第30話 優しいバーテンダーのいるレストラン


「お客様、このカウンターが、こんなにぶ厚い一枚板なのは、何故だと思いますか?」


 突然投げかけられた俺からの質問に、ご夫妻はきょとんとしてこちらを見た。

 俺はそんな二人に、笑顔を浮かべて言葉を続けた。


「これは、僕が大好きな『Bartender』という漫画の受け売りなんですけどね。このバーカウンターのぶ厚い一枚板は、本当に様々なものの重さを支えています。お酒はもちろん、おつまみ、ソフトドリンク、お客様のお財布やスマホ……そして、お客様の肘……思いつく限りでこんなところでしょうか? けれど、それはどれもこのぶ厚さを必要とする程重くはありませんよね?」


 彼らの告白、それは俺にとって物凄く衝撃的な話だった。

 まさか、深山一家が俺の家族の死に関わっていたなんて……予想だにしない話だ。

 当然ショックだし、正直、今、俺の頭の中は結構ぐちゃぐちゃだ。

 でも……、


「ですから、この厚さはもっと別のものを支えるためのものなんだそうです。それが何だか、お二人にはお分かりになりますか?」

「いや……見当もつかないな……」

「ですよね。意地悪な質問でした。……その漫画では、こんな風に説明されていました。このぶ厚いバーカウンターが支えるもの……、それは、お客様の心、そして、バーテンダーである私自身の心なんだそうです」


 俺は今、バーテンダーなんだ。


「このぶ厚い一枚板は、お客様の悩みや苦しみ、そして、私の辛かった過去……そんなものを全て支えてくれているんだそうです……」


 今ここで、お二人から打ち明けられた真実と、お二人の思いは俺がしっかりと受け止めてあげるべきものなんだ。

 そして、疲れ切ってしまっているお二人の心に寄り添って、少しでも癒して差し上げたい。

 何故か不思議と、そんな風に思ったのだった。


 バーテンダー。

 それは『bar』という宿り木に、『tender』という優しさを添えたものなのだという。

 俺は、その漫画の解釈が本当に好きだった。


「……一つ、カクテルをお作りしてもよろしいですか?」

「え、ええ……」


 こんなお酒で、お二人の心の疲れを癒せるとは到底思わない。

 でも、バーテンダーである俺には、そんなことしか出来ないのだ。

 だから、そのお酒に意味と思いを添えて、俺はあるカクテルを作って二人の前に差し出すのだった。





 コト、コト――


 俺が差し出したグラスを見つめて、深山夫妻は戸惑ったような顔で俺を見つめる。

 それは至極当然の反応だ。

 決死の覚悟で切り出した話に、俺は答えることをせず、はぐらかすような話をしてカクテルを差し出したのだから。

 でも、俺ははぐらかす気なんて毛頭なかった。

 キチンとお二人の言葉に、気持ちに応えるためにこのカクテルを差し出したのだ。


「……お客様、大変差し出がましいことを申し上げることをお許しください。折角作ったカクテルの味が刻一刻と落ちて行ってしまいますので、よろしければご賞味ください」

「あ、ああ、すまないね。頂こう」

「あはは、すみません。お酒を放って置かれてしまうと、どうもソワソワしてしまうのはバーテンダーの悪い癖ですね」


 笑顔を浮かべて、この雰囲気を少しでも和らげようとするのだが、残念なことに噛み合わない。

 噛み合っていないのは、恐らく俺とお二人の気持ちの温度だと思う。

 俺にとっては過ぎ去った過去、彼らにとっては過ぎ行く現在……。

 今、このときを共有しているのに、俺とお二人は全く別の時間に立っている……そんなチグハグな感覚がどうしても拭えなかった。


「ほう……これは面白いカクテルだ」

「美味しいわ……ワインかしら? でも、ワインとはまた違う奥行きを感じるわね……」


 俺の差し出したグラスのカクテルを口にして、二人の目に少しだけ俺の姿が映った気がした。

 未だにその目には後悔と懺悔の色が濃く見えてはいるが、目の前にいるバーテンダーとしての俺が、確かに彼らの瞳に映っている。


「まずは謝罪を……せっかくのお話をはぐらかすような真似をして、大変失礼いたしました……」

「いいや、君のことだ。何か意味があってのことなのだろう?」

「いいえ、深い意味なんてないんです。ただ、お二人の心は、ここではなく去年の夏にいらっしゃるように感じたので……美味しいカクテルを飲んで頂いて、少しこちらに戻って来ていただこうかと思いました……あの夏には、もう私はいませんので」


