夢の終わりだと朔にもはっきりとわかった。とたん、瑠璃の手の温かさが急にはっきりと感じ取れるようになり、幻が晴れようとしているのを感じた。

 朔が意識してゆっくりと目を開くと、怪訝そうに覗き込んでいる紫苑の女房の顔が目に映った。どうやら、夢の中の時間は現実ではほんの一瞬。紫苑が不審に思わないくらいの短い時間だったらしい。

 隣の瑠璃も今目覚めたという様子だった。翡翠の目をじっと見つめると朔は手を離す。


「君の夢、僕にも全部、見えた」

 彼女は朔の言葉に目を見開く。

「やっぱり僕が君の司祇なのかも」


 倖姫の力を体感しての興奮と、彼女に選ばれたという純粋な喜びに思わず笑みを漏らす。

 と、そこに紫苑の声が飛び込んだ。


「一体何をしているの」

 朔は几帳を押しやると、御簾の中で怪訝そうにしている紫苑に向き直った。

「あなたは先ほど言いがかりとおっしゃいましたが」


 朔が素早く母屋に滑り込む。文机の隣の見覚えがある櫃に触れると、紫苑の顔が歪んだ。


「何をするの!」

 朔は櫃の蓋を開ける。そして中から茶色の液体を湛えた玻璃の器を取り出して、彼女に突きつけた。

「じゃあ、どうしてこれがあなたのところにあるのです!」

「!? ――どうして」


 目を見開きみるみるうちに蒼白になる紫苑を無視し、朔は器を高く掲げると、大きな声で叫んだ。


「父上――すべて聞いていらっしゃったのでしょう」

「――主上!? どうして」


 外で女房の驚いた声が上がる。簀子縁から登ってくる人影に瑠璃が驚愕して声を失っている。紫苑は今にも倒れそうな顔で、呆然と彼女の夫の顔を見つめていた。

 父帝の顔は悲しげに歪んでいるが、そこに驚きの感情は見つけられなかった。


「僕も少しは賢くなったのです。武器も持たずにここに来るなんて馬鹿な真似はしたくない」

 朔は肩をすくめると、ちらりと塗籠を見た。

「ところで、塗籠から人の気配がするような気がします。こんな夜更けに誰かいらっしゃるのでしょうか?」


 紫苑の顔がさらに引きつった。

 帝の随身達が塗籠の妻戸を開くと、中にいた男達が青い顔をしてぞろぞろと出てきた。紫苑の私兵に加えて、近衛府の人間が混じっているのを見て朔は確信した。


(やはり、そうか)


「僕は中宮を襲った罪で、島流しになるところだったのでしょうか?」

「――――!」


 朔は紫苑の取り乱した顔を見て、それが正解だったと悟った。

 どうしてもわからなかった。夫を愛していながら、その息子を誘惑する理由。――だが、もしそうなってしまったとき、本当に彼女が傷つくのか? 答えへの糸口はそこにあった。


(違う。傷つくのは、おそらく僕だけだった)


 美しい義理の母に懸想して、そして狼藉を働いた息子。朔がいくら否定しようとも、彼女が訴えれば、世間はそんな風にしか見ないし、きっと父帝もそう考えるだろう。

 自らは被害者の顔をして邪魔者の朔を排除する。紫苑が狙ったのはそれだ。朔はあと少しで罠に嵌るところだった。


「違うのです、信じて下さいませ。私は――」

 中宮紫苑は涙ながらに帝に訴える。だが、

「紫苑。もう足掻くのはよせ」


 帝の声がしんと静まり返った母屋の中に落ちた。

 直後彼女は奇声を発して朔に襲いかかろうとする。


「何をする――」


 帝が彼女を取り押さえようとするけれど、彼女は何かに憑かれたように凄まじい力で帝をなぎ払った。わらわらと現れた随身が彼女を取り押さえようとするけれど、彼女は懐剣を取り出して己の首元に突きつけた。そうして周囲を威嚇しながら、そろそろと朔と距離をつめた。

 朔は後ずさりする。だが振り返るとその先は格子が下りていて、行く手を阻んでいる。このままでは追い詰められる、と青くなった時、


「殿下!!」


 瑠璃が朔を庇おうと朔の前に立ちふさがる。新嘗祭の時と同じく盾になろうとする彼女を朔は引きはがした。


(冗談じゃない!)


「やめろっ! こっちだ!」


 瑠璃の手を引き御簾をくぐると、一気に格子の前まで駆けた。そして二人で格子を上げようとする。だが焦っているせいかなかなか上がらない。

 御簾の向こうで、一歩二歩と周囲を威嚇するようにしながらゆっくり紫苑が近づく。それを見て瑠璃は覚悟をしたように朔を背に庇う。


「瑠璃、だめだ」

「いいえ! 私は殿下の帯刀です! ――守らせて。あたし、あなたを守りたくてここに来たのに!」


 その声に幼い少女の声が被った。


『あたしが守ってあげる。朔が泣かなくてもいいように』


 とたん胸の底に眠っていた約束が色鮮やかに蘇った。


(まさか、約束を守ろうとして、ここまで来たのか? 髪を切って? 男のなりをして!?)


 盾になる瑠璃の肩を強く引く。


「じゃあ、今すぐ君をくびにする! 僕は――これ以上君に守られるのはごめんだ!」


 朔は瑠璃をねじ伏せようとする。だが、瑠璃は「いやです、いやよ!」と全力で抵抗する。


(このままじゃ、瑠璃が危ない!)


 思い余った朔が噛み付くように口づけると、暴れていた彼女の体からようやく力がぬけた。

 朔は呆然とした瑠璃を背に庇う。

 紫苑に向き合う。

 懐剣の切っ先が頬を掠める。

 辛うじて避けるが、瑠璃を庇ったままではうまく動きが取れない。むしろ避ければ瑠璃に当たりかねない。


「去ね! 葵! 主上を返して!」


 紫苑の懐剣が朔の袍を切り裂く。一度、二度と袖で遮ったあとの三度目。朔は衣の上から刃を掴んで動きを止める。

 そのまま膠着状態になった二人に帝が近づく。紫苑の手の上に帝の手が乗ったとたん、まるで憑き物が落ちたかのように彼女の力がくたりと抜けた。

 だが彼女は、今度は朔の左手に握りしめられたままだった玻璃の器を奪い取る。とっさに顔を庇ったが、紫苑は自らそれを呷ろうとした。


「やめぬか!」


 帝の手が紫苑の手を払う。玻璃の瓶が派手な音を立てて割れると、床に茶色の液体が強烈な臭いと共にこぼれ出る。

 紫苑は一瞬微笑んだ。その顔は夢の中で見た十代の頃のように瑞々しく、朔は思わず目を擦る。

 壮絶な美しさにその場にいる者が息を呑んだ直後、彼女は咳き込んで床に倒れ込むと嘔吐を繰り返す。

 細い体が痙攣を始め、駆け寄った女房が切り裂くような悲鳴を上げた。数滴で死に至るという劇薬は、紫苑をこの世から連れ去ろうとしていた。

 宮中には帝の怒号が響き渡った。


「この痴れ者!! 誰か――すぐに侍医を呼べ!!」

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