第13話 もはや第二の故郷になりつつあるレストラン
カランカランッ――
乾いた音を立ててぶ厚い鉄のドアが開き、少しくたびれた顔のサラリーマン風の男性が少し薄暗い店内に入ってくる。
「いらっしゃいませ、岸本様。今日は少しお早いですね?」
店に入って来たお客様の顔を見て、必死に記憶から名前を絞り出す。
この人は岸本さん。駅から少し離れた証券会社のオフィスに努める商社マンだ。
いつもはもう少し遅い時間に、二軒目の店としてご来店することが多い方だったはずだ。
「ああ、今日は神越君もいるんだね? それならせっかくだし、君に一杯頼もうかなぁ? マスターいいでしょ?」
「……ええ、岸本様がそうおっしゃるのでしたら。神越君、岸本様にいつものマティーニをお出しして」
「はい」
マスターは俺の方を見ずにそう言うと、俺が拭いていたグラスを受け取って棚にしまった。
俺はミキシンググラスをカウンターに出して、そこに氷を落とし入れる。
棚からドライジンとドライベルモットを取り出し、ミキシンググラスの横に並べると、ジンとベルモットを3:4の割合でミキシンググラスに注ぎこむ。
そして、音を立てないように注意しながら、ミキシンググラスにバー・スプーンを差し入れ、ゆっくりとステアする。
このとき、スプーンとミキシンググラスをぶつけると、マスターに怒られるので要注意だ。
そうしてステアしたカクテルを、グラスにそっと注ぎ入れ、オリーブを落としてから俺はそっと岸本様の前に置く。
最後にレモンピールで仕上げをしてマティーニの完成だ。
「マティーニです。どうぞ」
「ありがとう、頂くよ」
岸本さんはそう言ってグラスに口をつける。
「うん、相変わらずいい腕だね。神越君」
「いいえ、まだまだです」
「あはは、マスターは良い弟子を見つけたよね……じゃあ、次はマスターにお願いしようかな?」
岸本さんは、俺の出したマティーニを飲み干すと、今度はマスターにカクテルをオーダーした。
俺は、シェイカーを振るマスターの邪魔にならないように、さっき使った道具を片付けて、再びマスターの補助に回る。
店には、数人のお客様。
それぞれのペースでお酒を飲んでいるのが見える。
俺は、そんなお客様のお酒の減り具合をつぶさに観察して、追加のオーダーがないか確認したり、一杯になった灰皿をお客様に話しかけながら交換したりした。
そんな訳で、本日は俺がお客様をおもてなしする側だったりする。
まぁ、要はいつものバーでアルバイト中なのだ。
理由は御察しの通り。
先日のバースデーサプライズにお金を使い過ぎてしまったので、急遽マスターにお願いしてバイトに入らせてもらったのだ。
ちなみに俺がここで働いている理由は、主に二つ。
一つは時給。マスターが両親の古くからの友人で、そのご厚意もあって破格の条件で働かせてもらっている。
もう一つはここなら絶対に学校の知り合いに会わないからだ。
ここはバー。
未成年は入れないからな。
だが、
カランカランッ――
「いらっしゃいま……って、えぇっ!?」
「……………っ!?」
予期せぬ出会いというものは、いつでもどこでも、ありふれているものなのだ。
「藍澤さん……どうしてこんなところに?」
「………………」
その目が『それを言うなら、どうして神越君がここに?』と言っていた。
まさか、バーで藍澤さんに会うなんて、思ってもみなかった俺は、流石に動揺してしまう。
「えっと、ここは知り合いのお店なんです。それで、俺はここで働かせてもらってて……」
「神越君、お知り合いがいらっしゃったのは分かりますが、キチンと後ろのお客様にもご対応を」
「っと、申し訳ありません、マスター!!」
藍澤さんにしか目がいなくて、一緒にご来店された同伴のお客様に気付かなかった俺は、マスターに窘められてしまう。
「大変申し訳ありませんでした。お席にご案内いたします。お召し物をお預かりしてもよろしいでしょうか?」
「はっはっはっ、気にしなくて結構だよ。私もまさか、娘の知り合いがこの店にいるとは思わなかったから驚いたけどね」
上着を預かりながら一礼する俺に、藍澤さんの同伴者はそう言って豪快に笑う。
「藍澤様、お久しぶりです。お身体はもうよろしいんですか?」
マスターがそう語り掛ける男性は、どうやら藍澤さんのお父様らしい。
なんだかもう、色んな理由でびっくりだった。
