第2話 俺がテストラン(物理)
これまでの、ほにゃらライダー菊坂は!
「ああ、なんだかよくわかんねえ」
毎日意識がぼんやりするほど日本の工場で働いて。
「ああ……なんだかよくわかんねえ」
ある朝目覚めたら俺の日常全部消し飛んで異世界で。
「あ゛ァーーーなんだかよくわかんねえ!」
そして現在俺はスライムに追われて逃走中ってわけだ、以上。
把握したッ!
このシンプルで受け入れがたい状況を、俺は完璧に理解したッ!
理屈はなんだかよくわかんねえが、とにかくバッチリよくわかった!
つまり! これは! やべえってことだ!
よし、状況を整理した。
もといた世界のトップアスリートも土下座で逃げ出すノンストップ&ゴー。
走り続けることによって、俺の身体に酸素がゴボゴボ循環してきやがった。
背後に迫る危機のせいか、それとも酸素のおかげなのか。
俺の頭はこの意味不明な状況を打破すべく冴えまくっている。
何度目になるか忘れたが、後ろを振り返りスライム野郎を見やる。
だいぶ離れて見えるものの、追ってくる様子は変わらない。
お前は埼玉県民じゃないが、その辺の草でも食ってればいいのに。
推定重量米
あいつの移動はバウンドで、着地したら一瞬弾んで慣性をつけ直さないと跳べないらしい。
縄跳びのときに、縄が下に来る前にリズム取ってなんかぴょんぴょこしてる小学生みたいなあれだ。
自分の身体を上手に使う知性はなさそうに見える。
バスケのドリブルみたいに軽快に進んではこない、ゆえにそこまで追いつかれる心配はない。
高校では陸上部、長距離走県大会2位という、早いとも遅いとも言いがたい俺の脚でも距離を離せてきている。
だけど問題はふたつある。
ひとつめは一回の跳躍距離だ。
下り坂を進んでいるということもあって、一回のバウンドで進む距離が決して短くはない。
勾配が急になるほど、弾んで進むあいつは俺が地面に沿って走る距離をひと跳びで詰めてくる。
ギリギリかわした直後に上り坂があったからよかったものの、すぐ横に着地してきた時は心底肝を冷やした。
そういえばあいつにぶつかったらどうなるんだ?
取り込まれて溶かされたりしてしまうのだろうか。
場所によっては落ちてきた衝撃だけで命が危なそうだ。
ふたつめの問題はあのスライムがいつまで追いかけてくるのかがわからないことだ。
先の見えないことほど人間を疲弊させ、不安にさせるものはない。
ただ、これには一応解決のアテというか目標はないわけじゃない。
俺が不利な下り坂を進み続けている理由はここにある。
この丘が連なる尾根を下りきった先、さっき見えたあの城下町的な建築群だ。
外周を取り巻く壁、その中にひとつ見える門。
俺は走り出した瞬間から、直感でまっすぐそこを目指した。
駆けている間、その直感の隙間を思考が補完していく。
外周には壁があるんだ、街を守るための壁が。
何から守るって、こういう奴らからじゃないのか。
ついでに、まばらだが外壁のさらに外周には林がある。
あの杉っぽい木々は人の手によって植林され、つい最近まで人の手が入っていたものだ。
林業の盛んな田舎に生まれたからわかるよ。
おそらく、あそこに住んでいる人々はいる。
スライム野郎のような存在を知っている。
さすがにあれに対してまったくの無策でもないだろうと思いたい。
俺はあいつに遭遇したせいで、絶賛人生最大の生命の危機だぞ。
いま現在も本当に人がいるかどうかも不安ではあったけど、それは近づくにつれ薄れていった。
ここまで来れば、あの場所には人が暮らしている確信がある。
だって、俺には聞こえているんだ。
大きな設備が軋みを上げる駆動音。
軍隊か何かが揃えて立てる足音。
大勢が言葉を交わす賑やかな喧騒。
人の営みによって生まれるビートが、リズムが、グルーヴが、壁を越えて空から届く。
ごくわずかだけど、雑然とだけど、この耳に確かに響いてきている。
音割れしそうな呼吸と鼓動の狭間でもがく、この胸があの音に焦がれている。
その音を立てている者たちが人間かどうかはわからない。
俺に味方してくれるかはわからない。
スライム野郎をどうにかできるのかもわからない。
なんならこの世界の全てが、もうなんだかよくわかんねえ。
