第37話 それはもう帰ることが許されないレストラン


 カチャカチャ――


 俺はバーカウンターでグラスを洗いながら、そっと溜息をついた。


「ふぅ~……」


 あとは、このグラスたちを割れないように梱包して、店に送る段ボールに詰めれば今日の仕事はやっと終わる。


「………………」

「ああ、藍澤さん。今日は本当にお疲れさまでした」


 お客様方が帰ってからずっと、控室で来賓客のリスト整理をしてくれていた藍澤さんが、最後まで片づけをしていた俺のところにやって来てくれた。

 俺がそんな藍澤さんに笑顔を向けると、彼女は少し困ったような顔をする。


「藍澤さん?」


 そんな彼女の様子が少し心配になった俺は、思わずその顔を覗き込んでしまう。

 すると、藍澤さんは苦笑いを浮かべたあとで、小さな声でこう言った。


「………………いつか、私も貴方に言わなければいけないことがある」

「? 分かりました。そのときはキチンと話を聞かせて頂きますね」


 藍澤さんの言葉の意図はよく分からなかったが、その表情からその話がきっととても大切な話であろうことだけは分かった。

 だから、俺は精一杯の笑顔でそう答える。


「そう言えば、店長から聞きましたか? 今日は、このお屋敷に泊まっていくようにって話」


 話を変えようと俺が降った話題に、藍澤さんは首を縦に振って答えてくれた。

 深山のお父様が、今日のお手伝いのお礼をしたいからと、レストランスタッフ全員に客室を貸してくれるとのことだった。

 正直、あのパーティーはしんどかったので、従業員達はみな喜んでそのお言葉に甘えることにしたのだった。

 大半の連中が、この規格外のお屋敷に泊まれる機会なんて二度とないからという雰囲気だったが、その気持ちは分からないでもなかった。

 一種の高級ホテルのようなものだ。

 一生に一度、あるかないかの体験を棒に振るような無駄はしたくないとか、そんな感じに違いない。

 きっと、あとでみんな、あのお風呂を見て腰を抜かすほど驚くに違いなかった。


「………………そう言えば、満月を見ていない。神越君は知らない?」

「え? 深山ですか? 俺も見てないですけど……」


 藍澤さんに言われて気付いた。

 そう言えば、お客様方を見送って以降、深山の姿を見ていない。

 いつもなら、そろそろ現れてもいい頃だというのに……。


「まぁ、あいつも疲れてるでしょうし、もしかしたら自分の部屋でぐったりしてるんじゃないですか?」


 あれだけの来賓の対応に追われていたのだ。

 疲れていないわけがない。


「………………そう。貴方がご夫妻にカクテルをお出ししてるって聞いて、『様子を見に行く』って言っていたのだけれど……」


 一人勝手に納得していたら、藍澤さんが不意に聞き捨てならない言葉を口にした。


「ちょっと待ってください! 藍澤さん、今、なんて?」

「………………? 満月は、貴方がご夫妻にカクテルをお出ししてるって聞いて、『様子を見に行く』って言って――」

「それ、本当ですか!?」


 俺は、思わず藍澤さんの肩を両手で掴んでしまう。


「す、すみません。取り乱しました……」

「………………大丈夫。気にしなくて平気」

「それで、その話は本当なんですか?」


 慌てて謝罪する俺を、快く許してくれた藍澤さんは、俺の質問に首を縦に振って答える。


「マジか……」


 それが本当なら、今、深山の姿が見えないことが途端に不安になって来た。

 もし、藍澤さんの言葉通り深山が俺達の後を追って来ていたのなら、大広間に現れたはずだ。

 でもあのとき、深山は現れなかった。

 大広間に来るまでの間に、誰かに呼び止められて、何かを頼まれたのかも知れないが、それならこうして暇になったいま、あいつが俺のところにご両親をどんな話をしたのかを聞きに来ないのもおかしい。


 だとすれば、考えられる可能性は一つだ。


「もしかして、あいつ、あの話を聞いちまったんじゃ?」


 そして、どこかに姿を消した……だとすれば、深山のことが心配だった。


「藍澤さん、そのグラス梱包して段ボールにしまって貰ってもいいですか?」


 俺の質問に、藍澤さんは頷いてくれる。


「俺、ちょっと深山ご夫妻のところに行ってきます!!」


 深山を探す前に、俺はご夫妻に確認したいことがあったのだ。

 俺は駆け足でご夫妻を探して屋敷の廊下を駆け抜けるのだった。







 コンコン――


「はい? どなたかな?」


 執事の方に聞いて、深山のお父様――

 いや、もう旦那様とお呼びしよう。

 俺は執事の方から聞いて、旦那様がいらっしゃるという書斎を訪れる。


「神越です。一つご確認させていただきたいことがありまして……」

「どうぞ、お入りください」


 促されるままに室内に入った俺は、不躾だということは理解しながらすぐに本題に入らせてもらう。


「すみません。先程聞き忘れてしまったんですが、去年の夏の話について、満月さんはどこまで知っているんですか?」


 俺の質問に、旦那様は目を見開いた。


「あの子は、去年の夏のことは覚えていないんです……事故のショックで記憶障害になってしまっていて……話さねばと思っているんですが……けれど、突然どうしたんですか?」