「や、マスター。一年ぶりくらいかな? いつものものを貰おうか?」
「かしこまりました」
どうやら、藍澤さんのお父さんはマスターとも旧知の仲らしい。
「家がこの近くでね……以前はよく来て飲んでいたんだが、最近は身体を気遣って酒を控えるようにしていたんだよ。だた、今日はちょっとしたパーティーに呼ばれて、一年ぶりに酒を飲んだのでね……それならマスターの酒も飲んでおこうと思って来させてもらったのさ」
恐らくは、俺に足してそう説明をして、藍澤さんのお父様は俺に向かってウインクをした。
「神越君と言ったかな? 君は飛鳥とはどういう関係なのかな?」
「ご息女の学校の後輩にあたります」
「ほう、随分と親しげに見えるが……もしかして、交際相手かな? 飛鳥はああだからね。あまり自分のことは話してくれないんだ」
「…………っ!!」
お父様の言葉に、藍澤さんは怒ったように頬を膨らませて、お父様の方をポカポカと叩いていた。
『そんな訳ないでしょう? 彼は学校の後輩で、私のバイト先のお客さんです』
恐らく、藍澤さんの台詞は、こんなところだろう。
「どうなのかね?」
俺の方を見て首を傾げるお父様。
どうやら、お父様は藍澤さんの『声』が聞こえないらしい。
「そんな訳はありませんよ。私は先程もお答えした通り、ご息女の学校の後輩で、勤務先の常連です」
「そうか、それは残念だ。……もう高校三年生なのに、彼氏の一人も連れて来ないから心配なんだよ」
娘の彼氏を欲しがるとは……珍しいタイプのお父さんもいたものだ。
「お待たせしました、藍澤様。スカイ・ボールでございます」
「おお、これこれ! マスターのこれがずっと飲みたかったんだよ!」
マスターが差し出した銅製のマグカップを手に取って、藍澤さんのお父様は嬉しそうにカクテルを口につける。
「かぁ~! この味だよ!! 流石はマスター。腕は落ちてはいないようだ」
それから、藍澤さんのお父様は、マスターと楽しそうに会話を始める。
「………………」
見ると、藍澤さんはキョロキョロと店内を見渡して、落ち着きのない様子だった。
「今日はお父様の付き添いですか?」
俺がそう尋ねると、藍澤さんはコクリと頷く。
「よろしければ、何かお飲み物をお出ししますよ?」
俺の言葉を聞いて、藍澤さんはアワアワと少し慌てたようなそぶりをする。
「大丈夫ですよ。お出しするのは、ノンアルコールカクテルですから」
そう言って俺が笑顔を浮かべると、藍澤さんはホッとした様に溜息をつく。
俺はオレンジジュースとレモンジュースとパイナップルジュースを冷蔵庫から取り出して、氷と共に同じ比率でシェイカーに注ぎ入れる。
そして、そっと蓋をしてシェイカーを八の字振るってシェイクした。
「へぇ……君もなかなかの腕じゃないか」
俺を見て、藍澤さんのお父様はそんなことを言って笑った。
ちょっと照れくさくて、藍澤さんのお父様から視線を外すと、藍澤さんが俺のことを、何かまぶしいものでも見るような目でこちらを見ているのに気が付いた。
「どうかしましたか?」
俺の問いかけに、藍澤さんはぽつりと、
「……きれい」
とつぶやいた。
「へ?」
思わず素っ頓狂な声を上げながらも、俺は出来上がったカクテルをグラスに注いで、チェリーを添えて藍澤さんに差し出した。
「どうぞ、シンデレラです」
「…………あ、ありがとう」
相変わらず可愛らしい小さな声で、藍澤さんは照れたようにうつむいてしまう。
俺は心の中で、綺麗なのはドレスを着込んだ今日の藍澤さんの方ですよ。なんて気障なセリフを思い浮かべたが、決して口には出さなかった。
「美味しい……」
シンデレラを飲んで、藍澤さんはまたポツリとこぼした。
なんというか、今日の藍澤さんはいつもよりよく喋ってくれる気がする。
「…………あなたの姿を、しばらくお店で見なかった」
「あはは……お察しの通り、ここでずっと働いてました……面倒な部分を色々割愛すると、生活費が底をついたのでその補填のためですね」
藍澤さんと会話をするのが、何だか新鮮な気がする。
いつものは、アイコンタクトに俺が言葉を返すのが基本なので、実際新鮮ではあるのだが……。
「……生活費?」
「ああ、えーと……そうですよね。説明不足ですよね……」
俺の言葉に首を傾げる藍澤さん。
