第38話 勇者の妹。勇者の母
「はいはい、それじゃあ紅茶をどうぞ。こっちのパイも食べてね」
「…………」
「あら……メーリアさんとルーフィーさんがいないのね? お部屋に戻ったの? ご飯を食べて、眠くなっちゃったのかしら?」
「…………」
運ばれてきたお茶と菓子を前にして、俺は途方に暮れたように天井を仰ぐ。
ティーカップからは紅茶の良い香りが立ち昇っており、皿の上のパイは甘くてとても美味しそうだ。
しかし、床に突き刺さった男の姿を見ると食欲が削がれてしまう。
先ほどまで良い話をしていたような気がするのだが……ギャグマンガのように床に刺さった男はピクリとも動かない。
今度こそ、死んでいるのではないだろうか?
「あ、美味しいですの。甘いですの」
「良い香りですね」
「ああ、悪くない」
ウルザはモリモリとアップルパイを口に頬張り、エアリスとナギサも紅茶を楽しんでいる。
床に目を向けることはなく、半ば現実逃避をしている雰囲気があった。
「…………」
一方で、シエルは沈痛な面持ちで黙り込んでいた。
床の男を憐れんで表情を曇らせているのとは、少し違う気がする。
「おば様、お話があります」
やがて、意を決したようにシエルが口を開いた。アネモネが細い首を傾げる。
「どうかしたのかしら? シエルちゃん、随分と暗い顔をしているけれど……」
「実家で父と話したんですが……一ヶ月以内にレオンを見つけ出せなかった場合、父が決めた男性と結婚することになりました。レオンではなく、別の男と……」
「あら……」
暗い顔で告げられた言葉に、アネモネは目を瞬かせた。
「そうだったの……それでそんなに悲しい顔をしているのね」
「……私はレオンのお嫁さんになりたい。他の男と結婚なんてしたくない。だけど……!」
「うん、わかっているわ。断れないんでしょう……お貴族様だもの。シエルちゃんは悪くないわ」
アネモネが隣の席に座っているシエルを抱き寄せ、頭を撫でる。
「大丈夫、大丈夫よ。私も怒っていないし、レオンだってそんなことで腹を立てたりしないわ。息子のことをそんなに思ってくれて、ありがとう」
「おば様……!」
「大丈夫、大丈夫だからね。大丈夫よ……」
シエルを胸に抱いて、アネモネが「大丈夫」と繰り返す。
彼女の言葉には何の根拠もないが……母性に満ちた声を聞いていると、本当に何とかなるのではないかと思えてくる。
そんな二人の姿を見て、モニカも目を潤ませていた。
「お母さん……」
「……母親だな」
良い光景である。
シエルの頭を撫でるアネモネの姿には、血のつながりを超えた慈愛の心が感じられた。
本当に素敵な光景である。
床に変な男が刺さっていなければ、もっと良かったのだが。
「モニカ」
「え、うん?」
突然、母親から名前を呼ばれてモニカが瞳を瞬かせる。
「あなた、レオンのことを探しに行きたいのよね……いいわよ、行ってきなさい」
「ええっ!? 本当に、いいの!?」
「いいわよ……ただし、二つ条件があるわ」
アネモネが表情を輝かせる娘から俺の方に視線を移した。
「一つ目は、ゼノンさんと一緒に行くこと。もちろん、ゼノンさんがそれを許可してくれたらだけど」
「俺は構わないが……本当に良かったのか? 大切な娘なんだろう?」
「大切だからこそ、母として旅をさせてあげたいという気持ちもあるのです。もちろん、信頼できる方に任せられるからこそですが」
「……そこまで信頼される覚えもないんだがな」
何だろう……叔父といい、母親といい、このわけのわからない信頼は。
会ったばかりで俺のことなど何も知らないだろうに、どうして、娘を任せるまでに信じてくれるのだろうか?
「うん! ゼノンお兄さんと一緒だったら大丈夫! 絶対にレオンお兄ちゃんを助けてみせるからね!」
「お前もかよ……」
モニカまでもが話に乗ってきた。
キラキラと輝く目で見つめられて、居心地が悪くなってくる。
「過分な信頼だとは思うが……できる限り、答えると約束しよう」
「はい、娘をよろしくお願いします」
「ところで、条件は二つだと言っていたが……もう一つは何だ?」
「ああ、それなんですけど……」
訊ねると、アネモネが悪戯っぽく微笑んだ。
二人の子供がいるとは思えないような、子供っぽい笑顔である。
「私も娘について行くことが、もう一つの条件です。ゼノンさんのお屋敷で働かせてください」
「は……?」
「ええええええええええええっ!?」
予想外の提案を受けて俺は固まり、モニカは立ち上がって絶叫した。他の仲間達も唖然とした顔になっている。
どうやら……俺は勇者の妹だけではなく、母親までゲットしてしまったようだ。
「フフフ……よろしくお願いしますね、旦那様?」
一同の驚愕の視線を受けて、アネモネだけは悪戯っぽい笑みを浮かべているのであった。
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