マクスウェル・アナフィラキシー・マリトッツォ

「悪魔は整理整頓なんてしないんだよ」が口癖だったララの独房は、本が積み重なっていた。

散乱した本で、コンクリートの床が見えない。

「いい加減に片づけたらどうですか」

アドバイスしてみるが、ララは聞く耳を持たない。

私を一瞥して「片づける時間があれば読書を進めたいんだ」と、はにかむ。


コンクリート剥き出しの一辺10メートル正方形の独房で、床に無造作に座り、けば立ったおさげも気にしない。儚げな美人の女子高生なのに、どこか、檻の中の動物のように見えた。

本能のままに本を貪る。


仕方ない。

「ここらでひと口お菓子はどう?」と提案してみる。

「いいねぇ」食いしん坊な普通の少女のように無邪気に笑う。「読書で頭使って糖分がほしくなってきたところなんだよね」

「はいどうぞ」マリトッツォを渡すと一気にパクリとかぶりついた 。

ララがマリトッツォをモグモグとほおばる。

が、直後にショッキングな事が起こった。


食べて1秒した途端、ララがいきなりばたりと倒れたのだ。完全に意識をなくし脱力した四肢が、床の上でピクピクと痙攣している。

しかし、私は落ち着いてポケットから注射器を取り出した。ララの腕にアドレナリンを注射する。

全く焦らない。こうなる事は分かっていたから。正確に言うと50%の確率でこうなると思っていた。それはララも同じだ。


だから十数分後に意識を取り戻した時ですら、ララは大きなあくびをひとつした 。

「大丈夫?」という私の問いかけにも、

「平気平気。いつものことじゃないか」と静かに笑う。

ごもっとも。ララがマリトッツォのアナフィラキシーで気絶するのはこれで103回目だ。もうララも私も慣れてきている。それは間違いない。問題は、こんなことになれることが健全かどうかだ。


はじめここに来たときは「マクスウェルの悪魔」がアナフィラキシーを起こしていてもなんとも思わなかったのに。

ララちゃんとおしゃべりするようになるにつれて、「マクスウェルの悪魔」じゃなくて「ララちゃん」として見ることが増え、罪悪感が膨らんできた。

今だってアナフィラキシー後のかすれた声で強がるララに心がモヤモヤしている。


「もうマクスウェルの悪魔、やめない?」

私はできるだけ軽い口調を取り繕って、雑談の中でさりげなく尋ねた。考えなしにふと口にしたようなトーンで。しかしララは当然のように「続けるよ」と答えた。「私がマクスウェルの悪魔じゃないとこの街の発電量は作れないし」

「だからってアナフィラキシーショックになるって…」

「これ以外に方法は無い、でしょ」


その通りだ。ララの言葉はいつだって、正しい。


マクスウェルの悪魔という思考実験がある。

仕切られた2つのエリアを分子が熱運動で動く。この時、例えば左から右に偶然速い速度になった分子が流れることがある。そのタイミングで仕切りを閉じる。

こういう分子の位置情報に応じた操作を繰り返すと、自然と右側に熱が発生する。


つまり、マクスウェルの悪魔を使って発電するなら、ランダムに動く分子が右左どっちにあるかを調べなければならない。そのために右側にある溶液から作ったお菓子が使える。そのお菓子に特定のアナフィラキシーを起こしたなら右側に分子があるとわかる。

理屈は知っている。原子の位置情報から熱が得られる熱力学の原理も。機械のセンサーでは採算が取れないから人間のアレルギー反応を使うしかないことも。


でも私が腹を立てているのは「なんでララちゃんじゃないといけないのか」と言うことだ。そんな私の不満そうな顔に気づいたのだろう。ララは笑って答えた。

「私はエリートの家に生まれ、経済的環境に恵まれた。 その結果今がある。だから社会に恩返ししたいんだよ 」

ララの表情には高潔な信念が感じられる。

私がアナフィラキシーに何度心を痛めても、やめてと言っても、続けるのだろう。


私は諦めて、いつものおしゃべりをした。

最近の天気。お勧めの小説。

そんな当たり障りのない雑談の後に、「わかったよ。明日もお菓子持ってくるね」と言って部屋を出た。ララの独房から出て施設の廊下を歩いていると、目から涙がにじむ。


どうして私の心配より見知らぬ人間の幸せを優先するんだろう。「ララを心配する気持ち」と「私の心配を無視するララへの憎しみ」が同時に心の中で湧き上がる。


頭がぐちゃぐちゃになりながら、マクスウェル悪魔発電所から外へ出た。

外の空気を吸えば気が晴れるかと思っていたが、そんなことはない。

外を歩く一般人が目に入ってきてしまったからだ。

ボーっとした目で歩きスマホをしている大学生。目の前の商談で頭がいっぱいのサラリーマン。しょうもない恋バナに花を咲かせている女子高生たち。

みんな何も考えずヘラヘラ笑いながら日常を送っている。日常生活を陰から支えてくれているエリートに感謝することもない。


そんな奴のためにララちゃんはアナフィラキシーの苦痛を味わい続けるのだろうか。

明日も。明後日も。1年後も。数年後も。ずっと。

私は納得できない。


――そうだ、毒だ。明日のマリトッツォには、致死性の毒をいれよう。


ふと、邪悪な思いつきが、頭に浮かぶ。

だが、時間がたっても、頭から消えない。考えれば考えるほど、良いアイデアに思えてくる。

明日、ララを苦痛から解放するのだ。

一度決意してしまえば、簡単なことに思えた。

ララの死後、街が停電しようが、多くの人が困ろうが、私にとってはどうでも良い。


私は暗く重い決意を胸に、歩き始めた。


周囲には、エリートに感謝しない愚かで残酷な群衆がいる。

彼らの方が、悪魔よりも、遥かに醜悪な顔をしている。

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