第3話 Иллюзия(イリュージア)後編
第3話 Иллюзия(イリュージア)後編
○日本国高知県沖約27海里 輸送艦しもきた戦闘指揮所(CIC)内 201X年8月某日 ミサイル被弾30秒後
船務長である3等海佐の
『第2機関室火災並びに推進器の異常により、最大速度は現在
応急からの艦内放送の直後、運用からも報告の艦内放送が入る。
『A(普通)・B(油)火災発生、場所、露天甲板艦首側。陸自車両等が延焼中にて消火対応中』
各々の放送で被害状況の報告が挙げられているのだが、それらが伝えられる中にあって、幸島がいた一角だけ、明らかに異常とも言える雰囲気に包まれていた。
その騒ぎの中心では、黛が床に
「衛生呼んで外に待機させて!早く!それから西原、藤谷、佐々木は艦長をここから運び出すのを手伝って!!」
黛はCICに響き渡るほどの大声で口早に指示を出すと、うずくまって西原たちの視界から消える。
そのすぐそばには、ぐったりと横たわる人らしき影が椅子と椅子の隙間から見える。
立ち上がって床を見た西原の視界には、紺の作業衣の名札が辛うじて見え、そこには見慣れた『幸島』の名前が確認できた。
西原は目だけを少し離れた所に立っている男性士官に向けると、すぐさま足元の黛へ顔を向けて避ける。
「先に止血します!」
そして彼女の向かい側に
西原はそのページを勢いよく破くと止血帯と服の間に挟み込み簡単には落ちないようにしている。
「艦長!私です!黛です!分かりますか!?聞こえますか!?返事してください!幸島艦長!!」
黛は右肩を叩きながら口元に自分の耳を近づけ、呼吸をしているのかや呼びかけに応じるかの確認を
「船務長、止血帯OKです!出血止まりました!」
「止血帯了解!艦長の意識無し!運び出すわよ!西原、佐々木は左側に!藤谷は私と右側に着いて!」
「了!」
それぞれに配置に着くと、幸島の背中にそれぞれ手を差し入れ、運び出す準備を整える。
「準備は良いわね!?1、2、3で艦長を持ち上げる!行くわよ!1、2、3!!」
黛の合図で4人は立ち上がると、幸島に振動を与えないようゆっくりと扉に向かって歩いていく。
『大村補給長、ラッタルより落下、背中を強打しているらしい。意識不明。補給長は補給士の……』
『
彼女達が幸島を運んでいる最中も艦内放送では、伝令が重傷を負った幹部たちから指揮を引き継いだ各士官から受けて状況報告等が行われている。
「Если предыдущая трансляция и отчет посыльного в рулевой рубке верны, потенциальный капитан этого корабля ...(さっきの放送と操舵室の伝令の報告が事実なら、もうこの艦で艦長になれるのは……)」
咄嗟に小さく早口でロシア語を呟くと、西原はそれを聞き取っていたのか進行方向を向いたままで黛と同じように小さく呟く。
「Только ты можешь больше быть капитаном этого корабля.(この艦で艦長になることができるのは、もう、あなただけです)」
黛は自分の呟きに返答があると思っていなかったため、一瞬足を止め西原を見そうになるもそれをこらえて、閉じられたCICの扉を見据え続ける。
「Я понимаю. Кстати, Нисихара хорошо говорит по-русски. Я не знал. (理解しているわ。それにしても西原はロシア語が得意なのね。知らなかったわ)」
「Спасибо за похвалу, капитан Маюзуми.(お褒めの言葉ありがとうございます、黛艦長)」
黛はそれに返答せず、表情を変えぬまま扉近くにいた海曹の方を見る。
「鮫島!そこ開けて!!」
「了解!」
呼ばれた海曹の鮫島が扉を開けて扉を抑えると、黛達4人は狭い開口部をゆっくりと潜り抜けていく。
艦内廊下には赤十字腕章、鉄帽、カポックを着用した衛生員達が担架を敷いて待っていた。
そして黛の号令で担架にゆっくりと降ろすと、衛生員達は駆け足にならないように、そして大きく揺れないように慎重に、かつ速やかに医療区画へと向かっていった。
西原は彼らを見送ることなくCICへ戻ろうと振り向くと、視線を感じて自分の正面やや右側を見る。
そこには、CICの中から半分身体を隠しながら西原や黛たちを険しい目つきで見ている男性士官の姿があり、西原は少し頭を下げながら自分の持ち場となる船務長の席へと急いで向かう。
それに遅れる事約5秒後、黛もその男性士官の横を通り過ぎようとしたのだが、右手を開いて上げようとして何か気が付いたような表情を浮かべ、直ぐに宙を掴むように拳を作って下ろす。
そして、CICを一度見渡すと新しく自分の席となった艦長の席の横に立つ。
『艦橋より報告。艦内用通信復旧した。次いで、高崎副長が艦橋にて爆風に巻き込まれ重傷。現在市井航海士が航海長となっ……』
