3.文字喰い
食堂に戻り、状況を整理する。
「これからどうする。柄本教授が亡くなっては、依存症の改善をつづけることはできないだろう」
一番に重い口を開いたのは、最年長のゼンさんだった。しきりに耳の後ろをかくせいで、連動したメガネがヒョコヒョコ高速で上下している。
僕は腹の底にグッと力を込めて、必死に笑わないように我慢した。誰もが神妙な顔つきをするなか、笑ってしまってはひんしゅくを買う。
「当たり前だ。死人が出てるんだぞ、こんなことやってられるか!」
教授の急死に動揺して、タミーの語気が荒くなっていた。他の参加者たちも、それぞれ形は違えど不安をつのらせている。
顔面蒼白となったユアさんは頭を抱えてテーブルに突っ伏し、苦しそうに言葉を絞り出す。
「……昼までは、あんなに元気だったのに」
彼女の言うとおり、昼食時の教授は身体に問題があるような様子はまったくなかった。胸をかきむしった痕跡が残っていたことを考えると、状況的に心臓発作と思われるが、持病でもあったのだろうか。
教授の正確な年齢はわからないが、まだ高齢と呼べるほど老いてはいなかったことは確かだ。おそらくギリギリ中年に分類される年代で、突然死したということになる。ありえないわけではないが、少し引っかかるものはあった。
「こういうのって、警察だか病院だかに連絡して、処理してもらわないといけないんだろ」
「そりゃそうだけど、七日目までここを出られないよ。連絡しようがない」
「あ、そうだった――」
タミーはすっかり失念していたようで、肉づきのいい頬を震わせて頭を乱暴にかき回した。油っぽい髪の奥に潜んでいたフケが飛び散り、隣に座っていたマッキは大げさに体を反らしてさけている。
僕はちらりと食堂に置かれた振り子時計に目をやった。短針は七時を少し回ったところを指しており、窓の外では夜の帳が下りている。無人島の数少ない利点として、街中では見られない美しい星空を挙げられるが、今日にかぎっては分厚い雲が垂れこめて幾千の瞬きは地上に届いていなかった。
まるで憂鬱な気分を晴らせるものを、あまさず排除されたような環境だ。ここには気を紛らわせるネットもテレビ、ラジオさえもない。重苦しい空気は時間と共に密度を増していき、誰も口を開くことさえなくなってしまう。
その代わりとでも言えばいいだろうか。唐突に虫が鳴った――腹の虫だ。
反射的にタミーを見ると、心外そうな顔で首を振る。彼の目線が横にずれて、僕は後を追っていく。
「ご、ごめん、お腹空いてる感覚はないんだけど……」
赤面したユアさんが、腹を押さえて苦笑する。
ゼンさんは何か告げようとする気配を見せたが、途中でしおれたように顔を伏せて半端に浮いた腰を椅子に戻した。妙な様子が少し気になった。
「そういや、メシまだだったな」
テーブルには食事の用意は整っているが、食いしん坊のタミーも手をつけようとはしない。カラアゲも味噌汁もすっかり冷めてしまっている。たとえホカホカの温かい料理であったとしても、食べる気にはならなかっただろう。
肉体的には空腹なのだと思うが、まったく食欲がわかなかった。死者と対面した直後に、カラアゲが喉を通るわけがい。
「少しでも」と、ここで一旦区切り、ゼンさんはためらいがちにつづける。「何か腹に入れておいたほうがいいかもしれないな」
「それなら、そうめんでも茹でましょうか。まだ食べやすいでしょ」
ユアさんはさっそくキッチンに向かう。食事当番として、僕も手伝おうと思い立つが、ちょうど入れ替わりにチイが戻ってきたことで、踏み出そうとした足は止まる。
「サーヤはどう?」
はからずも第一発見者となったサーヤは、ショックで具合が悪くなり、チイが部屋まで付き添っていた。不意打ちの死体発見は恐ろしいことではあるが、そこまでショックを受けるものかと、僕の感覚では理解できない。
チイは曖昧な表情を浮かべて、小さく首をかしげる。
「だいぶ落ち着いてはきたけど、かなり参ってるみたい。今日はもう寝るって、ベッドに潜り込んでたわ」
「そうか、心配だな……」
「あの、これからどうするの?」
