Kick Black with Rock!!

創流鉄彦

オーバーチュア 現実世界解雇編

第0話 明日から来なくていいです、この世界に。

 むかしむかし、あるところにブラック企業で働く俺がいたわけですよ。

 ちょっと聞いてもらえます? まず上司がクソの極み中年で……。


(読むも無惨、書くのも無惨なブラック企業の愚痴が止まらないので中略)


 などと思いながら、今日も憂鬱な寝起きなのにスマホのアラーム鳴る前に早起きしてみるとですね。

 毎朝布団の上に乗ってくる飼い猫がいないんですよ。


 あいつ今日どこいった? スマホもどこいった?

 車の鍵どこいった? 着替えどこいった?


 寝てた布団どこいった? CDでいっぱいの本棚どこいった?

 壁に貼ってたライブポスターどこいった?


 ていうか壁どこいった? ていうかドアどこいった?

 ていうか部屋どこいった? ていうか家どこいった?

 ていうかさ、俺の住んでる町、どこいった?


 て、いうかさ。


 俺の住んでる世界、もしかしてどっかいった?


 遠くに見えるあの城みたいなの、なに?

 この世界フェスとかないんだろうなあ。どうしよ。




 疲れた。

 いつからだろう、もうそれを口にするのも億劫になった。


 俺は菊坂フミヤ。キクって呼ばれてる。

 田舎のブラックなクリーニング工場で働いている27歳だ。

 今ちょうど、外回りが終わった車を工場の後ろにつけたところ。

 これから中身を降ろして、工場内の仕事だ。


 クリーニング屋は外回りで納品と回収の両方がある。

 ごみ収集とか宅配便の仕事と違って、一件回るのに時間と手間がかかるんだよな。

 納品からの回収をスムーズに済ませるには、段取りにちょっと工夫が要る。


 ただ、少し手順がややこしくなっただけでバイトのおっさんたちは段取りをぜんぜん覚えられない。

 ひどい時はサジを投げて仕事に来なくなる。


 働き始めて一週間以内でトンズラ辞職した人がこれまでに何人いたか、もう思い出せない。

 ふうーーーーーーー。

 やめよう、考えるのは。長いため息が出てしまった。


「ほれキクー! さっさと降ろせー!」

 間延びしてるのに有無を言わせない口調で指示を飛ばしてくる、息の臭そうな声。

 あれは筒井工場長。じっさい息が臭い。


 俺は乗ってきたバンから降りて、後ろのドアを開ける。

 中には使用済みのシーツやタオルがみっちり詰まった袋がたくさん入ってる。

 それらはバンの中で山高く積み上がり、運転席から後ろが見えないくらいだ。


 びっちょびちょに濡れたタオルは重い。まずはこいつを先に降ろす。

 重たいリネン袋を七つか八つくらい台車に乗せて、洗い場のほうへ運ぶ。


「おーし、ちゃっちゃと洗えー」

 世界一有名な配管工から、清潔感を極限までそぎ落としてハゲ散らかしたようなのが筒井工場長だ。

 リネン袋で前が見えにくい台車を力士の寄りきりみたいに押して横を通り過ぎると、息だけじゃなく身体も臭かった。

 ちゃんと風呂入ってんのかな。洗濯屋なのに。


 洗い場に入ると、目に入るのは怪獣サイズの業務用ドラム式洗濯機が四台。

 どれも振動を受け止めるダンパーが壊れかけてるから、脱水のとき耳が痛くなる音がする。

 全部の機械にもう中身が入って絶賛稼動中のようだ。持ってきたものをすぐには突っ込めない。


 すぐには、どころじゃないな。

 次に洗う物が洗濯機横の隙間に、次の次に洗う物が洗濯機の向かい側に所狭しと積み上げてある。


 俺が持ってきた、さびれてるのに客足だけは多いラブホのびちょ濡れタオルはその次だ。

 もう定時まで二時間くらいしかないのに、この他にもまだ洗うものがあるのを思い出して憂鬱な気持ちになった。


 それから明日洗うもの、乾燥するもの、仕上げるもの、車で運ぶものとその伝票の準備をして……。