艦橋の伝令から入った報告により自分の同期に操艦が託されたのを知った黛は、安堵とも不安とも違う、自分でも説明のつかない初めて知る感情が沸き上がるのを感じてしまう。
そしてそれを振り払うように目を瞑ると、覚悟を決めたかのように目を開き席に座る。
黛自身ではとても長い時間に感じたのだが、この時の事を後に西原から「少し長い瞬きをしているように見えました」と教えられる。
そして、CIC内が確認や報告でざわつく中、黛は自身にとって、また、輸送艦しもきたにとっても必要な宣言を大声で行う。
「幸島艦長、高崎副長以下主な幹部が爆発の影響で負傷し、指揮が不可となった!よって船務長の黛がこれより艦長として
一瞬だけ静寂が訪れたCICに、同時にピンッと緊張の糸が張り詰めるのを黛だけでなく西原達もそれぞれ感じてしまう。
「西原は船務長に就いて!」
「了解、黛艦長!」
「頼んだわよ!」
二人のやりとりを待っていたわけではないのではあろうが、黛が発声を終えると同時に、先ほどまでと同様に艦内放送などの喧騒が戻る。
幸島が少し前まで座っていた席に自分が座っていることに違和感を感じつつも、黛は同じく少し前まで船務長として自分がいた席で座っている西原を見やったりしながら、以下次々に必要な指示を出しながらリコメンドを受け取っていく。
その間にも、しもきたの内外で起きている被害状況が、時々刻々と次々に報告されてくる。
「応急より報告!サイドランプ下の喫水線付近に亀裂発生!浸水中!それから格納庫のスプリンクラー用パイプ破損、複数個所より漏水!応急と運用が対応に向かっていますが、とても手が回らないとの事です!!」
「了解!露天甲板の応急達に消火が終わり次第格納庫へ回るように指示!それで足りなければ陸自の手も借りる!いいわね!?」
それに対しての返答を黛が聞く直前に、新たな報告がCICに飛び込んでくる。
「黛艦長!
「後部ランプドア不動!?LCACが激突!?あり得るの!?」
「分かりませんが報告が上がっています!それから
「なんですって!?作戦の継続は無理かもしれないわね……復旧の可否は!?」
「現在、(エアクッション艇)運用整備達が対処中ですが、復旧可否等は現時点では不明!」
「全力で当たるよう指示出して!それから、問題が解決出来た部署は他に異常が無いかの確認を徹底させて!」
「了!」
黛は渋面を作りながら艦長用の艦内電話の受話器を取り上げると、医務区画へと連絡を入れる。
『医務区画、佐藤です』
「艦長の黛よ。今分かっている怪我人の状況を教えて」
『科員寝室等にて陸自隊員にも負傷者発生。幸島艦長、高崎副長以下トリアージ出来た重傷者を優先に治療中です、艦長』
「了解。それで、幸島艦長の容体は?」
『極めて危険です。キャビネットに挟まれた際に左太ももへ深くガラスが刺ったようで、それが大動脈にまで達していました。現在、医官が止血手術を行っていますが推定1,300から1,400
身じろぎ一つせず衛生からの報告を聞いているのだが、同時に衛生の背後からと思われる大声が複数同時に黛の耳に飛び込んで来る。
『……長!?高崎副長、聞こえますか!?聞こえたら手を握って下さい!!……聞こえますね!?これから麻酔を……』
そしてそれから遅れて、同様に背後から陸自の隊員だと思われる声も聞こえて来る。
『……した!新町小隊長、医務室着きました!!ベッドに移しますよ!?担架上げるぞ!行くぞ!1、2、
艦内電話の向こう側で広がる光景を、思い浮かべないようにしながら衛生の報告を受け取っていると、佐藤から呼びかけられる。
『黛艦長?どうされましたか?』
心配そうな佐藤の声に、我に返った黛は落ち着き払った声で返答する。
「何でもないわ。幸島艦長の容体極めて危険、了解。失血量が多いという事は輸血が必要ね……」
『はい、黛艦長。大至急ヘリで血液を運んでもらうか、幸島艦長を最優先に
ここで衛生が言っている【黒タグ】と【赤タグ】とは、1996年に防衛庁(当時)・厚生省(当時)・消防庁・日本医師会・日本救急学会等からなる研究会において標準化され公表された【標準的トリアージタグ】のカテゴリーの事である。
【黒タグ】は「カテゴリー0(無呼吸群)」で、死亡または明らかに救命不可能な患者で、以下重症・重篤な方から順に
【赤タグ】「カテゴリーⅠ(最優先治療群)」
【黄タグ】「カテゴリーⅡ(待機的治療群)」
そして、一番軽微な【緑タグ】「カテゴリーⅢ(保留群)」は治療や搬送が不要な怪我、または完全に治療が不要な患者となっている。
「黒タグ……了解したわ。通信が回復次第
『ありがとうございます、艦長。それからこちらに来るヘリには医薬品もですが、注射針等も持ってくるように頼んでください。』
「そんなにひっ迫してるの?」
『はい。特に輸血用の18から19ゲージ、それと
「それはあり得……ないとは言えないわね。“現実”に目の前で起きてるものね」
『申し訳ありません、艦長』
「謝らなくていいわ。ミサイルが飛んで来て至近で爆発なんて、“私達は”想定していなかったんだから」
