第30話♭ そして最後の試練を乗り越える彼を待つレストラン



 一体どれだけの時間、俺は店長の大きな胸に顔を埋めていたのだろうか。

 ずっとこうしていたい願望もないわけではないが、そう言うわけにもいかない。

 そんなことをしてしまったら、俺はもう色んな意味でダメになってしまうから。

 だから、俺は俺を抱きしめてくれる店長をそっと引き剥がした。


「店長、もう大丈夫ですから……」


 俺が苦笑いを浮かべてそういうと、店長は少しだけ名残惜しそうな顔で俺を見た。


「そうか……

 まぁ、またいつでも貸してやるから、必要なときはいつでも言ってくれ」


 そして、そう言って悪戯っぽく笑う店長。

 もしもそんなときが来たら、そのときは遠慮なくお願いしよう。

 そう思いながらも、俺はそれを言葉にすることはせず、店長の顔を真っ直ぐ見つめて別の言葉を告げた。


「俺にとって、店長が何よりも大事です。

 多分、失った家族よりも……」


 俺は、姉さんより店長を選んだ。

 店長と歩む、これからの世界を選んだのだ。

 それは、キチンと言葉にしないと姉さんに失礼な気がした。

 だから、店長には意味が分からないだろうけれど、はっきりとそう告げさせてもらった。


「っ!? と、突然どうしたんだ?」


 俺の突然の物言いに、店長はその目を白黒させていた。

 それも当然だろう。

 もし、俺が今みたいなことを突然店長に言われたら、パニックになったと思う。

 それこそ、パニックを通り越して、倒れていたかも知れない。


 でも、この言葉は俺にとってのけじめみたいなものだのだ。

 だから、言わないでいることができなかった。


 そんな風に考えていたら、再び俺はふわりと柔らかな感触に包まれた。


「はぁ~……全く、君は学ばないな。

 そう言う間の抜けたところがまた愛しいのだから私も大概だが……

 全部分かっているさ。

 君の覚悟も、君の決断も……それはきっと、旭さんにも伝わっているよ」


 多分、考えていたことが顔に出ていたのだろう。

 店長は俺のことを抱きしめて、そんな風に言ってくれた。

 本当にこの人には敵わない。

 そう思った。


 でも、それでこそ店長だなんて思ってしまう辺り、俺も俺なのだろう。


「私も、どんなものよりも君が大切だよ。

 私はもう、君なしでは立ち行かないだろうな」

「ぬぇっ!?」


 きっと、俺はいつまで経っても、店長に振り回され続けるのだろう。

 そんな確信が、俺の中で確かなものとなりつつあった。




















「私も、どんなものよりも君が大切だよ。

 私はもう、君なしでは立ち行かないだろうな」

「ぬぇっ!?」


 思い詰めた顔をしている少年を、自分の胸にきつく抱きしめて私はこっそり決意した。

 私の今は、旭さんの起こした奇跡の上にあると思ってこれまで生きて来た。

 しかし、少年が気付いた矛盾を考えれば、その解釈は正確ではないのだろう。

 旭さんのメールには、『あとのことは全て少年に任せればいい』というニュアンスの言葉があった。

 つまり、旭さんの死後、私を救ったあのメールを演出したのは、恐らく少年なのだろう。

 どうやったのかは私にも皆目見当がつかないが、なんとなくそうであることだけは私は確信していた。

 そして、それは、きっと彼の過酷な決断の上にあるのだろう。

 彼の発言を鑑みるに、もしかすると彼が旭さんに何らかの苦痛を強いたのかも知れない。

 ……もちろん、全ては仮定の話だ。

 根拠も何もない。

 でも、のだから仕方がない。


 だから、私は心と、亡き旭さんに固く誓う。

 これから先、なにがあっても、彼に降りかかる全てから私が守って見せると。






 それにしても、彼と私は思えば不思議な関係だ。


 私と彼の接点なんて、本当に何もなかったのだ。

 あるとすれば旭さんだが、彼女は私と彼を引き合わせる前に死んでしまっている。

 私と彼が出会うことなど、本来は無かったのだろう。


 つまり、私と彼を繋いだのは、旭さんが送った『奇跡』のメールだ。


 あのメールが全ての始まりなのだ。


 だが、あのメールはどうやら彼が起こした『奇跡』によって私に届いたらしい。


 あのメールによって出会ったのに、出会った彼によってあのメールが送られたわけだ。


 これは間違いないパラドックス。

 卵が先か、鶏が先かという疑問に似ている。


 それは、きっといくら考えても答えは分からないのだろう。

 なら私はもう、それら全てを考えない。

 全てを受け入れて、これから先の人生を彼と共に歩もうと思う。


 運命は変えられない。

 そんなものはもう信じない。


 私は私らしく、大仰に尊大に、今腕の中にいる彼を振り回し続けよう。

 私は私を貫いて、彼と共に歩き続ける。


 それが、この世界を去っていった者達と、彼の決意に対する私の精一杯の答えだった。

























 俺は店長の腕の中で、彼女の温もりに包まれながら、一つくだらない事を考えていた。


 死んだはずの姉さんと俺は、あの白い世界で再会した。

 死んだはずの姉さんから、俺と店長の元にありえないメールが届いた。

 それらがもし、俺の夢や妄想じゃないのだとすれば、それは恐らく姉さんの起こした『奇跡』なのだと思う。


 店長の語った『奇跡の担い手』だのなんだのという話を信じるつもりはない。

 でも、もし、そんな『奇跡』を起こす力があったとして。

 それを姉さんが持っていたとしても。