 そこまで考えたあたりで、憂鬱が受け止められる範疇を超えそうだったので俺は思考を閉じた。

 思わず天を仰ぐと、屋根まで何もない空間が視界に虚しく広がっているばかりだ。


「タオルの袋、どこに置きますか」

 でかい声を出して工場長に訊いた。

 13連勤中11日目の身体は声を張るのを渋るけど、洗い場がうるさくてそうしないと聞こえない。


「あー、あーそのへんのどっか空いてっとこ」

 俺は『そのへん』を探すと、台車を一気に傾けてタオルの袋をそこの床にどさりと落とした。

 何のためにそうなっているのかも、何に使ったらいいのかもわからない通路のふくらみに。


「あ、キクさんちょっと」


 主任の千田さんが横からヌッと現れて声をかけてきた。

 千田主任は元野球部だけあって声がでかくて、偉ぶってはいないけどいつもクセでドスドス歩く。

 それがカンカン照りに出てきたモグラみたいな動作で近づいてきて、話しかけてくるということは。


「あさってキクさんシフト休でしょ。ただちょっと、パートの高木さんがその日に親戚のご葬儀があるらしくて、そこがどぉっ……しても配達が足りなくて大変申ーーーし訳ないんだけども、あのー配達だけでいいから、ちょっっっと出てもらえないかと……」


 出た出た。

 わが社名物、無形休日出勤要請。


 これは配達だけと言われて出てきて、帰ろうとしたら「え!? もう帰るの!?」とか工場長に言われて早退できずに一日中使われるやつだ。


 申し訳なさそうな声で、地面とドッキングしたばかりのガムを踏んづけた靴みたいにねっちょりと後を引く話し方で、主任はそう言った。


「あっ、はい」


 そう言うしかない。

 パートが一人休んだだけで本当に現場が回らないので、ウチは毎回この有様だ。


 主任も主任でかわいそうに。

 大体こういう言いづらいことは、主任が工場長からそう言えって言われているんだろうな。


 今日はもともと13連勤確定だったところの11日目。

 次のシフト休みまで、更に連勤延長か。

 悲しいかな、それでも最長連勤記録の更新には至らないのが末恐ろしいところだよ。


 もう、不満を垂れる気力も暇もない。

 思わずもう一度天を仰ぐと、屋根まで何もない空間がやはり、視界に虚しく広がっているばかり。


 その後のことは、意識があっても記憶はない。


 工場はいつも通りどこを見渡しても埃まみれ。

 物であふれていて完全にキャパオーバーで。

 8月の14日、お盆でも関係なく仕事してて。

 そんな俺達に、工場のボイラーと夏の蒸し暑さが合体攻撃で。


 精肉工場のユニフォームを仕上げしてると、元請けの仕事を断れない営業の長谷沢さんがヤクザの真似ごとみたいに俺らにオラついて、生きてる価値がねえとか奴隷のように働けとか俺や他の人にのたまいながら、繁華街から爪弾きにされたような女性社員とベタベタしたり。


 車に荷物を積み込んでいると、オタクな先輩の田辺さんが手伝いに来るけど、お互いの気を紛らわすためにくたびれた細身から出てくるアニメ話を聞いているうちに、誰かに呼ばれてすぐいなくなったり。


 洗い場のゴチャついた荷物を、高校の同級生だった後藤と一緒にさばいていると、最近奥さんに仕事の帰りが遅いせいで浮気を疑われる、俺なんもしてねえのに、もうこの工場火ぃつけて燃やしたいと愚痴を聞かされたり。


 明日の伝票を書いているときに、筒井工場長が横に座ってきて昔はもっとえげつない人使いをしていたんだとか、配達で車をどのくらいパンパンにしてやったとか、前の職場で労基署が来た時に啖呵切って追い返してやったとか、自慢にならない自慢話を延々聞かされたり。


 覚えてないけど、たぶんいつもの、そういう光景だったと思う。

 仕事が終わる頃には頭がまともに回らなくなっているからもう思い出せないんだ。


 車で45分かけてなんとか無事故で家に帰ると、22時を過ぎていた。

 朝7時前には仕事を始めていたから、ええと、何時間働いてたんだ?


