4.雨滴の朝
頭の芯が鉛になったような重苦しい感覚が抜けなかった。こびりついた睡魔によって、いつまでたっても意識がハッキリとしない。
昨晩遅くまで寝つけず、悶々とすごしたダメージが影響していた。もっとゆっくり眠っていたいが、昨日の出来事が脳裏をよぎり、まぶたを落としても二度寝を阻害される。
どうしようもないので、僕は部屋のカーテンを開けて、ぼんやりと外の景色を眺めた。幾重にも折り重なり層となった灰色の雲が、すき間なく空を覆っている。うす暗い影のかかった海は荒れて、そのうち一雨きそうな天気だ。
「スッキリしないなぁ……」
ぼそりとつぶやき、アクビをする。
ちょうど部屋の前の廊下を、誰かが歩く足音が聞こえた。重々しい音の響きからして、おそらくタミーだろう。そろそろ朝食の時間だ、案外と規則正しい生活を送っている。
いつまでもだらけているわけにもいかないので、僕はタオルとハミガキセットを手に洗面所へ向かう。
廊下を渡っていくと、風呂場やトイレから独立した化粧室を兼ねた洗面所があった。さすが別荘だけあって、大きな一枚鏡を使った立派な作りをしている。
「あっ――」洗面所には先客がいた。「おはよう」
鏡越しに僕を見て、サーヤは眉間に深いしわを寄せた。わかりやすく不機嫌をあらわした彼女は、ハブラシをものすごいスピードで動かして口周りを泡だらけにする。
見たところ体調は悪くなさそうだった。顔色はよく、目の腫れも取れている。アゴの下に小さなニキビができていたが、すっぴんの肌自体はツヤツヤして滑らかだ。
高速でハミガキをすませたサーヤは、締めのうがいを終えると即座に洗面所を出ようとした。その背中に向かって、僕は声をかける。
「文字喰いのこと、聞かせてよ。気になってしょうがない」
「……意外と知りたがりなんだ」
サーヤは背を向けたまま、抑えた低い声で、ぼそっと言った。少し呆れが混じっているようにも聞こえた。
「ここではネットで調べられないからね。一度気になりだすと、モヤモヤを払えなくて困る。カズマさんにも聞くつもりだけど、サーヤが知ってることも教えてほしい」
ほんの一瞬振り向けたサーヤの横顔には、困惑が詰まっていた。なぜ、ここまで『文字喰い』を気にかけるのか、理解できないといったふうな様子だ。
「あの人に聞くなら、わたしは別にいいでしょ」
そう言い残して、今度こそ洗面所を出ていく。
僕はハミガキをしながら、頭のなかでいまの言葉を反芻する。
サーヤはカズマのことを、「あの人」と呼んだ。親しいわけではないが、知り合いであるということなのだろうか。何らかの関係がある――もしくは、教授を通した間接的な関係がある。それぞれの立ち位置から状況を推察すると、謎の書き置きを残した教授が、二人をつなぐキーマンではないかと思った。
「……まあ、直接聞けばいいか」
サーヤが答えてくれなくとも、カズマを問いただせば何かしらわかるはずだ。
僕は手早く支度をすませて、期待を胸に食堂へ向かう――が、カズマはまだ来ていなかった。
食堂では朝食のトーストをユアとマッキが運んでいる。ゼンさんとチイは席について一足早くコーヒーをすすり、タミーは計量カップを持ち出してこだわりのカフェオレ作りに没頭していた。
僕よりも早く朝の支度を行っていたサーヤの姿も、まだ食堂にはない。女は準備に時間がかかると言うが、どの工程に手間取っているのか、男の僕には皆目見当がつかない。
「おはよう、フミくん」
テーブルに着くと、ユアさんがコーヒーカップを渡してくれる。立ち昇る湯気越しに見た彼女の顔は、心なしか憂鬱そうだ。あんなことがあった翌日である、無理もない。
「おはようございます。今朝って、ユアさんが食事当番でしたっけ?」
「代わってもらったの。体を動かしていると、よけいなこと考えなくていいから」
「そう、代わってやった」と、タミーが満足げな顔で言った。理想のカフェオレができあがったらしい。
僕は肩をすくめて、コーヒーを一口すする。普段はミルクと砂糖を入れるが、今日はブラックで――濃い苦味の後に、ほのかな酸味が香ってきた。眠気覚ましにはちょうどいい。
我慢して二口目を喉に流し込む。視界の隅では、マッキが焼き立てのハムエッグをテーブルに配膳していた。
「そろそろ朝食の時間なんだけど……全員が揃っていないと、嫌な感じがするわね」
冗談めかした口調であったが、ユアさんの目は笑っていなかった。僕たちも笑えない。
胸騒ぎをおぼえて、一同の顔に不安が膨らんでいく。緊張によって鳴った喉の音が、やけに大きく室内に響いた。
カタリと静かにドアが開き、サーヤが登場する。その瞬間、全員が彼女に視線を向けた。過敏になりすぎているとわかっていっても、どうしても反応してしまう。
いきなりの注目に目を丸くして驚いたサーヤは、戸惑いを声にしのばせた。
「ど、どうしたの?」
「カズマさんがまだ来てないんだ」理由を口にした途端、彼女の顔から血の気が引いた。「僕、ちょっと見てくるよ」
席を立つと、渋い顔でゼンさんも腰を上げた。少し遅れてチイも立ち上がる。
「私もいっしょに行こう。さすがに、ありえないと思うが……」
ゼンさんとチイ、さらに無言で困惑を張りつけたサーヤもついてくる。広い別荘とはいえ、四人で動くとなると廊下はせまく、自然と年長者であるゼンさんが先頭になっていた。
カズマの部屋に到着し、ゼンさんがためらいがちにノックをする。何度も何度も。
反応はない。あのときと同じだ。
こらえきれないといった様子で、サーヤが強引に割り込んでドアノブをつかむ。カチャリと音を立て、すんなりとドアは開いた。これも、同じだ。
そして、三度目の同じ――部屋の中で、カズマは倒れていた。苦悶の表情を浮かべ、胸をかきむしった痕跡を残して。
「なっ……」ゼンさんは声を詰まらせ、顔を強張らせる。「なんで、こんなことに……」
動転して固まったゼンさんの脇を抜けて、僕は首筋に指を当てた。ひやりとした体温以外に、指先が感じ取ったものはない。かすかな希望はあっさりと打ち砕かれる。
「またなの?」
困惑と言うよりは、苛立ちのこもったヒステリックな声がサーヤの口からこぼれる。
僕はとっさに周辺を見回し、書き置きがないか探す。サイドテーブルに切りはがされたメモ紙を見つけて、慌てて飛びついた。
『い』と書かれていた。メモ紙の右端に、『い』とだけ書かれている。他には何も書かれていない。
不自然に右に寄った『い』の前には、何か文字が書かれていたのではないかと思った。それは、『文字喰い』ではないだろうかと思いつくのに、時間はかからなかった。
カズマがどのような意図をもって、これを書いたのかはわからない。もしものときのために何か伝えようとしたのか、それとも、たわむれに手慰みとして書いた可能性だってある――どちらにしても、もう知ることはできない事情だ。
ふいに足がふらつき、窓に手をつく。平静でいたつもりなのだが、知らず知らずのうちに精神的に不安定な状態になっていたのだろうか。
短く吐息をつき、顔を上げる。ついに降り出した雨が、ポツポツと窓ガラスを叩いていた。
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