第2話 鍛練と献身
「フッ……フッ……フッ……フッ……」
剣を握り締め、一定のリズムで振り下ろす。金属製の剣が早朝の冷えた空気を切り裂き、鋭い風切り音が屋敷の庭に響き渡る。
バスカヴィル家はスレイヤーズ王国において『侯爵』の位を授かっている上級貴族だった。その屋敷は王都でも有数の大きさがあり、庭もちょっとしたグラウンドくらいの広さがある。
そんな広々とした庭の片隅で、黙々と剣を振った。
右手で握り締めているのは鉄で鋳造された剣である。鍛錬用の模擬剣のため、刃はハンマーで潰してあるようだ。
「フッ……フッ……フッ……フッ……フンッ!」
全身の力を込めて剣を打ち下ろす。ズバンと一際大きな音が鳴って、髪の先から汗の粒が散る。
その一撃はもしも眼前に敵がいたのであれば、確実に仕留められたであろう必殺の攻撃であった。
「だいぶこの身体にも慣れてきたな……鍛練はこれくらいにしておくか」
大きく息をついて、俺は模擬剣を地面に突き立てた。
俺の剣捌きは完全に熟練者のそれだったが、決して武術の経験があるわけではない。ゼノン・バスカヴィルという男の肉体に、剣の使い方が染みついているのだ。
こうして鍛錬をしているうちに、少しずつだがゼノンの身体が馴染んでくるのを感じていた。1時間の鍛錬を終えた今では、まるで生まれた時からこの肉体を使っていたような感覚すらある。
「それにしても……ゼノンは意外と努力家だったんだな。武術のことはよく知らないが、才能だけでここまでの域には到達できないだろ」
俺は剣を手放した右手を見つめて、ポツリとつぶやく。
ゼノンの右手には血豆がいくつもできており、毎日のように休まず鍛錬を積んできたことがはっきりと分かる。
優れているのは剣術だけではない。魔法だって相当な練習をしてきたはずだ。
「ダークブレット」
俺は少し離れた場所にある訓練用の的に向けて魔法を放つ。ビー玉サイズの黒い弾丸が的に突き刺さって貫通する。
ゼノンは【闇魔法】のスキルを持っている。闇魔法は光魔法と並んで扱いが高度な魔法である、それを使いこなすことができるゼノン・バスカヴィルという男は、剣だけではなく魔法にもひたむきに打ち込んできたに違いない。
そんな努力家の男が、どうして他人の女を寝取ることに喜びを見出すような歪んだ性格となってしまったのだろうか。考えれば考えるほど疑問は尽きない。
「どうしてゼノンになってしまったのかは知らないが……この身体で生きてくしかないんだ。ゼノンのことをもっと知らなければ」
ゲームの世界に転生してからまだ1時間ほどしか経っていないが、俺は不思議とゼノン・バスカヴィルとして生きていくことへの抵抗がなくなっている。
運動をしたことで身体と心が一体になったのか。それとも、時間が経過したことで状況を諦観してきたのか。悪役キャラとして第2の人生を歩むことを、前向きに検討する余裕ができていた。
そもそも、俺がゼノン・バスカヴィルという男を蛇蝎のごとく嫌っていたのは、『ダンブレ2』においてゼノンがヒロインをことごとく寝取ったからである。
落ち着いて考えてみれば、現在の時間軸は学園の入学式が始まる前。ゲームでいうところの、1作目のオープニング前にあたる。まだゼノンはヒロインを寝取っていないのだから、そもそも毛嫌いをする理由がない。
それに俺がゼノンに乗り移ったのであれば、『2』で起こった鬱展開を回避することだって可能である。
それどころか、レオン・ブレイブに協力して魔王を倒すことも、危険なシナリオを回避して穏やかな学園生活を送ることだって出来るかもしれない。
「ゼノン様、お水をお持ちいたしました」
今後の方針について考えていると、先ほどのメイドが桶に入った水を持ってきた。桶の中には布が水に浸されていて、どうやらそれで汗を拭けと言っているのだろう。
「ああ、すまない。助かった」
俺は好意に甘えて、布を手に取って顔を拭く。井戸から汲んだばかりなのか、水は程よく冷えていて気持ちが良い。
顔、両腕、胴体と順繰りに拭いていき、汗で汚れた布をもう一度水に浸そうとして……メイドが目を見開いて固まっていることに気がついた。
「……どうした、何で石になっている?」
「そんな……ゼノン様が、私にお礼を言うなんて……!」
「ああ……成程。そういうことかよ」
どうやらゼノンは使用人にお礼の1つも言えないような高慢な性格だったようである。そこはゲームと変わらず、何故か安心した気持ちになってしまう。
桶を置いた姿勢のまま固まっているメイドであったが、彼女の名前は『レヴィエナ』というらしい。鍛錬場に案内する途中で他の使用人からそう呼ばれていた。
俺はふっと短く息をついて、呆然としているレヴィエナに正面から目を合わせる。
「レヴィエナ、お前の献身にはいつも助かっている」
「へ……?」
「照れ臭くてこれまで礼を言えなかったが……お前には本当に感謝しているんだ。これからも俺のことを支えてくれると嬉しい」
それは悪の権化であるゼノン・バスカヴィルとしては有り得ないセリフである。
だが、俺はゼノンのような悪党ではないのだ。ゼノンらしく振舞おうとしても、いつかは
ならば、早い段階で心を入れ替えたように振るまって味方を増やしておいた方がいい。そう考えて、俺は心からの感謝を告げたのである。
「ゼノン様が……坊ちゃまが、この私めにお礼を……!」
その反応は顕著に現れた。
レヴィエナは玉のように両目を見開いて、そこからポロポロと涙の粒を落としたのである。
震える手から桶が落ちて地面に水がこぼれてしまうが、それにも気がつかない様子で激しく肩を震わせていた。
「ああ! 今日は人生最良の日でございます……! 何という喜び、何という幸福でしょう……ようやく私は報われた!」
「お、大袈裟だな……いや、礼を言わなかった俺が悪いからいいんだ。これからもよろしく頼むぞ」
「はい、はいっ……! もちろんでございます! 坊ちゃま、私の坊ちゃま……!」
あまりにも大それた喜びように、感謝を告げたはずの俺の方が引いてしまう。
そんな俺にずずいっと詰め寄って、レヴィエナは拝むように両手を合わせながら頬を薔薇色に染めてくる。
接近してくる美女の顔に赤面してしまい、俺は慌てて顔を背けるのであった。
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