だけど。
「行くしかねぇーーーーー!!!」
今は目の前にある、希望かどうかも定かでない希望に向かって、進むしかないんだ。
道になっているところをわずかにそれて、身体を草の生い茂っているほうへ向ける。
眼前にはほぼ崖のような勾配の、最後の急斜面。
そこへ思い切って飛び込み、草で摩擦を減らすようにして半ば転がるようにみっともなく滑り落ち、俺はついに尾根を下りきった。
思ったより痛い。
やっぱりいざ素人がやるとなると、アニメとか映画みたいにカッコよくはいかないよな。
背中が血みどろになってたりしていないだろうか。
いま俺にHPの数値があったらゴリゴリ減ってるんだろうな。
身体の節々はギシギシいってるし、自分の切れぎれの息なんてうるさくてたまらない。
心臓だけじゃなくて、全身の血管から脈動が耳朶を打つような感覚さえしてくる。
けど、そんなことは気にしていられない。
スライム野郎のバウンドする音が、自分の飛び出した辺りから聞こえてきやがった。
「ちきしょっ……んなあああああ!!」
叫ぶ。
それは見栄もへったくれもない、自分への鼓舞。
痛みと疲労を認識の外にブン投げるようにして、ゾンビみたいに俺は立ち上がる。
下り坂じゃなければこちらのペースに分がある。
あのまっすぐで背の高い木々、その合間を縫うようにして平地を駆け抜けてしまえば街は目の前。
それに運がよければこの辺のどっかに衛兵とか、そういうのがいるんじゃないのか。
走れ。
もといた世界のトップアスリートも、もう一回俺に土下座してから逃げ出す勢いで。
右足は確かに前に進み、一歩を踏みしめた。
だが次の瞬間。
不自然な方向から風を感じ、俺は咄嗟にその右足を蹴って後ろに飛びすさった。
その風は上から来ていた。
どさっという音と共に薄水色の塊が落ちてきて、地面が二、三度大きく揺れた。
ここまできておいてそれはないだろう。
絶望とか後悔とか恐怖とか、そういう類の感情がないまぜになってやってくる。
身体の動きが鈍くなって、走り出すのが遅かった。
スライムはあろうことか、俺の目の前に現れていた。
逃げ場がない。
背中側はさっき降りてきた急な斜面で、ほぼ壁みたいなものだ。
スライムの表面に俺の姿が映る。
スニーカーじゃない、見覚えのない靴を履き。
見慣れた部屋着でない、見覚えのない服を着て。
自分の顔だと思えないほど、怯えて醜い顔をしていた。
スライムには身にまとう物も顔もなく、知性もない代わりに慈悲もなかった。
振り向くという動作もなく、あのぴょんぴょこしたタメを作るのがとてもスローに見えた。
死ぬ。
そう予感する。
そういう時、知覚できる時間が無限にも等しいほど引き伸ばされるというのは、どうやら本当のようだった。
スライムがいったんミルククラウンみたいに広がって、その真ん中にもう一度塊になるような動きの一部始終がこちらに跳びかかってくるためのものとわかっているのに、どう止めていいのかわからず、俺は身を縮めることしかできない。
なんで。
そう考える。
だってそうだろ。
こんなわけのわからないところにきて、こんなわけのわからない奴に今から殺されるんだぞ。
どんな死に方をするのかもわからないまま、どうすればよかったのかさえわからないまま。
この世界に来た理由もわからないまま、あの城下町の中もわからないまま。
わかっていることといえば。
この世界に来なかったら、今日も人格を否定されながら、食い扶持のためだけに働いていたことと。
もうすぐ、俺が死ぬってことだけだ。
そんなのってないだろ。
俺の人生どっちみち終わってんじゃん。
この世に神様なんかいるのかどうかなんて考えたこともないけど、何とかできなかったのかよ。
死にたくないよ。
「コール:スペル・ファイア!」
聞いたことのない声、聞いたことのない音が勢いよく響いて、真っ赤な熱が自分のすぐ前を左から右に貫いていった。
それが炎だと気がつくのは、一瞬後のことだった。
どうやら俺の人としての、いや、生物としての最低限の願いだけは、どこかに届いたようだった。
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