話し合ったが、まだ決着はついていない。その現場を見ていない彼女が、今後の方針を知りたがるのは当然だろう。
僕はまとめ役を期待して、最年長のゼンさんに目を向けた。視線には気づいていそうなのだが、ゼンさんはメガネを外してテーブルに置く。責任を押しつけられることを、さりげなく拒否したように見えた。
「外に連絡取れないかな」
マッキが小さな声で、ぽつりと言った。
「通信機器の持ち込みは禁止だって、荷物を徹底的に調べられたの忘れたのか。空港の検査よりも厳しかったぞ」
「俺たちのことじゃなくて、教授が――」
いまいちピンときていないタミーを遮り、僕は「あっ」と声を上げる。
「なるほど教授か。確かに教授なら持っていても不思議じゃない」
「どういうことだ?」
「ケガとか事故みたいに緊急を要する不測の事態に備えて、教授が通信機器を持っていてもおかしくないってことさ。責任者が参加者の安全をないがしろにはできないだろ」
タミーはポンと手を打ち納得した。だが、その表情はすぐに不穏な色に染まっていく。
「教授が通信機を持っていたとして、当然あるのは教授の部屋ってことになるよな。誰が……あそこに取りに行くんだ?」
部屋にはまだ教授の遺体が手つかずで残っている。申し訳ないことだが、生理的に不気味に感じるのはヒトとしてしかたないことだろう。
「いいよ、僕が行ってくる」
「いや、俺が行く」
教授の部屋を出て以降、じっと黙って思い詰めていたカズマが、はじめて口を開く。普段のチャラさはすっかりなりを潜めて、どこか決意を固めたような厳しい表情を浮かべていた。
「二人で探したほうが早いよ」
「だったら、わたしもいっしょに――」
チイも名乗り出て、結局三人で教授の部屋へ向かうことになった。カズマは一瞬渋い顔をしたが、不服は飲み込んで提案を受け入れる。
教授の部屋は――当然ながら、まったく変わっていない。デスクに置かれた奇妙な書き置きも、そのまま残っている。
僕は真っ先に書き置きを手に取り、改めて目を通した。あえて文字を削ったのか、読み解くことができない違和感だらけの文章に首をかしげる。何度も見ていると、漢字の採択も不自然に思えてきた。最後に記された【柄本大輔】の署名だけが、印字であることにも気づく。
ふと視線を感じて顔を上げると、捜索の手を止めて、こちらの様子をうかがっていたカズマと目が合う。何食わぬ顔で捜索に戻ったが、あきらかに疑念をにじませていた。
何か知っているのだろうか?――僕は迷った末に、声をかけてみることにした。ただし、書き置きについてではなく、耳に残った言葉について。
「カズマさん、『文字喰い』って何?」
彼はギョッとして目をむいた。聞かれていたことに気づいていなかったようだ。
逡巡によって顔が強張っていくさまを、はっきりと目にする。動揺に打ち抜かれ、脂汗が額を濡らしていた。
口にするのをためらうような問題発言なのだろうか。僕は何が何だかさっぱりわからなくて、眉間にしわを寄せる。カズマの異変を、チイも不思議そうに眺めていた。
「少し時間をくれ。落ち着いたら、明日にでも報告する。突拍子もない話すぎて、俺も理解が追いついていない状態なんだ。そもそも、ただの勘違いかもしれないし……」
やっとの思いで返事を返し、カズマは怯えた目を床に落とした。それ以上のことは、この場では答えてくれそうにない。
明日報告するという言葉を信じて、僕はひとまず通信機の捜索に当たる。デスク回りからはじめて、引き出しの中身を確認し、資料の詰まった段ボール箱も一つ一つ開けて丹念に探してみた。
だが、どこにも見当たらない。本当に所持していたのか、不安になってきた。
目に見える範囲はあらかた調べて、再びデスク周りに戻ってくる。そのとき、デスクの隅にあった鈍器になりそうなほど分厚い国語辞書に目がいく。辞書の間から、わずかに白い何かがはみ出していたのだ。
何気なく辞書を開いてみると、それはメモ用紙だった。両面とも何も書かれていない、白紙の状態だ。しおり代わりに使ったのだろうかと首をかしげて、開いたページにずらりと並ぶ言葉の列を眺める。『四万十川』の文字が目に入った。