「実は――」


 俺は、もしかすると深山が、あの話を聞いてしまったかも知れないということを旦那様にお伝えした。


「そんな……でも、あの子がこの屋敷を出て行ったという話は守衛からも聞いていません。恐らくは屋敷のどこかにいるはず……あの子の部屋へは?」

「まだです。まずはこのことをお父様に確認しなければと思って……」

「そうでしたか……では、あの子へは私からキチンと話をしておきます。ですから――」

「いえ。それは多分……話をこじれさせてしまうと思います」


 少し慌てた様子の旦那様に、俺は言葉を選んでそう言った。

 もし、深山が本当にあの話を聞いてしまったのだとしたら、きっとあの事故の責任を感じてしまったに違いない。

 知り合いの家族の命を奪うきっかけに自分がなっていたなんて、そのショックは計り知れない。

 俺も『自分の責任だ』と塞ぎ込んだ経験があるから分かる。

 今の深山は、あの日の俺と同じ暗闇に飲まれようとしているのだ。

 だとすれば、それを隠していた旦那様が話をしたのでは、ダメだと思った。

 それでは、どうして黙っていたのかと言い合いになってしまうだろう。


「多分、満月さんがあの話を聞いて、責任を感じてしまっているのなら、俺が行くべきなんだと思います」

「しかし、これ以上迷惑をかけるわけには――」

「迷惑なんかじゃありませんよ。それに、俺以外にあいつの背負おうとしている罪を許せる人間はいないですから」


 俺が笑顔でそう言うと、旦那様は目を潤ませた。


「君は……いや、しかし――」

「正直に言います。俺が旦那様達を許すことが出来たのは、多分あの事故で救われたのが満月さんだからです。父が命を賭して救ったのが、他の誰でもない満月さんだったからこそ、俺は心乱さずにあのお話を受け止めることが出来た……」


