序章 菊坂フミヤの長い一日編
第1話 志望理由は、全くありません
意識がはっきりした時、目の前には何もなかった。
いや、あるよ? 目の前に青い空は。
仰向けになってる俺を支えてる地面は。
だけど、どうだろう。
俺は昨夜、確かに自室のベッドで寝ていたはずだ。
残念だが我が家は、こんな開けた空が見えるでかい天窓のある家ではない。
ごく普通の、田舎の木造一軒家だ。
それに両耳の辺りをくすぐる懐かしい感触、これはあれだ。
子供の頃、冒険マンガのマネして寝っ転がってみた草っぱらそのままだ。
緑のにおいがそよ風に乗って鼻をかすめていく。
子供の頃は土の感触が気持ち悪くてだまされた気分だったけど、今はなんだか心地いいな。
……いやそれおかしいだろ!
ガバッと勢いよく跳ね起きた。
目に飛び込んできた光景に愕然とする。
ここは若草が一面に生い茂る丘の上。
ただその緑色の光景が広がっているだけだ。
ない。
CDの詰まった本棚、壁に貼りつけたポスターやライブグッズがない。
ああ、そういえば毎朝布団の上にいるはずの猫もいない、あいつどこいった?
母さんも爺さんもいないし、車なんか存在する気配すらない。
上半身をひねって草っぱらをがさがさしてみたけど、枕元に置いたはずのスマホもない。
そもそも俺ん家、ないじゃん。
待て待てそんなわけない、きっと寝ぼけて外に出てしまったんだ。
そうおもっておれはれいせいにじょうきょうをせいりするぞー。
いけない、めまいと動悸がする。
俺の家は市内でも割と山がちな場所にある。
夢遊病みたいに歩いてたらこんな原っぱで目を覚ましてもおかしくはない。
おかしくはないはずだ。
いやその時点でだいぶおかしいか。
とにかく。
だからその辺をよく見渡してみれば俺の家だって見えるはずだ。
寝ぼけて一晩フラフラ歩いたところで行ける範囲なんてたかが知れてる。
俺の家じゃなくても近所の家とかコンビニとか見覚えのある道路とか見つからないか?
遠くを見る。
あるはずのものを必死に探すように。
でもやっぱり、目の前には何もなかった。
見慣れた家も、コンビニも国道もない。
俺の生まれ育った町は緑の草原に上書きされたかのように、ついに見つけることはできなかった。
これだけ常識外れなことが目の前で起きているのに、まだ現実味がわいてこない。
夢なんじゃないかと思ったけど、マンガでよくやるように頬をつねる気にはならなかった。
ここはいったいどこなんだ、何がどうなってるんだ。
今になってやっとそういうことが気になってくる。
動揺が鼓動を強くして、心臓の音がバスドラを目の前で叩かれているみたいに鳴り続ける。
止まりそうな息をむりやり深呼吸に変えて、改めて目の前の景色をもう一度見渡してみる。
辺りは草原の続く丘が続いている、ここまではさんざん確認した。
落ち着いてその景色に目を向けると、いくつか見える道はどこもアスファルトで舗装されていない。
視線が道をたどっていくと、その先に見慣れないものがあるのをはじめて確認した。
城? 塔?
なんだありゃ、ゲームに出てきそうな感じの、とにかく城みたいな背の高い建物。
その周りを囲むように壁があって、その外に街みたいなのがある。
更にその周りをまた壁が囲んでいる。
それらの建物の様式は、テレビで見たヨーロッパの町並みに似ているような気がする。
もっとも、そんなものが日本の田舎に存在しているはずはない。
あんなのがあったら、高齢社会真っ只中の田舎にも女子高生が連日押し寄せているはずだ。
で、あの城みたいなのの前で自撮りをSNSに上げまくって有名になっているに違いない。
「なんだかよくわかんねえ」
つい独り言を呟いてしまった。
職場で頭がボーっとしてくると、つい出てくる言葉が。
と、その時。
かさ。
何かが俺の後ろで、草を潰す音がした。
俺は耳がいい、なんたって無類のロック好きなんでな。
だからわかってしまった。
人や動物の足が草を踏んだんじゃない。
もっと底ののっぺりしたものがこの草原に落ちた音だと。
土嚢とか、サイロとか、昨日さんざん運んだリネン袋とかさ。
で、だ。
そんなモンが誰もいないのに急に落ちてくるものだろうか。
普通じゃ考えにくいよな、突風が吹いてるとかでもないんだし。
ただ、自分の置かれている状況って明らかに普通じゃないよね。
やばくね?
だから振り返る。
見たくないものを見るようにゆっくりと。
次の瞬間。
このどこだかわからない緑の丘で俺は初めて立ち上がり、猛スピードで駆け出した。
音がしたのと反対の方向へ。
ちょうど、あの城みたいなのがある方へ。
……認めるしかない。
認めるしかないんだ。
CDに詰まった音楽も、スマホも家族も猫も車も地元の町も、あとたぶん職場も。
……俺の知ってるものが、みんななくなって。
丘陵、城、城下町? あとそれから、
「スライムゥゥゥゥゥウウウウウウウウウウウウ!!!!!」
……俺の知らないものだけが、ここにあるってことだ。
追ってくる。
水色で半透明で、たとえるなら米一袋くらいの体積のゲル状のヤツ。
なんとかクエストとか、なんとかファンタジーで出てきそうなあいつが、バウンドしながら追ってくる。
理屈はどうあれ、追ってくる!
なんだかよくわかんねえ。なんだかよくわかんねえ。
けど、こういうのなんて言うか、オタクな先輩田辺さんから聞いたことあるぞ。
間違いない、これは。
「異世界なんちゃらってヤツっすか!」
どこにもいない田辺さんに呼びかけるように、俺は走りながら愚痴をこぼした。
スライムは返事をしなかった。
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