15.穏やかな日々
「簡単なものでいいよね」と、そう言ってキッチンに向かったユアさんは、実際に手早く調理をすませて戻ってきた。ご飯は朝のうちに炊いていたとのことだ。
皿に盛られた料理は、豚のしょうが焼き――しょうが焼きが簡単な料理なのかもわからないが、少なくとも手抜き料理でないことは食欲をそそるにおいで伝わった。千切りキャベツまで添えられている。
空腹ということもあり、僕たちは一心不乱にしょうが焼きを食べた。全員が無言でがっつき、キャベツの欠片も残らなかった。
「ごちそうさま、すごくおいしかった」
「おそまつさまです」
ユアさんがうれしそうに答える。後片づけを買って出ると、サーヤとマッキが手伝いを申し出てくれた。
キッチンに行って、三人で食器を洗う。そのとき、ふいにマッキが「あっ」と小さな声を上げる。
「どうかしたの?」と、過剰にかけた洗剤のせいで泡まみれとなったコップを手にしたサーヤがたずねた。
「いま食堂にいるの、ユアさんとタミーだけだよね。二人きりで大丈夫かな」
昨日の今日だ、あまり相性がいいとは言えない二人だけに、また何か起きるかもしれない。
サーヤとマッキが、不安げに僕をじっと見てくる。口にせずとも、言いたいことはわかった――というよりは、何を押しつけようとしているのかわかった。
「しょうがないなぁ。ちょっと様子を見てくるよ」
しかたなく片づけを切り上げて、一足先に食堂へ戻る。確かに心配だが、僕だってできることなら仲裁役はやりたくない。
モヤモヤした不満を抱えて廊下を歩いていくと、食堂から思いのほか穏やかな話し声が聞こえてきた。正確には、一方的に話すユアさんの声が耳に届く。
僕は入り口脇の壁を背にして、気づかれないように聞き耳を立てる。
「昨日はごめんなさい。わたし、一度頭に血が昇ると、なかなか静まらなくて……」
ヒステリーの自覚は、以前からあったのだろう。この異常事態の最中では、自覚があっても抑えるのは難しいのだと思う。
タミーからの返事はない。そっと覗き込んでみると、腕組した姿勢のまま固まっている。ムスッとした不機嫌そうな顔つきをしているが、どちらかと言えば困っているような気配を漂わせていた。
「前は、こうじゃなかった。人のせいにするのは卑怯だと思うけど――うちの旦那って神経質な人でね、些細なことでいつも小言を投げつけてくるの。自分では家庭のことを何もやろうとしないくせに、文句だけは絶えず言ってきた。小さい不満ばかりだけど、それが積み重なって、気がつくとずいぶんと怒りっぽい人間になっていた」
タミーはムスッとした顔を維持したまま、ますます困惑の気配を強める。
僕だって、同じ立場だったら返す言葉に詰まっていたことだろう。他人のプライベートな問題に、軽々しく口をはさめない。
「ここに来てからは、楽しかったな。どれだけ家事をがんばっても褒めてくれない旦那と違って、みんな感謝してくれる。さっきもフミくんに料理をおいしかったと言ってもらえて、すごくうれしかった」
もし文字喰いがあらわれなかったら、この無人島の生活はさぞかしユアさんにとって有意義なものになったことだろう。
いかんともしがたい不条理が、彼女の日々を歪めている。文字喰いへの憤りが胸にわいたとき、「ちょっと、こんなとこで何やってんの!」いきなり背後から怒られる。
片づけを終えたサーヤとマッキが戻ってきたのだ。サーヤとしては、二人を見守る役目を放棄しているように感じたのかもしれない。
「誰かそこにいるの?」
さすがに見つかってしまったようで、僕はおずおずと顔を出す。
ハの字に眉を下げた困り顔のユアさんと、頬を紅潮させた怒り顔のタミーが目に入った。いるなら、もっと早く出てこい――と、タミーは無言で訴えている。
ぎこちない苦笑を浮かべた僕を盾にして、サーヤとマッキも食堂に踏み込んできた。
「聞いてたの?」ユアさんの口調に、咎めるような響きはなかった。「まあ、別にいいんだけど」
「ごめん、そんなつもりなかったんだ、偶然聞こえちゃって……」
一瞬疑わしそうに目を細めたユアさんだったが、そこを掘り下げてくることはなかった。掘り下げたところで、不毛なだけだとわかっているのだろう。
