八
中宮紫苑は奇跡的に一命を取り留めた。飲んだ毒は極微量で、しかもすぐに吐いたため致死量に達しなかったのだ。
だが、彼女は心を失ったままだった。ぼんやりしているかと思えば、時折あの時のように暴れては物を壊し、自らを傷つけた。
病状が悪化するばかりの彼女は結局里に移されて、〈檜葉〉の靫負所によって監視、軟禁されていた。
すべては紫苑の供そということで事件は落ち着いた――はずだった。
だが朔は証拠を突きつけた時の紫苑の動揺が気になって仕方がなかった。あのとき、彼女は何かに驚いていたような気がするのだ。思い出すと言いようもない違和感と不安が沸き上がる。
(なんだ? 僕は何がそんなに気になっている?)
夢と現実。二つの記憶をたぐり寄せ、間違い探しを始めるが、違和感の正体は見つからない。手がかりを求め、割れた瓶を手に取る。瓶の中身はほとんど流れ出てしまい、底に僅かに茶色の輪が出来ているだけ。
朔はふと思った。
(そういえば、義母はいつ、どこで、どうやってこの薬を手に入れたんだろう)
瑠璃と見た夢の中では、彼女がこれを入手した場面は見ることができなかった。
(……ん?)
微かな引っかかり。瓶の底を凝視し、首を傾げる朔の前に旅装を整えた三人が並んだ。
「あれぇ? もしかして、まだ何か気になっていらっしゃるんですかー?」
まず朱利が朔の手元の瓶を見て怪訝そうな顔をした。
朔は大きく深呼吸をすると、ひとまず瓶を床に置く。
「いいや。なんでもない。気にしないでくれ」
「――では、そろそろ参ります」
朔の言葉を受けて是近が声を発した。朔は御簾から出ることもなく、頷く。
御簾の内側と外側の隔たり。寝食を共にしたことを思い出すと、薄い御簾一枚でもずいぶん距離を感じた。しかし今の彼らにはあって当然の距離だった。
「暁ちゃんのことは俺に任せておけば大丈夫ですから。殿下は美人なお妃さまをたくさん迎えて下さいねー」
朱利がわざわざ余計なことを言うのが憎らしくて、朔はあえて何の返事もせずにいた。
朱利の隣では少し赤い目をした瑠璃がこちらをじっと見つめている。言葉を待ったけれど彼女が口を開かないので、朔は先に切り出した。これ以上彼女を見ていると、未練がましく引き止めてしまいそうだったのだ。
「皆、達者で過ごしてくれ」
朔はただそれだけを言うと口をつぐんだ。すると、黙っていた瑠璃がやっと口を開く。
「殿下も――どうかお元気で」
その声に涙が混じっている。一気に充血する目で、それでもいつものように微笑む瑠璃の目尻には一筋の煌めき。気付いた朔はぐっと手を握りしめた。
御簾を出て抱きしめたいのを必死で我慢すると、朔は無言で頷いた。
三者の姿が殿舎の陰に隠れて見えなくなっても、朔はじっと外を眺めていた。
やがてどんよりと重い空から雪が落ち始め、女房達が格子を下ろし始める。燈台に火が入れられて、火桶に炭が追加される。
ふと背中に気配を感じ、何気なく振り向くと、いつの間にかそこには父帝が立っていた。
「憂鬱そうだな」
彼は心配そうな顔で朔を見つめていた。
「本当によかったのか? 彼らは有能だったし、それに、何より信頼もできただろう。ああいう人材はそうそう手元に置けない。事件の解決までと期限を切っていたが、むしろこれから役に立つかどうかを試していただけなのだ。そうして、見事役目を果たしてみせたではないか。怪我は仕方ないから休暇を取らせるとしても、次の除目で正式に任官しようと考えていたのに、全員を解任するなど――」
名残惜しげに言う父帝を朔は遮る。
「よいのです」
ひとまずではあるが、宮に平穏が訪れた今、彼女がここにいる理由はない。そして今後もし危険が発生するならば、余計に傍には置いておけない。二度も盾になろうとした彼女だ。今度同じようなことが起こればおそらく命はない。
なによりも、朔は瑠璃の持つ倖姫の力に畏怖を感じ始めていた。あまりに有用な力だった。欲する者が大勢いてもおかしくないくらいに。
争いの渦に巻き込まれる瑠璃の姿が目に浮かび、朔はぎゅっと目を瞑った。
(あの力は秘めておかねばならない。だからこれ以上使っては駄目だ)
幸か不幸か、朔がいなければ、瑠璃は力を使えない。ならば――
彼女が大事だからこそ、幸せを願うからこそ、手放す。それが朔が散々悩んで出した結論だった。
朔はあのときに叫んだ言葉通りに瑠璃の帯刀の任を解いた。同時に是近も解任した。瑠璃を手元で守ってほしいと願ったのだ。
そして瑠璃と是近が〈壇〉に戻ると知ると『男を守る仕事なんてつまらないしー、どうせならお姫様を守りたいしー』と堂々とやる気のなさを暴露して、朱利もあっさり帯刀を辞めることになった。彼の狙いはあからさますぎるけれども、すでに妨害する
(是近なら、もっとまともな男を捜してやってくれるはず。真面目で、誠実で。どんなことからも彼女の笑顔を守れる強く賢い男を)
そんな男が彼女の隣に立つのなら……安心できる、きっと。無理に思い込むが、瑠璃の傍に立つ男に求めるものが多いことの意味には、あえて気付かない振りをしていた。
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