僕は辞書を閉じて、捜索を再開した。先ほどと同じ手順で、もう一度引き出しの中身を確認する。
やはり通信機は見当たらない。
一時間近くかけて、三人がかりで部屋をくまなく――遺体のある寝室も含めて――調べたが、目当てのものはどこにもなかった。にっちもさっちもいかなくなり、やがて捜索は打ち切りとなる。
食堂に戻り、僕たちは失意の中でそうめんを胃袋に流し込む。食料が腹にたまったことで、鈍っていた思考がわずかに回復しはじめた。
僕は頭を整理する。期待された成果はなかったわけだが、思いがけない事実を見つけていた。
教授の部屋にはデスクに残された書き置き以外に、ネット依存症改善プログラムの報告書が何枚かあったのだが、いくつか書き置きと同じように文字が不自然に欠けた書類が見受けられた。文字が欠けていない報告書と、文字が欠けている報告書を分ける線引きは、おそらく発見時の困難さにある。見つけるのに手間取った報告書は、文字が欠けていなかった。逆に引き出しの中にあって簡単に見つけることができた報告書は文字が欠けていた。
人の目につきやすい書類は、教授があえて文字を削ったということなのだろうか?――現状では、判断できそうにない。
それと、もう一つ。ダンボール箱を開けて気づいたことなのだが、持ち込まれた資料の大半は海外の文献であった。英語圏のものやアラビア語と思われる文字がつづられたもの、特に多かったのは中国語の文献だ。なかには挿絵でおどろおどろしい怪物が描かれている本もあり、本当に資料であるのか疑問が残る。
ネット依存症の改善治療を行う教授は、心療内科が専門のはずだ。無関係に思える文献は、資料と称して持ち込んだ趣味の本という可能性もあった。
なんにしてもだ。これらが教授の死に関係しているとは思えない――思えないのだが、なぜか心に引っかかる。その原因がどこにあるのか突きとめられないまま、そうめんを食べ終えて、今日は解散することになった。まだ眠りにつくには少々早い時間帯であったが、誰も反対しなかった。
各々そそくさと部屋に戻り、僕も割り当てられた部屋のベッドで横になる。
しばらくぼんやりと天井を見上げてすごしたが、眠気は一向に訪れる気配はない。どうしたものかと考えて、散歩にでも行こうかと思い立つ。
「あっ……」
部屋を出たところで、ばったりサーヤと出くわした。顔色はよくなっていたが、目元が赤く腫れている。
泣いたのだろうか?――出会ったばかりの教授の死に、そこまで思い入れを抱く心境がわからなかった。
「具合はもういいの?」
「うん」と、短く返して、サーヤは顔を伏せる。ふとした拍子に感情がこぼれ出さないように、身構えている感覚だろうか。
参加者の中で、こんなにも感傷的になっているのはサーヤだけ――と、そこで、もう一人いたことを思い出す。カズマだ。サーヤとカズマだけ、あきらかに他の参加者と温度差があった。
「文字喰い」
「えっ?!」サーヤの顔つきが露骨に強張った。動揺して、目線が定まらない。「ど、どうして、それを……」
思いつきでカマをかけみたのだが、見事に引っかかってくれた。
二人に関連性があるようには見えなかったが、『文字喰い』という謎の言葉を通して何らかのつながりがあることは間違いない。
「カズマさんの独り言を偶然聞いたんだ。くわしいことはわからないけど、キミも知っているのか?」
「し、知らない。わたし、何も知らない! もうほっといてよ!」
血相を変えたサーヤは身振りを交えて拒絶し、自分の部屋に駆け戻っていってしまった。残された僕は、しばらく廊下に立ち尽くして考えをまとめる。
そうしていると、驚いたことに戻ったはずのサーヤが再び姿をあらわした。怒りの形相でズカズカと近づいてきて、すぐ脇を通りすぎていく。
「あー。そういうこと……」
そのままサーヤが入っていったのは、トイレだ。
出てきたときにまた遭遇しても気まずいので、散歩はやめて部屋に帰る。まだまだ眠れそうにないが、おとなしく夜が明けるのを待つしかなさそうだ。
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