第36話 彼らが出会ったある冬の日のレストラン


 それは、私と彼の出会いの話だ。


 私は中学生のとき、親の決めた名門の女子高校の付属中学校に通っていた。

 それを疑問に思ったことはなかったし、友達もたくさんいたからその学校に不満もなかった。

 でも、中学卒業と共にそのままの流れで、高等部に進学するのはなんとなく嫌だった。


 理由は、一般社会とのズレだった。

 私の知る“一般社会”というのが、漫画やドラマの中に見る社会だったので、それを一概に“一般社会”と呼んでいいのかどうかは分からなかったけど、それでも私の通う学校における日常と、創作の世界の中の日常がかけ離れる過ぎているのがどうしても気持ち悪かった。

 私はこんなだが、世間知らずであることは自覚していたし、金銭感覚が世間の平均を大きく逸脱しているのもなんとなく分かっていた。

 お気に入りの漫画の中の主人公が、いつも財布とにらめっこしながら、食費を切り詰めながら生活している姿を見てたとき、私にはそれが理解できなかった。

 でも、物語の主人公は基本的に一般大衆の共感を集めやすい感覚を持っているはずだ。

 なら、それが理解できない私の方が、世間一般からずれているのだろうと思ったのだ。


 だから、心配する両親を説得して、私は外部を受験する道を選んだ。

 自分で色々調べて、由芽崎高校を選んだのは、その校風と当時の生徒会長の『自由になるための努力を怠らない人間でありたい』という言葉だった。

 私は生まれてからそれまで、“自由になるための努力”なんてしたことがなかった蹴れど、そのとき自分で進路を選んだことが、その生徒会長の言う“自由になるための努力”なのだと気付かされた気がした。


