19.また会う日ときに

 寝つけないまま朝を迎えて、僕は帰り支度に追われていた。

 昨夜は文字喰い対策に手いっぱいで、ろくに準備を行えなかった。そもそも頭になかったと言ってもいい。

 無人島から解放される日というよりは、文字喰いを撃退できるタイムリミットという感覚が強くて、すっかり失念していたのだ。


 いま頃になって、慌てて荷物と格闘している。それほど多いわけではないのだが、整理しながらカバンに詰め込む作業に手こずっていた。

 苦労して重ねた衣類を押し込んでいると、ふとスポーツバッグの隅でパンツに埋もれた学生証を見つける。急がないといけないことは理解しているのだが、思わず手に取り写真を眺めた。


 同じ顔をしているが、少し違う弟を思い浮かべる――本人たちにしか判別できない、もう二度と見ることのできない顔だ。


「ありがとうな、トモ。おかげで文字喰いを倒すことができた……」


 ぽろりと感謝の言葉が口からこぼれる。同時に、さみしさがツンと鼻の奥を刺激した。

 智哉の死からもう一年近くたとうというのに、どういうわけか僕は、いまになって双子の片割れを永遠に失ったことを実感していた。文字喰いと対峙して死を意識したことで、生の渇望がわき起こった反動だろうか。


 生者と死者の線引きか、僕の中でくっきりとできあがっていた。僕は生きて、智哉は死んでいる――その現実を、ようやく受け入れられる心の準備が整ったのかもしれない。


 しんみりとした気持ちが胸に溢れて、帰り支度の手が止まる。それを見越していたように、ドアをノックする音が響き、返事を待たずに開かれた。


「おい、まだ終わってないのかよ。そろそろ迎えの船がくるぞ」と、様子を見にきたタミーが、声を荒げて急かす。

「えっ、もうそんな時間?」


 部屋の時計に目をやると、もうすぐ迎えが到着する十時になろうとしていた。

 僕はまだ片づいていない荷物を見て、途方に暮れる。


「これ使うか?」


 そう言ってタミーが差し出したのは、ゲーム会社のロゴが入った紙袋だ。僕はありがたく受け取る。

 衣類関係は紙袋に押し込んで、どうにかこうにか荷物を詰めた。


「タミー、助かったよ。それにしても用意がいいね」

「サーヤのヤツが、荷造りにだいぶ手こずってるみたいだからな。お前もそうかと思ったんだ」

「ああ、サーヤはいろいろと大雑把だから……」


 苦笑しながら部屋を出ると、ちょうどウワサしていたサーヤと出くわす。彼女は疲れきった顔で、キャリーバッグに加えて紙袋を三つも手にしていた。来たときよりも荷物が増えている。


 リビングに全員が集まったころで、揃って島の船着き場に向かう。入江に突き出たコンクリの基礎には、名も知らぬ貝がびっしりと張りついていた。


「今回のこと、どう説明すればいいんだろ……」


 松林の奥に覗く別荘を見上げて、マッキは不安そうにつぶやいた。

 この点についても、文字喰いとの対決に意識が向いて、僕はまったく考えていなかった。後々、問題になることは火を見るより明らかだというのに。


「本当のことを言うしかないだろ。ウソをついたら、よけい怪しまれる」

「でも、信じてもらえるかな。こんな荒唐無稽な話、わたしだったら信じないわ」


 タミーは反論しようと口を開けるが、かすかに吐息がもれるのみで言葉が出てこない。理にかなった言い分が思いつかなかったのだろう。

 気まずそうに顔をうつむかせて、ユアさんは黙り込む。


 確かに文字喰いが起こした事件の説明は、実際体験した者でなければ理解できないかもしれない。しかし、何人も死人が出ている状況で、隠すわけにもいかなかった。


「そう言えば……」たいしたなぐさめにはならないだろうが、少しでも気がまぎれることを願って僕は口を開く。できるだけ、明るい声を心がけて。「警察には怪奇事件を取り扱う秘密部署があるって聞いたことがある。そこに話が伝われば、わかってもらえると思う」

「なんだよ、そりゃ。都市伝説か?」


 不審顔のタミーが首をかしげる。いたって常識的な反応だ。


「いやぁ、どうだろう。前にオカルト系のサイトで記事になってるのを見たんだ」

「うわ、最高にうさんくさい……」と、サーヤがこれ以上ない的確な感想をもらした。僕だって、そう思う。


 思わずタミーは吹き出し、つられてマッキも笑いだす。ユアさんは笑いこそしなかったが、強張った表情を若干やわらげた。

 重かった空気がゆるみ、肩の力が抜ける。この問題が解決したわけではないが、こればかりは考えてもしかたないことだ。もう開き直れるしかない。

 僕らはそう遠くない未来に起きる厳しい現実から目を背けて、ひとまず無事帰宅できる喜びを優先的に噛みしめた。


「あっ、そうだ――」


 海を見つめて迎えのボートがあらわれるのを待ちかまえている途中、ふと思い出したことがあった。僕はポケットをまさぐり、教授の書き置きを取り出す。

 その姿を見て、サーヤは怪訝そうに眉をひそめた。


「まだ持ってたんだ、それ」

「うん、まだ埋めてない部分があったから、昨日……というか明け方まで、ずっと考えてたんだ」

「もう必要ないのに、なんでそんなことしてんの」


 僕は苦笑して、書き置きをサーヤに押しつけた。自分でも無駄なことをしていると思ったが、中途半端な状態でいるのがどうにも落ち着かなかったのだ。ただ単純に、寝つけなかったのでヒマつぶしに――という理由も少なからずある。