状況をまだ理解していないサーヤが、遠慮がちに声をかける。
「どんな話をしてたの?」
これ以上、もう突っ込むな――と、タミーがげんなりした顔で表現した。
「……とんでもなく性悪な女の話。そいつはストレスが溜まると、ネットで有名人を叩いて発散していた。たいして興味もないのに、憂さ晴らしのために粗を探して執拗に悪態を吐きつづける。SNSで相手にブロックされると、それを喜んだ。こちらの声がちゃんと届いていることが、ただただうれしかった。本当、最低な女……」
途中からユアさんの声は鼻声になっていた。まるで喘ぐような口調で、苦しげに胸の内をさらけ出す。
僕はかける言葉を探したが、必死に自分の中をあさっても見つけることができなかった。喉がキュッと締まるような感覚を味わう。
そこに、思いがけない一言が放たれた。
「なんだ、そんなことかよ」ぼそりと、タミーがつぶやく。その顔にはうっすらと笑みが浮いていた。「俺も気に入らないゲームをボロクソに叩いたことがある。レビューで星一つを連発したこともあった。そりゃ悪いことかもしんないけどさ、誰だってやっちまうときはある」
「俺も……いじめを主導してたヤツをSNSでさらしたことがある。それで、よけい学校に行きづらくなっちゃうんたけど」
つづけてマッキも、苦笑しながら秘密を打ち明ける。
「わ、わたしも――わたしの――」
身を乗り出してサーヤまでも参加しようとするが、うまく言葉がつづかない。
「ないなら別に無理しなくてもいいんだよ」
「ちがーう! わたしが言いたいのは、わたしのママも、パパが死んでからすごい怒りっぽくなって、あの頃のママは正直苦手だった。でも、デイサービスで働くようになってから、かなりマシになったんだ。元々看護師で誰かの世話をすることが好きってのもあるんだろうけど、やっぱり社会に必要とされているって気持ちが心を安定させるんだと思う。ユアさんも働きに出たらいいんじゃないかな」
意外と真っ当なアドバイスだ。唯一共感も助言も浮かばなかった僕は、ちょっぴり疎外感をおぼえる。
ユアさんは何度も鼻をすすり目元を拭ってから、やわらかく微笑んだ。
「そうね、働くのもいいかもしれないわね」
ここで話し合ったくらいで、ユアさんの現状が改善できるとは思わない。そんな簡単な問題ではないだろう。それでも、心なしか場の空気はなごんだ気がする。張り詰めていた緊張感がほどけて、心地いい安心感が溢れてきた。
こういう状況こそが、本来のネット依存症改善プログラムがもたらす効果だったのかもしれない。だから、よけい『文字喰い』の異質さが浮き彫りになる。
ふと視線を感じて顔を向けると、マッキが戸惑いを宿した目で僕を見ていた。数度喉を詰まらせ、ためらいがち口を開く。
「本当に、この中に文字喰いがいるの?」
それは、願いにも似た言葉だった。文字喰いというバケモノが潜んでいるとは、信じたくない思いの結晶だ。
みんなの視線が僕に集まってくるのを感じた。誰もがマッキと同じ気持ちなのだろう。
「まだ断定はできないけど……可能性としては低いと思う」
「おい、いままでさんざんあおっといて、どういうことだよ!」
タミーの苛立ちはもっともだ。僕の中ではつながっていても、理由を知らなければあっさり意見をくつがえしたようにしか思えない。
いまこそ協力を要請するチャンスだった。僕は腹をすえて、一同の顔を見回す。
「参加者に混じった文字喰いを探し当てる方法は見つけた。最初から書き置きに示されていたんだよ」
「あの穴だらけの書き置きに?!」
サーヤは困惑を歪めた眉であらわす。近くで穴埋め作業を見てきた分、驚きも大きいようだ。
「ただ文字喰いを特定するためには、どうしても必要な情報がある。みんなに教えてもらわなきゃいけない」
何を問われようとしているのか不安を感じて、身を固くする気配が伝わってきた。
僕は穏やかな声色を心がけて、落ち着いて告げる。
「みんなの本当の名前を教えてほしい」
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