3.3.1:少女の記憶


「また本を持って来てあげたよ、エル」


 サリオの訪問に喜び、幼いエルフィオラは寝床から起き上がり迎えようとしたが、すぐに咳き込み、また寝床の中へと倒れこんでしまった。


 サリオはすぐに駆け寄り、少女の小さな頭を優しく撫で、落ち着かせた。


「そんなにはしゃぐと、体に障るぞ」


「若様、ご本、読んでください」


「もう自分で読めるだろう」


「エルは、若様に読んでほしいのです」


「仕方ないな」





 気がついた時には、体が変わっていた。黒く、大きな体に。


 以前のように寝たきりではなくなり、外で思いきり体を動かして遊べるようになったのは嬉しかったが、そのあまりにも無骨なゴツゴツした体は可愛らしさの欠片もなく、それが新たなコンプレックスとなっていた。


「そんなの、気にすることはないだろう」


 サリオが軽い調子でそう言う。

 エルは、かつて見上げていたその姿を、今は見下ろしている。大きな体とはいえ、父や叔父ほどの巨体ではなく、精々ヴィナの大人より一回り大きいと言った程度だ。それでも細見でスラっとした体形のサリオと並ぶと、エルは惨めさすら感じそうにもなった。


「そんなの、っていうのは酷くないですか、若様? エルだって女の子です。可愛い格好だって、してみたいんです。本当は」


「すればいいさ。その体だって、おめかししてはいけないなんて理屈はないだろう」


 一瞬、エルはそれが本気なのか冗談なのか、判断ができなかった。

 けれどすぐに、サリオが冗談を言っているのを聞いた記憶が一切無いことに、エルは気付いた。


「そんなの、皆が笑います」


「俺は笑わん」


 サリオが真顔で、エルの黒い無機質な顔を見つめて言う。


「その体は、強く、逞しい。こんな地獄にあっても、生き延びようという人の強い意思の顕れだ。俺はそれを、美しいと思う」


 そういう話ではないのだけれど。エルはそう思いつつも、それを言葉にはせず、黙っている。

 たしかに、こんな姿になっても、命があるだけマシなのかもしれない。


「エル、お前は美しい。形に囚われすぎるな。大事なのは本質だ。人の本質は、心だ。お前の心のありようは、美しい。だからエル、自信を持て。胸を張れ」


 少し的外れな気もするものの、サリオの言葉は間違いなく、自分のために一生懸命に紡がれたものだと感じられ、エルはそれに強い満足と幸福を覚えた。


「はい。ありがとうございます、若様」





 父が、死んだ。

 父と叔父が時折、外の世界へと行って何かをしていることは知っていたが、詳しいことまでは知らなかった。

 自分がノルヴィナとなってからは、二人はカルンターを離れ、北西のベルリアへと籠り、それからのことについては余計に分からなかった。


 父の訃報は、カルンターへと戻ってきた叔父によって伝えられたが、叔父はそのことについても、詳しくは話してはくれなかった。

 エルはただ訳も分からないまま、悲しみに暮れるしかなかった。

 一方で、報せを聞いたサリオは激しい怒りを滾らせていた。


「俺は、ベル・スールと合流する」


 エルは、サリオが何を言っているのか、分からなかった。


「エル、お前も一緒に来い。父の仇を取るんだ」


 エルは何と答えていいか分からず、ただ黙るしかなかった。

 サリオは少し迷った様子を見せてから、静かに言葉を続けた。


「選べ、エル。俺と同じ道を往くか、それとも違う道を往くか。正解は無い。お前自身が、選べ」


 エルは、父の敵討ちなんてしたいとは思わなかった。

 父が誰かに殺されたのなら、それは悲しいし、悔しい。けれど、だからといって、その相手を自分の手で殺したいなんて、少しも思いはしなかった。


 けれど。


「……エルは、若様と、往きます」


 エルはただ、サリオと一緒に居たかった。サリオの力になりたかった。

 それゆえに、そう答えた。





 ベル・スールへと合流したエルは、体を換えることにした。

 より大きく、より強い、父と同じ体へと。

 しかし、エルの魂は上手く固着してはくれず、その体は満足に動いてはくれなかった。


「……申し訳ありません、若様」


 サリオはエルの大きな手に、そっと自分の手を重ねる。


「謝ることはない。お前は元の体に戻り、ここで雑事をしてくれ。ベル・スールが戦うためにはそうした役割も必要だ。お前はそういう戦い方をしてくれればいい。前線へは俺がノルヴィナとなり、出向く」


「それは駄目です、若様。若様は、そのままで居てください」


「何故だ? 俺だって……」


 サリオの言葉を遮り、エルは続ける。


「本当の気持ちを言うと、エルはヴィナのままで居たかったです。ベル・スールの皆もそうでしょう。若様はその体のままで、本土の土を踏んでください。それが、エルたちの、ベル・スールの、希望、なんです」


 サリオは俯き、黙る。エルの手に、力が伝わってくる。


「……分かった、エル。お前たちの想いが、この体へと託されているというのなら、俺はそれに応えよう。しかし、俺の方も同じだ。俺も、お前たちのその強大な躰へと、想いを託している」


 エルの手に、サリオの手から更に強い力が押し寄せてくる。サリオの体からは莫大なエーテルが放出され、周りの空気がパチパチと音を立て、妖しい光を放つ。

 その力が奔流となり、エルの体全体を満たしていく。


「俺たちは、ひとつだ」


 サリオがそう告げた瞬間、エルは自分の新たな体が自由に動くのを感じていた。

 ゆっくりと、その巨体で立ち上がる。視界のずっと下の方で、サリオがこちらを見上げている。

 エルはその距離を少し寂しく思ったが、すべてはサリオの助けになるためだと、自分に言い聞かせた。


 何が正しくて、何が間違っているのかなんて、自分には分からない。

 自分はただ、サリオの傍に居たいだけ。その助けになりたいだけ。


「……若様。昔のように、エルの頭を、撫でてくださいますか?」


「なんだ突然。そんなの、いくらでもしてやろう。さあ、屈め」


 けれど、エルは動かない。

 どれだけ屈んでも、あの頃の距離には戻れない。





 ふいにアリルは、自分の心を覗かれている感覚を覚え、我に返った。

 あまりにもエルの心に同調しすぎたため、そう感じたのだろうかと考え、黒い巨体を見つめる。


 その黒い顔もまた、こちらを見つめている。

 アリルはその瞬間、この少女もまた、こちらの記憶を垣間見たのだと、直感した。


 お互いに何を言っていいのか分からず、沈黙が流れる。


「どうした、エル? 俺の言う事を聞け。こいつらは、敵だ」


 サリオの言葉が沈黙を破り、エルは明らかに狼狽の色を見せる。

 それに苛立ちながらも、何かに気付いたようにサリオは動きを止めた。

 続いて、すぐにアリルも異変に気付いた。


 遠くの空が、青く明るんでいる。天窓が、開いている。


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