1.4.2:帰る場所


「アリルが居なくなった!?」


 カノンが報せに驚いた声を張り上げる。


 いくら休暇中とはいえ、ミショニストが基地の外へ出る際は幾つかの制限が付く。

 不測の事態を想定し、事前に詳細な行動スケジュールを提出した上で承認を得ることや、通信端末の常時携行が義務付けられていること等々。しかし、アリルはそのどれも無しに、無断で姿を消していた。


 カノンは傍のアーデルハイトに非難の目線を送る。

 しかし、アーデルハイトはそれに冷たい視線を投げ返す。


「何? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ」


 カノンとアーデルハイトの間に険悪な空気が漂い始めた瞬間、モミジがそれを打ち払うように、この上なく明るい声で言った。


「はいはいはーい! 私、アーデルちゃんのせいだと思いまーす」


 険悪な空気は払拭されたものの、それとはまた違う、変な空気が漂い始める。


「あんたがはっきり言ってどうすんのよ!」


 アーデルハイトも流石に調子を崩し、呆れたようにモミジに言う。


「えー? でもー」


「うるさい! あんたは黙ってるの!」


「はーい。あ、で、で、私、アーデルちゃんが責任もって探しに行くべきだと思うんですよ!」


「黙ってろっつったでしょ! 黙ってなさい!」


「はーい」


 完全にモミジのペースに狂わされ、アーデルハイトからは、もういつもの澄ました雰囲気は消え去っていた。


「逃げたい、って言うなら、そうさせてやればいいじゃない。無理やり連れ戻して、無理やり戦わせる方がよっぽど残酷よ」


 アーデルハイトはそう言い捨て、その場を去っていった。





 いつの間にか、雨が降り出していた。


 あの家族の姿も、とっくに無くなっていた。

 時折傘を差した人が通り過ぎるだけで、周りには他の人の姿も無い。


 それでもアリルは、雨に打たれながら、ベンチから動こうとはしない。


「どうせ、何処にも行くあてなんて無いんだ」


 ただでさえ空腹と疲労が募る中、雨が体の熱すらも奪っていく。


「こんなとこで、何やってんだろう」


 でも。


「もうどこにも行きたくない。もう何も、したくない」


 寒さで体が小刻みに震え始める。

 段々と、まぶたが重くなっていく。





 お屋敷の隅の暗がりで、小さな少女がうずくまり、泣いている。


 時折他の使用人が通りかかるものの、それぞれに憐れみや侮蔑の視線で横目に様子を窺うだけで、通り過ぎていく。


「姉ちゃんは、もう居ないんだ」


 少女は、孤独だった。

 少女には、居場所が無かった。


「姉ちゃん、助けてよ……」


 その声は、誰にも、何処にも、届かない。





 アリルは目を覚ました。

 雨が体を打つ感覚が無い。いつの間にか、雨は止んだのか。


 空を見上げようと、疲労と寒さでボロボロの体を、ゆっくりと起こす。

 そこに、アリルに傘を差し出す、人の姿があった。


「……ユウラ君?」


「起きたか?」


 アリルは、その視線から逃れるように顔を背けた。


「こんなとこで、何してるのさ」


「アホか。そりゃこっちのセリフだ。随分探し回ったんだぞ。少しは感謝しろ」


 別に探してくれなんて、頼んでいない。感謝しなきゃいけない理由なんて、無い。

 だからアリルは、ただ黙り続けた。


「いい加減にしろ。もう帰るぞ」


「……帰る場所なんて、無い」


「あっそ。いいから早くしろって。俺、もう腹減ったんだよ」





「あっアリル! どこ行ってたんだよ! 心配したんだぞ!」


 戻ってきたアリルとユウラを、カノンが迎えて言った。


「ていうかずぶ濡れじゃないか。タオルタオル! お風呂お風呂!」


 周りにいた職員たちが慌ててバタバタと動き出す。


 その騒動を、エントランスの吹き抜け二階から、ジェリスとファインが眺めていた。


「……”校長先生”、あなたの差し金、ですか?」


「そうじゃないんだな、これが」


「へー、それじゃああいつ、自力で? やるじゃないですか。あのセコンドの坊主」


「良いチームに育つと思うんだけどな、インディゴは」





「ほらほら、アーデルちゃん。ちゃんと謝らないと」


 アーデルハイトの服の袖を引っ張りながら、モミジがニコニコしながら言う。


「馬鹿言いなさい。なんで私が」


 そんなやりとりをしている内に、アリルが近づいてくる。


「あら、戻ってきたの。意外。少しは気骨の欠片もあるのかしら」


 そんなアーデルハイトが見えていないように、聞こえていないように、アリルはその前を目線も動かさず、俯いたまま通り過ぎていった。


「あーあ。完全に嫌われちゃったー」


「それがどうしたのよ」


「ファインさんにもまた怒られるー。嫌われちゃうー」


「う゛」


 アーデルハイトが露骨に動揺し、一方でモミジの顔に、意地の悪い笑みが広がる。


「あ。やっぱアーデルちゃん、そうなんだー?」


「な、何がよ。変な勘繰りはしないでよろしい!」


「はーい。で、で、好きなの?」


 アーデルハイトの握りこぶしが、モミジの脳天を直撃する。


「ぶん殴るわよ!?」


「……ぶん殴ってから言わないでよー」


 モミジが殴られた頭を押さえ、ヘタなウソ泣きを演じて見せる。

 が、アーデルハイトはそれを相手にはせず、アリルが去ったのとは逆の方向に、歩き出した。


「血統にも、才能にも、環境にも、運にも恵まれ、その上で血の滲む努力をしてきた希代の天才が、唯一涙を飲んで負けを認めるしかなかった相手。そんな薄い言葉で簡単にまとめられるような感情ではないの!」





「勝手な真似をして、ご迷惑をお掛けして、申し訳ありませんでした」


 司令官執務室に、アリルの表情の無い無機質な謝罪の言葉が響く。


 ジェリスはしばらく黙って、その顔をじっと見つめる。アリルはずっと俯き、目を合わせない。

 やがて意を決したように、ジェリスは口を開いた。


「……そこまで思い詰めているのなら、こちらも君の意を酌んでやるべきなのかもしれない。ゼオリム財団の思惑も絡むだろうから、約束はできないが、私からも働きかけはしてみよう。とりあえず休みはまだ一日ある。今はゆっくりするといい」


 アリルはゆっくりと顔を上げ、ジェリスの目を見つめた。

 ジェリスは相変わらずその瞳の奥でアリルが何を考えているか、読み取ることができない。


「いいんです。やっぱり僕は、ここに残ります。今まで以上に頑張って、強くなります。ここに、居させてください」


 予想外の言葉に、ジェリスは思わず驚く。

 ジェリスはそのまま右の人差し指で机をコツコツと叩きながら、考えを巡らせる。


 頭を冷やして考え直した? いや、何か、違う気がする。


「良いのか?」


「はい。もう決めました。もう、大丈夫です」


 アリルが、そうぎこちなく笑い、言う。


 多分、大丈夫では、無いのだろう。


 すぐにどう答えるべきかの判断がつかなかったため、ジェリスはため息とともに、解決をひとまず先送りにすることにした。


「分かった。君のしたいようにするといい」


「はい。ありがとうございます」





 天井。いつの間にか、見慣れた天井。


 アリルは薄暗い部屋に戻るなり、ベッドに倒れこみ、天井を見つめた。


「逃げて、逃げて、逃げて、流れついたのが、ここなんだ。もうどこにも逃げ場所なんて無い。他に居場所なんて、無い。僕は、ここに居るしか、ないんだ」


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