17.バカ

 僕はちらりと壁の文字に目をやって、大きく深呼吸した。緊張によって、心臓が早鐘を打っている。

 時刻は午後七時をすぎて、すっかり窓の外は夜闇に包まれていた。うす雲をまとった星々が、遠くの空でぼんやり瞬いている。


 いまリビングにいるのは、僕一人だった。みんなは部屋にこもって、無人島の最後の夜を切迫した思いですごしていることだろう。今日さえ乗り切れば、ようやく怪異が潜む無人島から解放される。


 でも、僕はその前に、どうしてもやっておかなければならないことがあった。震える指でカラオケの電源を入れ、マイクを手にする。


「あー、あー、マイクテストマイクテスト」


 スピーカーから、わずかにエコーのかかった僕の声が響く。他の部屋にもちゃんと通じているのか、確認のために廊下に出ると、それぞれの部屋でざわつく様子が伝わってきた。一番の心配だったが、どうやら問題ないようだ。

 僕は軽く咳払いをして喉を整えてから、ゆっくりとマイクに口を寄せる。


「ちゃんと聞こえてますか。僕です、フミです。そのまま部屋の中で、僕の話を聞いてほしい」」


 この瞬間までじっくりと練ってきたセリフだが、過不足なく伝わるのか少し不安ではあった。

 しかし、出発してしまった以上、途中で止めるわけにはいかない。たとえ不備があったとしても、このまま突き進むしかなかった。僕は手汗を拭って、マイクを握りなおす。


「こんな形で僕がみんなに話しかけるのは、どうしても伝えなきゃいけないことがあるからなんだ。少しだけ話に付き合ってほしい」声にためらいがこもらないように、一拍置いてからつづける。「僕には弟がいた。双子の弟だ。まったく同じ環境ですごしていたにも関わらず、どういうわけか弟だけが死んでしまった。どうして僕ではなく弟だったのか――そのことが引っかかって、ずっと悩んでいる」


 ここで、息継ぎのため一旦言葉を区切る。はやる気持ちを抑えて、長く息を吸い――吐く。

 緊張で口の中が渇き、舌が張りつきそうなほどカラカラになっていた。


「ごめん、前置きが長くなった。ここからが本題だ。僕は弟の死の原因を調べてネットに没頭するようになり、両親からネット依存症改善プログラムを勧められるまでになった。僕は申込書に、自分の名前を書かなかった。気の迷いから弟の名前を書いたんだ。さっき、みんなに名乗った名前は弟のものだ。僕の本当の名前は、『日高智哉ひだか ともや』という。みんなに名前を聞いておきながら、自分だけウソをついているのが心苦しくて、このままではいられなかった。ごめんなさい」


 滞りなく言えたことに、ひとまず安堵する。だが、僕にとって本編と言えるのはこれからだった。

 いままでは、あくまで巻き餌――釣り糸を垂らす用意は整った。


「ウソをついたお詫びと言うか……ケジメと言うか……。大きなことを言っておいて、結局僕は文字喰いを見つけられなかった。その落とし前をつけたい。これから、みんなの部屋に僕の名前を書いた紙を届ける。それを明日確認しあえば、文字喰いが判明するはずだ。文字が消えた紙を持っているのが、文字喰いの証拠となる。だから、おとなしく部屋で待っていてほしい」