 俺の言葉を聞いて、お二人が息を飲んだのが分かった。


「……せっかくですので、まずはそのカクテルをお楽しみください」

「ああ、本当に美味しい。これはなんと言うカクテルなのかな?」


 お二人が、手元のグラスを見ているのを確認して、俺はそのグラスについて話をすることにする。


「それは『バーテンダー』というカクテルです。ドライジン、ドライシェリー、ドライベルモット、デュボネを各15mlずつ、そして、そこにオレンジキュラソーを1dash……それが、このカクテルの処方箋レシピです」

「ほとんどがワインなのか……だからしっかりとワインの香りと味だするんだね……うん、どれも美味しいワインなんだ、美味しいわけだ」

「いえ、それがそうとも言えません……」


 本来は、グラスで語るのがバーテンダーなのだと、師匠のマスターはいつも言っている。

 だから、グラスについて語るのは、本来はご法度なのだ。

 でも、お二人にはキチンと言葉をお届けする必要がある。


「美味しいお酒を混ぜて作るのに、そうならない事なんてあるの?」

「奥様、例えばそれぞれ一流のコックが作ったカレーとボルシチとトムヤンクンを混ぜたら、美味しい料理になると思いますか?」

「……それは、ちょっと難しいわね……酷い料理にはならないでしょうけど、本来それぞれの料理が持つ美味しさは損なわれてしまうかも知れないわ」

「ええ、ですから、このカクテルにも同じことが言えるんです。混ぜているのはどれもそれぞれが既に一級のおいしさを確立された美味しいお酒です……それを混ぜるのですから、少しでもバランスを間違えれば……」

「なるほど。とても飲めたものではなくなってしまうわけか……」

「はい。ですから、私がここでしたことは、本来必要のない作業なんです」

「必要ないということはないだろう? 実際、君のお陰で美味しいカクテルになったんだからな……」

「そうですね。今回もまた、私は自分の作業を無駄にせずに済んだんです」


 このカクテルが、俺のバーテンダーとしても彼らへの回答だった。


「少し、失礼をお許しください……」


 俺はそう言って一言断りを入れてから、ネクタイをほどき、シャツのボタンを緩めてバーカウンターから一歩外に出た。

 そして、お二人の隣の席に一席あけて腰かける。


「『バーテンダー』はカウンターを越えて、お客様に寄り添うことは出来ません。いつだってカクテルに想いを込めて、少しでもお客様の心に寄り添えるよう努力を続ける……それが『バーテンダー』に出来る限界です」

「……このカクテルに、君からの想いが込められていると?」

「ええ」

「さっきもお伝えした通り、『バーテンダー』というカクテルは、本来犯す必要のないリスクを敢えて犯して作るカクテルです。ですが、いかがでしたか? 先程のカクテルは……」

「もちろん、美味しかったとも。それぞれのワインより、ずっと……」

「ええ、とっても美味しかったわ」

「ありがとうございます。リスクを冒し、失敗を繰り返した先に、このカクテルの美味しさはあるんです。危険を冒した先の、希望を求めて……」


 俺は、お二人の目を見据えて、そう言った。


「き、君は……」


 俺の言わんとしたことが、どうやらお父様には伝わったらしい。

 深山のお父様はハッと目を見開いて、俺の顔を見つめていた。

 その目に宿った、懺悔と後悔の色が少しだけ薄まったように見えた気がした。


「きっと、あの日の父も同じだったんだと思うんです」


 俺が笑顔を浮かべてそう言うと、お母様も俺のカクテルに込めた思いに気付いてその目を潤ませていた。


「父は救急隊員でした。職業病なんて言ったら変ですが、いつだって命がけで誰かの命を救って来た人です。あのときの父は、命の危険を冒してでも、満月さんを救おうとした……決死の覚悟で死へと飛び込んだんじゃないんですよ。あのとき、父は満月さんを救う、それだけしか考えていなかったでしょう……」


 父はいつも口癖のように言っていた。


『誰かを救おうとするときに、自分が命を手放しては駄目だ。それは自分の命を助けようとした誰かに押し付けることになるから』


 だから、間違いなく父は、あのときもその信念のもと、深山を救うつもりでいたに違いない。


「ただ、父は失敗してしまったんです。救命のプロだった父自身の失敗なんです。救われた満月さんには、何の罪もないんですよ」


 見れば、夫妻は泣いていた。

 その涙が、彼らの瞳の中の懺悔や後悔を洗い流して行くのが分かった。


「もちろん、そんな父の遺族として、父の失敗の結果、彼が命を落としたことは哀しかったです。泣きましたし、泣きはらしました。俺はもう、あのときに父の死を悔やみつくしたんです。だから、大丈夫です」


 俺は、そう言いながら、ご夫妻の肩にそっと手を添えた。

 すると、ご夫妻はそんな俺の手に、その手を重ねてくれた。


「そして、母と姉はただ運が悪かった……後続車両の飲酒運転なんて、予想出来ましたか? そんなこと、未来予知でもできなければ不可能です……満月さんの飛び出しは全てのきっかけに過ぎない……違いますか?」