 最後のあの姉さんとの邂逅は恐らく姉さんの望んだものではないと思うのだ。


 だとすれば、もしかしたら……

 その『奇跡』を起こす力は、今、俺の手の中にあるのではないか……


 そんなことだ。


 『現在へと繋がる可能性を書き換える力』

 『運命を変える力』

 『ありえない事を起こす力』

 『奇跡を起こす力』


 果たしてそんなものが、本当にあるのかどうか俺には分からない。




 だが、仮にそんな力がこの世界にあったとしても……。

 それは誰かが持つ特別な力なんかじゃないんじゃないだろうか。


 『奇跡』でしか救われないような人がいて。

 もしも、その人が救われたのだとしても……

 それは『奇跡』の力なんかじゃなくて。

 諦めないで、俯かないで、その人にできる最善を尽くした結果なのだと俺は思う。


 逆境にある誰かが、必死に頑張ってあがいた結果手に入れた幸運を、

 『奇跡』が起きたなんていうのは、野暮じゃないか。


 

 死に物狂いで足掻いたその勇気と頑張りが、

 その人の望む未来をきっとその手に引き寄せる。


 それがもし、『奇跡』と呼ばれるものならば、


 『奇跡』はいつだって、必死の努力に寄り添い、そこに隠れて待っているのだ。


 俺は、『奇跡』なんて、そんなものなんじゃないかと思うのだ。






 だって、人と人との出会いだって、確率的に言えば奇跡じゃないか。

 78億人もいる中で、そのたった一人と出会ったんだ。

 

 78億分の1。


 こんな確率の出会いが奇跡じゃないって言うんなら、きっとこの世界の出来事全てが必然ってことになる。

 そんなバカなことあってたまるかって話だ。


 ……まぁ、俺の言っていることが詭弁であることは理解している。


 本当にくだらないことを考えてしまったものだ。


 

「店長」

「ん? なんだ?」


 俺は、店長の目を真っ直ぐ見つめて言葉を告げた。


「俺はあなたと出会えてよかったです。

 愛しています、皐月さん」

「ふんっ、そんなの私も一緒だ。

 愛しているぞ、仭」


 俺の言葉に、店長もまたさらりとそんな言葉を返す。

 そして、その顔が少しずつ俺の顔に近付いてきた。


 そのまま、重なる二人の唇。


 まぁ、要するに。

 『奇跡』がどうとか、そんなこともうどうでもいいということだ。


 


 そして、俺と店長は、そのままきつく抱きしめ合うのだった。



















 どちらからともなくその身を離す俺と店長。

 お互いの温もりが名残惜しくて、その身を離したものの、互いの手を握り合ってしばしの間見つめ合った。


 ただ、いつまでも乳繰り合っているわけにもいかないような気がしていたのだ。

 胸騒ぎがしたから……。


 俺の視線から、そんな思惑を感じ取ったのだろう。

 店長は、驚く真面目な顔をして、俺の顔を見つめた。


「きっと、君の出番だ。

 この屋敷には、今夜君の助けを必要とする者が、あと一人だけいる」


 そう言って、店長は少しだけ不安そうな顔をした。


 店長もまた、俺と同じ胸騒ぎを感じていたのかも知れない。


 窓の外を見た店長の視線の先には、カーテンが閉め切られた部屋があった。


「行ってやってくれ……

 そして、彼女のことも救ってやって欲しい」


 その言葉に、俺は黙って頷いた。


「大丈夫だ。

 深山夫妻に飛鳥、そして私の心も救った君だ。

 きっと、彼女も救えるはずだ……」


 店長はそう言って笑顔を浮かべた。


『安心しろ、私もついている』


 その目がそう言っている気がした。


 だから、俺はその言葉に背中を押されるように店長に背を向けて、店長が見つめていたあの部屋に向かって歩き出した。




















 少年の背中が見えなくなった。


「……ふぅ」


 私は、自分の顔に手を当てて、その表情が引き攣っていなかったか思わず確認してしまう。


「……まだ、彼に過酷を課すんですか……

 神様、ちょっと意地悪が過ぎませんか?」


 私は窓の外の月に向かって、そんな言葉を呟いた。


 何故なら、彼がこれから向き合うのは、私や飛鳥に負けず劣らずの絶望の袋小路に突き落とされた少女だ。


 むしろ、あの事故に最も直接的に関与してしまった、一番の当事者だ。


 私や少年が突き落とされた絶望と同等か、それ以上の絶望の中にいる相手だ。



 私や少年は、旭さんの起こした『奇跡』に救われ立ち上がることが出来た。


 に救われたのだ。



 深い自責の渦の中で、自らの命を絶つ勇気すら持てず、

 そんな自分にすら絶望する彼女を救えるものがいるとすれば、

 それはもう一人しかいない。


 私では、救えない。


 きっと、その声を届けることが出来るのは、彼だけだ。


 だから、私はそんな彼を信じて、笑顔で彼を送り出すことしか出来ない。


 彼が彼女を救えると信じ、この月に祈ることしか出来ない。



 彼を守ると誓いながら、そうやって彼を送り出す事しか出来ない自分が情けなかった。


 何も出来ない自分が悲しかった。


 でも、俯かない、諦めない。

 私は彼を信じ、彼の為に笑顔でい続ける。


 結局、私は、傍観者でしかないけれど……


 もう、ただ見ているだけではいないと決めたから……


「頑張って……仭……」


 私は、彼が階段を下りて見えなくなるまで、ずっと彼の背中を見つめていた。






 続く――。






 

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