 僕が最後の一言を言い終えるやいなや、ドタドタと廊下を踏み破りそうな乱暴な足音を鳴らして駆けてくる人物がいた。

 彼女はリビングに飛び込んでくると、険しい表情で僕をにらみつけて、開口一番怒鳴りつけてくる。


「こ、このぉ――」声は微妙に上ずり、膨らんだ鼻の穴がヒクヒクと震えていた。「フミくんのバカタレ! また……また、そういう危ないマネを勝手にしようとする!!」


「サーヤ!」

「だから言ってんでしょ。その、無茶なことやるんじゃない。自分の命をなんだと思ってる!」

「いや、文字喰いを見つけるためには――」


 サーヤはマイクをひったくり、わざとらしく咳払いしてから言った。


「わたしも名前を書く。消せるもんなら消してみろ、文字喰い!」


 いろいろとすっ飛ばして、サーヤは脈絡ない宣言を発する。どうしてそうなったのか、まったくわからない。

 思いがけない展開に、僕は目をむいて仰天した。


「ちょ、何を、それ何が、まちがッ――」


 思考がこんがらがって、うまく言葉を紡げない。

 口にしようとする言葉と、口からこぼれ出る言葉が、反発するように噛み合ってくれなかった。

 焦る僕を尻目に、興奮で頬を紅潮させたサーヤは、マイクに向かって早口でまくし立てる。まるでプロレスラーのマイクパフォーマンスのようだった。


「フミくんにだけ危ない橋を渡すわけにはいかない。わたしもリスクを背負う。やれるもんならやってみろ、文字喰いのこんちくしょうめ!!」


 さらによけいなことを口走りそうなサーヤから、強引にマイクを奪ってカラオケの電源を消す。

 不服そうなむくれ顔に、僕は人生最大の剣幕で詰め寄った。


「どうして、キミはそう……もうッ!」


 どこから責めるべきか迷いわき起こった無数の苦言が、喉の奥で渋滞して叱責が出てこない。もどかしさに頭を抱えて、そのままソファに倒れ込んだ。

 さすがに多少は気まずくなったのか、サーヤの顔はぎこちない苦笑に変わっていく。遠慮がちにちょんちょんと僕の肩をつつき、反応がないとみるや隣に腰を下ろした。


「やっちゃったもんは、もうしょうがないでしょ。そこまで思い詰めるようなことじゃないよ」

「サーヤはお気楽だな、うらやましい……」


 ほんのちょっぴり嫌味を混ぜたつもりだが、彼女はどう受け取ったのか照れ笑いを浮かべていた。本当にお気楽だ、心底うらやましい。


「あっ、これか――」


 テーブルに置かれた複数枚の紙を見つけて、サーヤは手元に引き寄せた。すでに『日高智也』と書かれている。

 その下に、サーヤは迷いなくペンを走らせた。


「これで、うまくいけばいいんだけど……」

「大丈夫、きっとなんとかなるって!」


 不安ばかりが膨らむ状況で、いまはサーヤのお気楽さがありがたかった。不安の一端を作ったのが、サーヤだとしても。

 僕は肩の力を抜いて、時計に目をやる。人事は尽くした――あとは、天命を待つだけだ。


※※※


 深夜零時をすぎて、日付が変わる。ついに無人島の最終日を迎えたことになる。

 そこから、さらに二時間ほどたった頃――足音を忍ばせて、ひっそりとリビングに入ってくる人影があった。


 人影はためらいなく壁際に身を寄せて、電灯の消えた暗がりの中にうすぼんやりと浮かび上がった文字と向き合う。

 文字にそっとふれる。まるで撫でつけるように、手のひらを壁に添えて上下に動かしたのだ。壁に書かれた大きな文字は、その単純な動作の果てに、綺麗サッパリと消えていた。最初から何も書かれていなかったかのように、壁にはインク染みの欠片も残っていなかった。


 手のひらがもう一つの文字に移り、先ほどとまったく同じ動作を繰り返す。

 またも壁から文字が消えていく。ただし、今回は一部分残った。

 暗がりの中で行ったことだけに、とらえきれなかったのだと思ったようで、残ったに手のひらを這わせる。


 その瞬間、僕は身を潜めていたソファの影から飛び出し、電灯のスイッチを押した。

 明かりが灯り、視界が開ける。眩しさに目を細めた僕の前には、驚きを張りつかせた見知った人物がいた。


「何をやった?」


 彼女はサッと表情を消して、生気のない青い顔を壁に残ったに向ける。正体が知られたことを、気にした素振りはない。


「ちょっとした実験だよ。漢字を変えたことに気づくかどうかの」


 僕は『薔薇』の『薇』の字を一度消して、似せた字に書き直していた。くさかんむりの下を、『佳』の字に置き換えたのだ。彼女が喰った文字は、『薔薇』ではなく『薔佳』だったわけだ。


 文字を消すのに苦労はしたが、その甲斐はあった。僕の予想どおり、気づくことなく引っかかってくれた。


「……やっぱり、あなただったんですね」

「その言い回しだと、キミはわかっていたということか。気をつけていたつもりなんだがね」


 淡々とした口調に人間的な情緒は皆無で、かつての僕が知っている彼女と印象がかけ離れている。本当に人間ではないということを、狂おしいほどに痛感した。

 ようやく『文字喰い』を突き止めたというのに、うれしさよりも胸の痛みを強く感じる。


 僕は唇を噛んで、彼女を――文字喰いを――無表情でたたずむチイを見つめるのだった。

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