「だが……それによって失われたものが、あまりに大きすぎる!!」

「ええ、おっしゃる通り、失ったものは本当に大きかった。でも、は、数々の奇跡に救われて、そんな『悲劇』を乗り越えることが出来ました」


 泣き崩れそうになるお二人の肩をぎゅっと抱きしめて、俺は笑顔で言葉を続けた。


「悲しいばかりの結末ではなかった。俺はそう思ってます。……だって、そんな『悲劇』の先には、『希望』がキチンと残されていたじゃないですか?」


 俺の言葉に、お夫妻は揃って驚きの声を上げた。


 そして同時に、二人の過去と向き合いながら、俺もまた自分自身の気持ち気付かされた。

 そうか。

 だから俺は、こんなにも冷静に、この過酷すぎる現実を受け止めることが出来たのか……。


「だって、満月さんは生きてます。そんな多くの命が失われた凄惨な事故の最中、父がその命を賭してまで救おうとした彼女が、生きていてくれた……それは確かな『希望』として、亡き父の失敗を救ってくれたんです……父の死を『意味あるもの』に、『誇るべき偉業』にしてくれたんですよ?」


 俺の腕の中で、お夫妻は泣き崩れた。

 でも、それは本心だった。

 あの夏、交通事故で理不尽に家族を奪われたと思っていた。

 でも、ご夫妻の話を聞いて、俺は不謹慎にも思ってしまったんだ。


 あの夏、その場に父がいてくれて良かった、と。


 きっと、父でなければ、深山を救うことは出来なかった。

 もちろん、その事故が無ければ、俺は家族を失うことはなかった。

 だが、過去は変えられない。

 失ったものは戻らない。

 なら、そこで救われた深山が生きていてくれたことが、やっぱり俺には嬉しかったのだ。


 家族を失ったあの日、俺は泣いた。

 泣いて泣いて泣きはらして、全てを投げ出そうとすらした。

 でも、姉から届いた一通のメールに救われた。

 そして、そんな悲しい現実を受け入れて、顔を上げたのだ。

 自分でも、良く立ち直れたものだと感心する。


 そして、決意したのだ。

 


 悲しみに暮れ、ふさぎ込むことを死んだ家族は望まないから。

 涙を拭って、俺は笑顔で未来に進むと、置き去りにした家族に誓ったのだ。


「だから、そんな思い詰めた顔をしないでください。事故だった。故意ではなかった。あなた方には罪はない。俺は、そう思います。俺が思うんです」

「……ゆ、許してくれるというのか?」

「許すも何も……あなた方は悪くないですよね? 父を道に押し出したんですか? 母や姉を振ってくる車の下に引きずり込んだんですか? もしそうだというのなら、俺だってあなた方を許しません。でも、そうではなかった……」

「君は、私達を恨まないのかい?」

「恨んで欲しいんですか? それならお断りです。俺は誰かを恨ん生きて行くなんて辛い人生、歩みたくありませんから」

「君は……君は……どうして、そんな風に笑えるんだ?」

「泣くのには疲れました。それに、そんな風に下を向くより、笑って明日を、未来を生きること……それが死んだ家族たちの望みだと信じているからです」


 俺の言葉を聞いて、深山ご夫妻は俺の腕の中で再び泣き崩れる。

 俺はそんなお二人を再び席へと座らせて、ラフな格好のままバーカウンターの中にたった。


「最後にもう一杯、お二人にお出ししたいお酒があるんです」


 俺がそう言って笑うと、ご夫妻はぽかんとして俺を見た。


「すぐに出来ます。少々お待ちください」


 深山夫妻の涙を、俺には止めることが出来ない。

 この涙は、彼らの心を洗うのにきっと必要な涙だから。

 でも、そんな彼らに俺は、バーテンダーとして何かをしてあげたい。

 そう思った。

 けど、結局できるのは、こうして酒を混ぜることくらいだ。


「どうぞ、お待たせしました。と言っても、このメニューに名前はありません。俺のオリジナルカクテルです……『リラクゼーションカクテル』とでも呼びましょうか? きっとお二人の心を少しだけ落ち着けてくれるはずです」

「ああ、君は本当に、どこまで……」


 いつの間にか、大広間から店長の姿はなくなっていた。

 もしかすると、気を利かせてくれたのかも知れない。


 泣きながら、笑顔を浮かべてカクテルを飲んでくれるご夫妻から俺は視線を外して天を仰いだ。



 父さん、母さん、そして、姉さん。

 薄情な俺を許して欲しい。

 でも、これで良かったよな?

 あ、それともう一つ……、

 父さん、深山を助けてくれて、ありがとう。



 届くわけはない想いを、俺はそっと空に放った。




 続く――。


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