 算数もできないくらい疲れた。

 だってこんな調子で11日連続で働いてるんだから。

 ちなみに休憩は一日10分くらいだった。


 ブラック過ぎる。

 でも、SNSとかでそういうこと言ったら

「いや自分の会社はもっと~」

 とかいう奴に絡まれたりするんだろうな。


 実家暮らしなので家には母がいて、夕食を温めなおして待ってくれていた。

 祖父はおかえり、と言ったきりテレビをぼんやりと見ている。


 電子レンジで温めたあとの水気がついた白飯を口に入れると、少し埃のにおいがした。

 そこでやっと気がついた。工場に戻った時から口を半分開けたままだったことに。


 眉間にしわを寄せて具のたくさん入った味噌汁を口に入れる。

 味噌の味が口の中で膨らんでいく間に、野菜とキノコの香りが鼻を抜けていく。


 よく噛まないうちに飲み込んでしまったけど、喉から腹へ温かいものが染みていく。

 そこでようやく、俺が人間として扱われている実感を取り戻した。


 母は俺がこういう歳だから、そろそろ結婚、という小言のひとつも言いたいことだろう。

 でも、それもいつからか聞かなくなった。


 俺は毎朝早く出て、夜遅くに帰ってくる。

 おまけに休みの日もしょっちゅう出勤している。

 今日だって11連勤目、あさっての仕事が終わらないと休めない。


 そんな有様を見て、諦めたとまではいかなくても、そんな話は持ちかけにくいだろうな。


 ああそうだ、あさっても出勤しなきゃならないんだった。

 考えたくないな、もう。


 風呂に入って、寝る前にベッドの上でスマホを触っていると、飼っている猫が膝の上に乗ってきた。

 祖父や母が構ってくれないということもあって、俺にはよく懐いている。


 猫の体温を感じながら、スマホに表示された派手なサイトを眺める。

 ロックフェスイベントの情報を報せる特設サイト。

 八ヵ月後に県内で開催される大規模野外ロックフェス。


 こんな田舎なのに、当日会場には今流行りのアーティストや大御所が勢揃いする。

 都心に近いイベントには何度も行ったけど、そういえばここには行ったことないな。

 ロック好きとしては、こういうのにいくらチケット代をぶっこんでも後悔はない。

 その証は部屋中にいくらでもある。


 本棚にぎっしりと詰まったCDの数々。

 押入れの衣装ケースに売るほど入っている未使用のバンドTシャツ。

 勲章みたいに飾られて壁を埋め尽くすグッズとポスター。


 俺は生きがいを再確認するように。それらを見渡した。

 自分でも楽器を触ったことがあるけど、上達しなくてすぐやめたっけ。

 でもそんな俺だからこそ、熱狂渦巻くステージに立つアーティストたちのすごさがわかるんだ。

 最近休みがどんどん減ってライブに行けるチャンスもガクッと減ったけど、だからこそ。


 月の収入は14万。

 あんなに働いても、身を切る思いをしないとチケットは買えない。


 ま、自販機とかコンビニで買う物減らせばなんとかなるか。

 肉体労働だから、あれがないとものすごい腹が減るけど。


 そういえば。

 長谷沢さんにライター投げつけられたり胸倉つかまれたりして会社辞めた西戸くんは元気だろうか。

 後藤と一緒に三枚チケット取って、皆で行けたらいいな。


 そう思いながらチケット購入のボタンをタップしようとした時、視界が急にぼやけ始めた。


 あ、これは限界だ。

 もう寝ろってことなんだ。


 とっさにそう思った。

 重さはあるけど腕がまだ動く。

 部屋の明かりのリモコンをたぐり寄せ、電気を消した。


 CD、ポスター、猫。

 暗転する視界から消えていく。


 明日も7時前に出勤か。

 終わるのは何時になるんだろう。


 一日の半分以上働いて。

 お前は無価値だと毎日のように言われて。

 それで手に入る報酬が14万で。


 いつまでこんなことしていればいいんだろう。

 明日なんか来なければいいのに。

 ライブの当日だけ来ればいいのに。


 仕事、ライブ、行かなきゃ。


 意識が混濁して、まどろみの中に落ちていく。

 泥のような思考で、明日を想像する。


 仕事、工場、車、通勤路。


 洗濯機、リネン袋、14万。


 筒井、長谷沢、後藤、田辺。


 スマホ、家族、味噌汁、猫。


 CD、ポスター、グッズ。


 バンド。


 ライブ。


 ロック。


 なあ、誰か想像できるかい?

 次の朝には、全て消えていたなんて。

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