 私の通っていた学校は、内部進学が中心だったため、本来の国の定める学習指導要領を大きく変えていたという事実にも苦しめられた。

 公立中学なら当たり前に教わっていたであろうことが教えられていなかったり、本来高校で習うべき内容を教わっていたりと、外部の受験生と自分との祖語に混乱した。

 でも、そんな現実が、私の感じていた違和感を証明しているような気がして、少し嬉しかったりもした。


 とにかく、私は必死に頑張って、由芽崎高校の受験日を迎えたのだった。


 前日は、緊張で眠れなかった。

 これまで、自分だけの力で何かに挑んだことのなかった私は、高校受験という大きな壁の重圧に押しつぶされそうになっていたのだ。


 睡眠不足の頭を抱えて、試験会場である由芽崎高校の教室に入ったときに、私の緊張はピークに達した。

 地元の有名高校だということもあり、受験生も多かったのだが、受験会場にはいくつもの同じ中学校からの受験生の集団が出来ていたのだ。

 私は当然ながら一人だった。

 その孤独感が、余計に私の緊張を煽っていた。

 私はたった一人で、この集団に立ち向かわなければならないのだと、そんな風に考えてしまったのだ。


 実際には、その集団の中にあっても、全員が一人一人戦っていたのだが、そのときの私にはそうは思えなかった。


 せめて、準備は万端に備えよう。

 そう思って、カバンから必要なものを取り出していく。

 鉛筆はキチンと削ってあったし、受験票も持っている。

 自習用の参考書も五科目分持って来ていたし……

 そうやって確認して行って、私は自分の失態に気が付いた。


「あ、消しゴムがない……」


 そこで思い出す。

 昨晩、千切れかけていた消しゴムを新しいものと交換しようと、筆入れから出してしまったことに。


「ど、どうしよう……」


 私は一人、おろおろとすることしか出来なかった。

 当然だ。

 私は同じ学校の友達も居ないし、同じ教室にも知り合いはいないのだ。

 孤軍奮闘の私に、頼れる相手は一人もいなかった。

 消しゴムなしに、受験を越えられる訳はない。

 これも冷静に考えれば、すぐに売店なりに行って買ったりすればよかったのだろうが、パニックになってしまった私はそれすら思いつかなかった。


 そんなときだった。

 前に座っていた一人の男の子が、私に無言で消しゴムを差し出してくれた。


「え? でも、君のは?」

「俺はもう一個持ってるから」


 そう言って、こちらをほとんど見ようともせず、手に持った単語帳を眺めながらその男の子はそれ以降こちらに何も話しかけて来なかった。


 私は、そんな男の子の親切に涙が出そうになった。

 だって、言うなれば私は彼の敵なのだ。

 事前に聞かされていた倍率は2.5倍。

 つまり、約三人に一人は不合格になる計算だ。

 それなのに彼は、不合格最有力候補の私をこともなげに助けてくれたのだ。

 嬉しくないわけがなかった。

 ふと、消しゴムの包装の下に、黒い何かが見えた。

 私は悪いと思いながら、包装から消しゴムを抜き何が書いているのか確認する。

 すると、そこには『頑張れよ』という可愛い文字が書いてあった。

 恐らくは、彼を声援する誰かのメッセージだ。

 でも、私はその言葉に、勇気を貰ったのだった。




 試験が始まって、私は四苦八苦しながら問題を解いていた。

 そんなとき、ふと、目の前の男の子の背中が目に入った。

 見れば、彼は筆入れの中身を全部出して確認している。

 答案は彼の背中で見えないが、その筆入れを探る姿だけ見えたのだ。

 私はすぐに気付いた。

 彼は、もう一つ持っているつもりでいた消しゴムを探しているのだと。

 そして、筆入れを逆さにして振る彼の机には、消しゴムは出て来なかった。

 私は、すぐに自分の借りた消しゴムを彼に返そうと思った。

 でも、


「ま、間違えなければいいか」


 小さな、でも私にははっきり聞こえる声で、男の子はそう言うと、消しゴムのことなんて気にしないかのように問題を解き始めたのだ。




 結局彼は、一度も消しゴムを使うことも無く、五科目の試験を終えてしまった。

 そして、私がもたもた帰り支度をしている間に、立ち上がって帰ろうとしてしまう。


 私は慌てて、立ち上がり、借りていた消しゴムを彼に差し出して謝った。


「ごめんね、私が借りちゃったから!」


 すると、彼は笑顔でこう言った。


「大丈夫。その消しゴムは、俺より君の方に行きたかったみたいだから」


 何を言っているのか、そのときはよく分からなかったけど、たぶん彼は、照れ隠しでそんなことを言ったのだと思う。

 そして、そのまま友達と一緒になって去って行ってしまったのだった。


 私は、手に持ったままの消しゴムを胸に抱えるようにして帰った。

 なんだか、合格のためのお守りのように感じたのだ。





 合格発表の日。

 私は、通知書の『合格』の二文字を見て泣いた。

 そして、その後、彼を探した。


 消しゴムのお礼がしたかったから。

 彼の来ていた制服を覚えていたので、同じ制服を着た生徒達を探して、結構な時間由芽崎高校の敷地をふらふらしたのを覚えている。

 そして、ようやく見つけた。

 間違いなく、あのときの彼だった。

 でも、声をかけられなかった。

 何故って、とても綺麗な女の人に抱きしめられて、顔を真っ赤にしていたから。

 きっと、彼女は彼の恋人なのだろうと思った。

 邪魔するようなことはしたくなかった。

 でも、その様子から、彼もまた合格したのだと分かって嬉しかった。


 しばらくして、彼と一緒にいたのが、彼のお姉さんだったと知ってホッと胸を撫でおろしたりもした。

 

 結局、それからずっと消しゴムは返せず仕舞いだ。

 それ以来、私はその消しゴムを小さな巾着に入れて、ずっと持ち歩いている。







 彼は、それを覚えてない。

 何気なく救った相手のことなど、覚えていなくても仕方がないと思う。

 でも、私はそれを、出来れば彼に思い出して欲しかった。


 もし、彼がそれを思い出したなら、そのときはずっと胸に温めて来たこの気持ちを、伝えよう。

 そう決めていた。


 そう決めて半年が過ぎても、私は彼と話しすら出来なかった。

 私は、悶々としたまま、彼のことを目で追う日々を送っていた。


 初めはどう声をかけよう。

 どんなことを話そう。

 そんな風に色々考えている内に、あっという間に時間は過ぎてしまったのだ。


 だから、社会勉強のために始めたアルバイト先で彼に再会したとき、私は頭が真っ白になってしまった。

 その結果、普段なら絶対にしないような対応をしてしまったのだ。

 心の中で使っていたような、乱暴な言葉遣いで彼の接客をしてしまったことを、私は激しく後悔した。

 きっと嫌われた。

 そう思っていたのに、彼は……あいつはこともあろうに失敗した私をかばってくれた。

 嬉しかった。

 でも、何故だかそれ以降も、ずっとあいつには素直になれなくなってしまった。

 それどころか、言葉遣いや振る舞いに気を遣うことも、他の人にならいつも出来ていた我慢も上手く出来なくなってしまった。

 自分でも信じられないほどに、私はあいつに対して横柄な態度を取り続けてしまった。

 だけど、不思議なことに、それがとても心地よかった。

 お嬢様を演じる必要もなく、女の子らしさも考えることもなく、心の中の自分をそのまま(少し乱暴すぎる態度であることは自覚するが)であいつにぶつかれることが、どうにもスカッとするというか、楽しかったのだ。


 どんどん、あいつとの関係は悪くなっていきそうなものなのに、あいつはずっとその態度を変えなかった。

 私がどんなに無茶なことをしても、変わらずに同じ態度で接してくれた。


 気が付けば、今までよりもっと、あいつのことが気になっている自分がいた。


 だから、あいつの過去を知ったときは、家で少し泣いた。

 あの優しそうで、仲の良かったお姉さんも彼は失ったのだ。

 その悲しみは計り知れなかったから。

 でも、その過去を知ってあいつへの態度を変えるのも違うと思った。

 だから、それまでのまま、傍目には犬猿の仲でいることに、私は違和感を覚えはしなかったのだった。


 いつか、あいつが私との出会いを思い出してくれたとき、私は自分の気持ちを伝えて、これまでの態度を謝ろうと決めていた。


 決めていたのだ……


 それなのに――。







「貴方の家族を奪ったのは、私達だったんです」


 お父さんが、あいつにそう言っているのを聞いて、私は頭の中が真っ白になった。

 その言葉の意味が、理解できなかった。

 いや、理解していたからこそ、混乱したのだ。

 だって、そんな事実受け入れられるわけがない。

 受け入れられるわけもない。


 私は、思わず物陰に隠れて、頭の中を整理しようとして見た。


 でも、どう考えても、頭の整理なんてつかなかった。


 私の記憶では、あの夏、はずだ。

 確か、私が病気をして入院することになり、家族旅行は延期になった……そう、お父さんから聞いていた。

 でも、先程私が聞いてしまった話では、のだというのだ。

 私が混乱しないわけがなかった。

 でも、そう思いながら、私の頭は薄々どちらが正しいのか理解し始めていた。


 あの夏の真実を……。


 だからだろう。


 気が付くと、私はその場を駆けだしていた。

 そこに居続けることが出来なかった。


 だって、私は……

 私は、あいつの……





 続く――。

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