「俺、去年から一人暮らしなんですよ。ほら、神越って名前に、聞き覚えがあると思うんですけど……」
「……………っ!?」
俺の遠回しな言葉で、藍澤さんは気付いてくれたようだ。
「あはは……すみません、あまり聞いていて気分のいい話じゃないと思うので……察して頂けて助かります」
「…………ごめん、なさい……」
申し訳なさそうに頭を下げる藍澤さんに、俺は笑顔を向ける。
「気にしないで下さい。俺も気にしてませんから」
俺がそう言うと、藍澤さんは少しぎこちなく頷いてくれた。
「話を変えましょうか……店のみんなは元気ですか?」
「………………満月が、あなたを心配していた」
「それは予想外ですね……『せいせいした!』とか言いそうなものなのに」
「………………本気で言ってる?」
「あはは、バレました? あいつらしいなぁとは思いますよ」
「そう…………次に来たときに、謝ることをお勧めする」
「あー……、はい。そうします」
きっと、ここ数日の間、深山は店でイライラしていたのだろう。
なんとなくその姿が想像できてしまった。
「店長も、万里子も、みんな心配していた」
「……ここ最近はほぼ毎日通ってましたからね……急にいかなくなれば、心配もかけるか……すみませんでした。少し配慮が足りなかったですね」
「………………そんなこと、ない。でも、私も心配した……」
「心配をおかけして、すみませんでした」
「ううん、いい…………元気そうで、安心した」
藍澤さんは、シンデレラを少しずつ飲みながら、そんな風に話してくれた。
今日はよく喋ってくれますね。
なんて言おうものなら、きっと黙り込んでしまうだろうと思って、俺はその言葉を胸の奥にしまう。
「さて、飛鳥。そろそろ帰るとしよう」
「………………」
不意に、藍澤さんのお父様がそう言って席を立つ。
その言葉に、藍澤さんも無言で頷き立ち上がった。
「藍澤さん、またお店で会いましょう」
「うおっほん……神越君、私も藍澤さんだが?」
片目で俺を見て、わざとらしくそういう藍澤さんのお父様。
彼の言わんとすることが分かって、俺はどうしようか少しだけ迷った後、観念したように溜息を吐いてから言葉を改めた。
「飛鳥さん、また、お店で会いましょう」
すると、藍澤さんは少し頬を赤らめて、嬉しそうな顔でコクリと頷くのだった。
「神越君、マスター、お邪魔したね」
「………………」
こちらに手を振って店を出て行く藍澤さんのお父様。
そして、こちらを一度振り返り、丁寧にお辞儀をしてから、その背中を追って店を出て行った藍澤さん。
「神越君……そろそろ時間じゃないかね?」
「ああ、本当ですね! マスターありがとうございます!!」
カウンターの内側に置かれた時計で時間を確認して、俺は慌ててそう答えた。
今日はそろそろ俺も上がる時間だったのだ。
マスターは時間に厳しい人なので、残業を一切許さない。
残業代を出したくないとかではなく、俺に夜遅くまで仕事をさせたくないのだ。
亡き俺の両親に代わって、俺のことを考えてくれるとてもいい人なのだ。
「それでは、お先に失礼いします」
店内に残るお客様達に挨拶をしてから、俺は店の控室へとひっこむのだった。
服を着替えて、マスターにだけお辞儀をしてから、店の裏口から出て俺は岐路についた。
「すっかり夜だな……」
夜道は危ないからなんて言って心配するマスターは、俺を何歳だと思っているのだろうか?
多分、鼻をたらしている頃から知っているマスターは、俺の認識がその頃で止まっているのかも知れない。
「それにしても、心配かけちゃってたか……」
藍澤さんの言葉を思い出して、トワイライトガーデンの面々を思い浮かべた俺は、何だか不思議な気持ちになった。
客と従業員。
俺達の関係はそれだけだ。
なのに、学校のクラスメイトなんかより、よっぽどあの店の人たちの方が身近に感じるのは何故なのだろうか?
「藍澤さんも言ってたけど、キチンと謝らなきゃな……」
その理由は自分の中でははっきりしなかったけれど、俺にとってあの店は、結構大事な場所になっているのだけは間違いなかった。
「次の給料出たら、また顔を出さなきゃな……」
星空を見上げて、俺はそんなことを呟いた後、のんびりと家路を歩くのだった。
続く――。
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