3.1.1:冥府
一様に黒い空と大地。
その光景に圧倒されながらも、アリルはハッチを開いたままで、コンソールに表示された各種センサーからの情報を眺めた。
空間エーテル量が異常に低い。ほとんどゼロと言っていいほどだ。
重力や気圧は元居た世界と変わらない。大気の組成は非エーテル物質から成るため不明。
「このままエンヴレンの外に出ても、平気かな?」
ハッチを開けているとはいえ、その境界はコクピット内の気密性保持のためのエーテルフィールドの膜によって守られている。
アリルはその薄膜越しに改めて外の風景に目をやるが、特に危険があるようには見えない。
恐る恐る、膜の外に手を出してみる。
手が外の空気に触れた瞬間、アリルは猛烈な不快感に襲われ、反射的にその手を引っ込めた。
「なんだこれ……。痛いような、熱いような、冷たいような……」
違和感の残る指を、汚れを落とすようにこすり合わせながら、その感覚の正体を推測する。
力が、命が、吸い取られていくような感覚。希薄な空間エーテル量。
この空間そのものが、そういう性質を持っているのだろう。とても生身では外を出歩けそうにない。
アリルはすぐにシートに深く身を預け、ハッチを閉じた。
次の瞬間、コクピット内に警報が鳴り響いた。
敵の接近。冥獣が数匹、こちらに向かってくる。
ゴブリン三、オーガが一。大した数ではない。様子見の斥候だろうか。
アリルはとりあえずエンヴレンに剣を構えさせるが、その動作が異様に重い。
状態を確認しようとしたところ、ゴブリンが一体突っ込んできた。とりあえず機体を魔法で飛ばし、それを回避しようとするが、機体は軽く跳ねただけだった。
慌てて化学推進を全開。攻撃は避けられたものの、機体は重々しい音と衝撃を響かせ着地。
アリルは改めて機体の状態を急いで確認する。
魔法が発動していない。機械の故障ではなく、恐らくはこの特異な空間の性質のせいだろう。
周囲でゴブリンが挑発するように飛び跳ね、その奥からオーガが威圧するようにゆっくりと距離を詰める。
アリルとレーン、アーデルはそれぞれの機体を寄せ合い、攻撃に備える。
この状況は、危険かもしれない。
ミッション・エンジンの関節は、超電導モーターによる駆動を軸としつつも、その補助として魔法の助けも借りる。その助けが得られないのでは、物理的な肉弾戦すら難しいだろう。
ジリジリと攻め寄る冥獣に圧されるように、アリルたちは一歩、また一歩と機体を後退させていく。
瞬間、先ほどのゴブリンがまたも突っ込んできた。
アリルは機体を大きくは動かさず、その場で剣を振り回して敵を威嚇する。
一旦飛び退いた敵はそのまま滑るように脇へ回り、再度攻撃を仕掛けて来た。
アリルはそれに対応しようと機体の上半身を回すが、その動作すら重い。間に合わない。
アリルは衝撃を覚悟したが、横からザーシュラスの鎌が飛び出し、ゴブリンの躰を薙いだ。
ゴブリンは慌てた様子で距離を取るが、大したダメージではないようだ。
「おいアリル。当然、何か策があってこんな敵陣ド真ん中に突入したんだよな。早くこの状況をなんとかしてくれ」
レーンの焦った声が響く。
「……策? 無いですよ、そんなの。僕は単に、冥獣がどういう存在なのか知りたくて、冥府に来ればそれが分かるかな、って。それだけで」
「はあ!?」
アリルの素直な返答に、レーンが怒りとも呆れとも取れない、種々雑多な感情の入り混じった声を上げた。
それと入れ替わるように、今度はアーデルが口を挟んだ。
「いくら何でも考え無しすぎるでしょ、あんた。一旦この場は退くわよ。早くまた門を開いて!」
「……どうやって?」
「どうやって、って。何を言ってるの、あんた。やったんだから、やれるでしょ。やってよ!」
冥獣たちが警戒しつつ、横に展開しながら、更に距離を詰めてくる。
アーデルが焦った声でアリルに門を開くよう急かすが、いつの間にか光の力は消え去っていた。今はその片鱗すら感じられないし、それをどう再び発現させればいいのかも、さっぱり分からない。
「ねえちょっと、なにこれ。何か、変よ」
アーデルのやつれたような声が響く。アリル自身も異変を感じ始めていた。先ほど、外に手を出した時と同じ感覚。
機体を包むフィールドが弱まっている。じわじわと自分の命が隙間から漏れ出ていくような感覚。息が上がり始め、視界が霞んでいく。
何か黒いものが視界の中で大きさを増す。どうにか意識を集中し、アリルはその黒いもの、突撃してきたオーガ、に対応しようと試みるが、機体はまともに応えてはくれない。すぐに自身の意識も白く薄れ、微睡むように溶けていく。
黒くぼやけた影が、突然何か強い衝撃に吹き飛ばされたように、視界の外へと消えていった。アリルはどうにかその衝撃の来た方へと、注意を向ける。
もう一体別の、黒い巨人。
「……グレンデル?」
違う。コンソールに表示された識別名は、”イフリート”。
グレンデルと殆ど同じ姿かたちをしているが、頭の角は二本ではなく、一本だけだ。
アリルの白く薄れる脳裏に、あの時の光景が浮かぶ。
あの時、グレンデルと一緒に居た、もう一体の仇。
それが素早くこちらに接近し、自分たちを護るように、冥獣たちへと立ちはだかった。
イフリートが威嚇するように左腕の武器を構えると、冥獣たちは渋々といった様子で去っていった。
その意味をアリルは推し量ろうとするが、もう完全に頭は働いていない。息苦しい気もするが、もはや自分が息をしている感覚すらもない。
もうほとんど滲んだ影としか認識できないイフリートの姿が、視界の中で動く。
こちらを振り返ったのだろう。
アリルはどうにか力を振り絞り、その存在を警戒しようとするが、もうそれで限界だった。
すべてが、薄く、白く、滲んで消えた。
「あーもー、ソワソワする。なんかできること、ないの!?」
カノンが室内を落ち着きなく、行ったり来たりしながら叫ぶ。
それを横目に、カルムが神妙に言う。
「残念ながら、何も無い。あの現象の解析は急がせている。僕たちに今できることがあるとすれば、事態が進展したときに備え、十分に休息を取っておくことだ。今は待つしかない」
「休めったって、心配過ぎてじっとなんかしてられるかよー」
尚も忙しなく動き回るカノンをなだめるように、モミジが口を開いた。
「大丈夫ですよ! アリルちゃん、凄い子だから。それにアーデルちゃんとレーンさんもついてるんだし」
その言葉にカノンは頭を抱える。
「だから心配なんだよー。あいつら、すぐに頭に血が上るからー!」
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