『失礼しました。それで現在、陸自の衛生と連携していますが、陸自も想定外であったため、彼らの外傷セット等も使ってしのいでいる状況ですが……それと輸液パックが既に足りませんのでその辺りも最優先にと、向こうへお願いできますか、黛艦長?』
「その件も了解したわ。それから、今付近の護衛艦や空自の
『了解しました』
「大村補給長と
『……お願いします、艦長』
衛生区画との連絡を終えると、すぐに艦橋にいる市井とやりとりをしながら艦首を和歌山県の方角へ向けさせ、島根県にある浜田基地(ページ下の補足参照)から緊急出港した〔護衛艦いわみ〕、同じく長崎県の佐世保基地から緊急出港した〔護衛艦あきづき〕、それから広島県の呉基地より緊急出港し兵庫県の瀬戸内海沖で2隻と合流予定の〔護衛艦いかづち〕の3隻により緊急に臨時編成された、後に通称で【防空護衛隊】呼ばれる護衛艦達との合流を目指す事となった。
そんな中、黛に不幸中の幸いともいえる報告が入る。
『通信、CIC。VHF回復』
「でかしたわ!CIC、通信!大至急、
『CIC、通信。国Vでコンタクト、了解』
「繋がったらすぐに
『CIC、通信。了解』
通信とのやりとりを終えると、黛は視線だけ右横に向ける。
その視線の先には男性士官の座っている姿があり、黛の方を向きながら腕を組んでいるのも見える。
「Не слышал, чтобы была такая задняя установка... (こんな裏設定があるなんて、聞いてないわよ……)」
周りに気付かれないように溜息をつくと、気合を入れるように背筋を伸ばす。
そして、黛は周囲の喧騒にかき消されるほどの小さな声で、ロシア語を再びつぶやく。
「Эта иллюзия ... заканчивается рано ...」
第3話の登場人物紹介(順不同、敬称略)
※注意:各登場人物たちの階級・役職等は、当作品と出演作品では異なっている場合があります。
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性格としては前面に出るようなタイプでなく、また、細めのリム(フレーム)レスメガネを掛けているために意識せず目を細める癖とあまりお喋りしない事もあるためか、船務員達からは自然と怖がられてしまっている。
ただ、輸送艦しもきた補給長の大村によると「あいつの怖さはそこじゃないんだよなぁ」との事であるが、その詳細は不明である。「防人達の邂逅」に出演。
○
関連施設やその他
〇SF:自衛艦隊(Self Defense Fleet)の略称で、護衛艦隊(下記参照)・潜水艦隊・掃海隊群・航空集団等を束ねている。
今話の場合、黛は自衛艦隊司令部の事を指して言っていて、場所は202X年に横須賀の〔海上作戦センター〕へ移転している。
〇EF:護衛艦隊(Fleet Escort Force)の略称で、自衛艦隊の
今話の場合、黛は護衛艦隊司令部の事を指して言っていて、場所はSF(上記参照)と同じ〔海上作戦センター〕へ移転している。
※別の世界の護衛艦隊では、機動運用部隊には【第1~4護衛隊群】、地域配備部隊には【第11~15護衛隊】が配備となっているので、読者の皆様がどちらの世界の日本にお住まいなのか、あらかじめ確認をお願いしたいと思う。
〇浜田基地:浜田地方総監部、略称で浜監とも呼ばれる海自六大基地の1つ。島根県浜田市に所在し、災害などが発生した場合に現在建設中の自衛隊浜田病院と連携して、山陰地方の災害医療拠点として機能出来るように設計され舞鶴基地と
現時点では第1輸送隊と第1エアクッション艇隊のみであるが、海幕監部内では呉監へ第1輸送隊(おおすみ、しもきた)と第1エアクッション艇隊(LCAC2101~04)、浜監へ第2輸送隊(くにさき、いわしろ)と第2エアクッション艇隊(LCAC2105~08)を配備する計画があると言われている。
※別の世界の海自では五大基地(大湊、横須賀、舞鶴、呉、佐世保)であるという話が伝わっている。
〇護衛艦いわみ:あたご型護衛艦の3番艦・DDG―179。別の世界のDDG-179は別の名前が付けられて、ネームシップ(1番艦)となっているらしい。
名前は旧国名の「
ニックネームである「
艦内神社のお札は島根県にある物部神社よりいただいている。
命名の際、防衛省から海幕監部に対して山陰へ配慮するように言われた等の噂が世間に流れたが、当時の防衛大臣と海上幕僚長たちはマスコミなどに対して全面否定している。
※こちらの世界の海自では、あたご型の4番艦はDDG―180はぐろ と名付けられており、偶然にも別の世界のDDG-180と同名で、そちらは2番艦であるという情報を得ている。
さらに、ある艦艇船舶作家・T氏が「SS-508 せきりゅう の時に起きた偶然と違い、名前だけでなく艦番号まで別世界と一緒になるとは思わなかったですよ」という奇妙な事を呟いたとか呟いていないとかという噂が、
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