 そうだ。

 この状況になって、俺ははっきりと自覚した。

 俺がこの信じられないような過酷な現実を飲み込めたわけを。

 それはどこまでも利己的で、分かりやすい理由だったんだ。


「俺は、満月さんが今苦しんでいるなら、俺の手で助けてあげたいんです。だって、俺は、満月さんのことが――」

「それは、私なんかではなく、あの子に最初に言ってあげて下さい。……こんなことを、私が言うのは変かも知れませんが……娘のことを頼みます」


 俺の言葉を遮って、旦那様は全てを悟ったような顔でそう言って俺に頭を下げた。


「娘の部屋は、西棟の最上階です」

「わかりました! ありがとうございます!!」


 決意の表情で俺を見送る旦那様に背を向けて、俺は駆け足で書斎を出て行くのだった。







 息が、上手く出来なかった。

 真っ暗な自室で、私は一人ベッドに顔を埋めていた。


 心臓が張り裂けそうだ。

 そして、溢れ出てくる様々な思いに、私の胸も張り裂けそうになっていた。

 震える手で、脈打つ心臓の上についている乳房を引き千切って、その心臓を抉り出し握りつぶそうと指に力を込める。

 自分の指の爪が食い込んだ乳房が痛んで、私はその手を胸から離した。

 この程度の痛みで手を引いてしまうなんて……これでは、心臓を抉り出すなんて不可能だ。

 情けない自分に、泣けてしまう。

 いや、もうとっくに、私の双眸からはとめどなく涙があふれていた。


「うっく、……えぐ……ぐしゅ……ひっく……」


 必死に堪えても、しゃくりあげてしまう。

 あまりに泣き過ぎて、むせてしまう。


 どうしてこんなことになってしまったのだろうか。

 もう、わけが分からなかった。


 お父さんがあいつと話していた話を聞いて、逃げるようにこの部屋に飛び込んだ私の頭を、突然の頭痛が襲った。

 すると、見たことのない光景が、ちょうどDVDのコマ送り再生のように映し出されたのだ。

 去年の夏、軽井沢に家族で出かけたこと。

 お父さんとお母さんが、珍しく普通のレストランに行きたいと言って、観光案内に載っている評判のお店に行ったこと。

 お気に入りの日傘をお母さんとお揃いで差していたこと。

 そして、


「ああ、あああああ……」


 その傘が風に飛ばされて、私は道路に飛び出してしまったこと。


 迫りくる車の恐怖に腰を抜かして、動けなくなってしまった私を、一人の男性が身を挺して助けてくれたのだ。

 その男性が……あいつの父親だったなんて。


 そうだ。


 あいつに話していた、お父さんの話は、事実だ。

 紛れもない、去年の出来事だった。

 それが、はっきりと分かった。


「いや……いやよ……そんな………………」


 頭痛がやまない。

 吐き気と眩暈で立っていられない。

 そして、涙も止まらない。


 つい最近になって知った、あいつの過去。

 去年の夏、ご両親とお姉さんを事故で亡くしたという話。

 それを私はまるで、他人事のように友人から聞いた。

 でも、そうじゃなかった。

 他人事なんかじゃなかったのだ。


「わ……たし……? 私なの?」


 事故で亡くなった彼のご家族。

 そして、私を助けて車に撥ねられた、彼のお父さん。

 その事故が原因で、お母さんとお姉さんもお亡くなりになったのだとするなら……


「私が?」


 私が、彼の家族を■したの?


 ふと、そんな私に語り掛けてくる誰かの声を聞いた気がした。


『今更何をしらばっくれているの? もう分かってるでしょ?」


 違う。私は、私は……。


『知らないって言うの? 今までのように、知らんぷりをし続けるわけ?』


 そ、それは……。


『でも、思い出したんでしょ? あの日のこと。あの日起きた全てを。認めなさいよ。お父さんは言っていたけれど、あの言葉には間違いがあるわ。そうでしょう?』


 し、知らない! 私はそんなの知らない!!


『だって、道路に飛び出したのは私よ? お父さんもお母さんも関係ない。私の責任だわ。だったら……』


 やめて! そんなの……そんなの嫌!! 聞きたくない!! 知らない!! 分からない!!


『彼の家族を奪ったのは――』


 嫌よ、そんなの嫌! だって、私は、私はあいつのことが……。


『認めなさいって言ってるでしょ? 彼の家族を殺したのは、他の誰でもない私なんだから』


 ――っ!?


「わたしが……殺した?」


 そうだ。

 彼の家族を根こそぎ奪ったあの事故を引き起こしたのは、

 彼の家族を皆殺しにしてしまったのは、

 全部、私だ。


「あは……あはは…………そんな、でも、そうか…………そうだ」


 そうだ。

 私だ。

 私のせいだ。

 あの日、あの傘を追って道に飛び出さなければ、あの事故は起こらなかった。

 あんな日傘、無視していれば良かったのに。

 私は大金持ちのお嬢様なのだ。

 また、同じ日傘を買えば良かったのに……。


 誕生日プレゼントで貰った、お母さんとお揃いの日傘だった。

 お気に入りだった。


 それがどうした?

 そんなことに気を取られて、私が愚かにも道路に踏み出した結果、彼の家族はどうなった?


「そう。私のせいで、彼の家族は死んだんだ」


 私が傘を追わなければ、私が傘を諦めていれば……


 彼の家族は死ななかった。

 全部、私のせいだったんだ。


 私のせいで、彼は家族を失った。

 私のせいで、彼は心を傷付け悲しんだ。

 私のせいで、彼は必要のない苦労を背負い込んでしまったんだ……


 全部、全部私のせい。

 

 そんな私が、彼に抱いていた淡い感情……。


「そんなもの、許されるわけないじゃない……そんな資格、私にあるわけがなかったのに……」


 もう、わけが分からなかった。

 でも、ひとつだけ分かることもある。

 それは……


「私は、絶対に許されないんだ」


 全てを奪った私が、許されるわけがないという現実だ。


「あはは、あははははははっ! バカみたい!! 私って、本当に!!」


 私はもう、壊れるしかなかった。


 私には重すぎるのだ。

 大切な人の幸せを壊し、奪ったという罪が。

 大切な人から恨まれ、憎まれるという現実が。


 その罪を背負って、そんな過酷な現実を生きなければならない、私の人生そのものが。


 耐えられるはずがなかった。

 そんな罪も、重荷も……


『あの人は、私のせいでもっと辛い人生を歩んで来たって言うのに?

 私って最低ね』


 もう、誰の声も聴きたくない。


 それは、私を責める声だから。


 もう、誰にも会いたくない。


 それは、私を責める人だから。



 死にたいとは思った。

 でも、死ぬのは怖かった。


 だから、死んでお詫びをしても許されないなんて、そんな情けない言い訳をして、私は死からも逃げていた。


 自分の罪からも、贖罪からも逃げ出して、私は自分の膝を抱えてベッドの真ん中でうずくまった。


 


 もう世界から、音も色も失われて、

 私は、音もないモノクロの世界を、茫然と眺めて泣いていた。


 何も聞こえないはずの世界に、小さな声が微かに聞こえる。


「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……」


 それはまるで呪文のように、ずっと私の部屋に聞こえていた。


 私にはもう、それが自分の声だということも、分からなくなってしまっていた。




 続く――。

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