと横道に進んでいくと、あたしの家だよ」


 左手と右手を交互に使って指差しながら、アメリは今日の目的地の方角を指す。

 俺は遊ばれてる猫みたいに、人差し指の動くほうへ視線を向ける。


「ごはんはね、うちの通りのとこ。お店きったないけど、安くておいしいし、いっぱい食べられるよ!」


 俺は自分の住んでいた世界の、そうういうのが売りの店を思い起こした。

 仙台のとある雑居ビルの地下に、床が脂っこくて、料理はやたら量が多い中華の店があったっけ。

 ああいうのだろうか。


 食事の想像をしたら空腹に耐えかねて、腹の虫が盛大に鳴った。


「またキクミヤおなか鳴ってるー!外にいるときからぐっくぐっくうるさかったよ!」


 アメリがけらけら笑って言う。

 でかい声で言うな、恥ずかしい。

 口の中の拡声器をオフにしてくれないか。


 しかしそんなに鳴っていたのか、自分でも気づかなかった。

 他に心配なことがたくさんあったから自覚がなかったのかもしれない。


 外にいる間は後ろ頭を見てばかりいたけど、そんな風に笑いたいのをこらえていたのだろうか。

 俺の腹がちょうど頭の辺りにあったから、よく聞こえていたんだろうなあ。

 今になってちょっと照れくさくなってきた。


「ぷくく、ホントしょうがないんだから。さすが記憶喪失だね。今から行くとちょっと早いかもしれないけど、ごはんにしよっか」


「うん、食べ物目の前にしたらよけい腹へってきた」


「知ってる、そんだけ音してたらね。はー、ちゃんと迷子にならないようについてきてよ」


 ごく自然に手をつながれて引っ張られた。

 日の光を浴び続けた服の匂いがした。


「俺は子供かよ」


 いや、子供みたいなもんか。

 本当に子供のアメリと比べたって、なんも知らないもんな、この町のこと。


 俺は野菜や果物や、魚や肉や、お守りみたいなものや、髪飾りみたいなものやらを売ってる店をキョロキョロしながら、メシどころへと歩いていった。


 何人もの人間とすれ違うが、その中に俺を知る者は誰もいない。

 俺もまた、目の前を通り過ぎていく風景にあるもの全ての名前を、どれひとつ知らなかった。


 握られた手を見つめなおす。

 人生を自分で切り開いていくには、まだ早いように見える小さな右手。

 ああ、まだもうしばらくの間、この子に頼りっぱなしなのか、情けないな。


 迷子同然の俺の左手の向こう側で、アメリだけが『アメリ』だった。


 握られた手……指先の皮が、少し固いような気がする手だった。


「ごはん食べたら家のことすぐやるからね!こういう時じゃないと昼間にできないんだから!」


「ハイ……」


 母親みたいな言い方に、俺はハイしか言えなかった。

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