「残ってるのは、最後の三行」


 サーヤに肩を寄せて、書き置きの文を指でなぞって示す。


『わたしの[#80]の[#81]が、[#82]いというバケモノによるものと[#83]できたなら、[#84]もすこしは[#85]われるだろう。

 それだけで大きな[#87]がある。

 キミの[#88]が[#89]からんことを[#90]っている。』


 前文は、『文字喰いに殺されるのは無念であるが、ヤツの存在を証明できることに満足はしている。』となっている。文脈的に、それに関連する文がつづくと考えるのが自然だろう。


「ここに、『文字喰いというバケモノによるものと』って書かれている。その前にくる言葉は、当然文字喰いが起こした事象にかかっているんじゃないかと考えた」

「文字喰いが起こしたって……文字を消すこと?」

「うん、文字を消して、誰かの名前を喰う――つまり、犠牲者の存在を指しているんじゃないかな。教授が書き置きを書いている時点で明確に犠牲者と呼べる人は、一人しかいない」


 サーヤは目を見開き、こわごわと僕の顔を見た。


「ひょっとして、パパのこと?」

「そう、『わたしの友人(#80)の死(#81)が』とくれば、『文字喰いというバケモノによるものと証明(#83)できたなら』と読み解ける。そうなると次にくるのは、サーヤのお父さんが亡くなった理由の証明に、どんな意義があるのか想像すればいい」


 文字喰いの証明は、教授にとって悲願に違いない。では、なぜ証明しようと考えたのか――サーヤの父の名誉のためであり、傷つけられた名誉によって苦しい思いをした人物のためだ。

 驚きに揺れる瞳を、僕は見つめ返す。彼女は息を飲み、ためらいがちに口を開いた。


「わ、わたし?」

「僕は、そう解釈した。サーヤをずっと気にかけていた教授は、『彼女(#84)もすこしは救(#85)われるだろう。』と思ったんじゃないかって」


 サーヤは唇を噛んでうつむき、長い沈黙の末にゆっくりと顔を上げる。その目には、うっすらと涙の幕が垂れていた。


「そんなの、もういいのに。おじさんがいてくれたことが、よっぽど救いだった」


 父の自殺を疑うサーヤを、唯一味方してくれたのが教授だと聞いた。幼いサーヤにとって教授は、心の支えだったのだろう。


 書き置きには、『それだけで大きな[#87]がある。』と書かれている。[#87]は、おそらく『意味』だ。

 教授は文字喰いの存在を証明することが、サーヤの救いになると思っていた。たとえ自分が死んでも、はあると信じていた――文字喰いを追い詰める書き置きを残した教授だが、この点だけは見誤っていたようだ。


 僕は静かにサーヤが落ち着くのを待つ。彼女は何度も目元を拭って、自分の気持ちに折り合いをつける。

 そうしてサーヤが持ちなおしたのと、ほぼ同時に――「あっ、きた!」マッキが弾んだ声を上げた。


 反射的に海を見ると、白波を立てて近づいてくるボートの影があった。まだ距離は遠く、ぼんやりと形状がわかる程度だが、おそらく無人島に訪れるとき利用したボートと同じものだろう。

 僕の中に、脱力感をともなう安堵が広がっていく。ようやく、この無人島から解放されるのだ。


「これで帰れる……けど、ちょっと残念だな。書き置きの最後の一行だけ、どうしても解けなかった」


 サーヤは赤い目で、ちらりと書き置きを見た。


『キミの[#88]が[#89]からんことを[#90]っている。』と、おそらく彼女に向けた言葉だと思うが、何を伝えようとしたのか判然としない。

 思わず僕の口から思案のうなり声がもれる。すると、サーヤは体を揺らして小さく笑った。


「それは、もういいよ。なんとなくわかる」

「えっ?!」僕はギョッとして目をむいた。「わ、わかったの?」


 サーヤは得意顔で軽く肩をすくめてみせた。これみよがしな態度が少し鼻につく。


「フミくんより先にわかったの、はじめてかも。ちょっとうれしいな」

「早く教えてよ、全部埋まってないとスッキリしない!」


「どうしようかな」彼女を白い歯を見せて、笑顔で言った。「今度会うときに、教えてあげる」

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