九
ところが、翌日のことだった。
「殿下」
庇の間からかかった重たい声に朔が振り向くと、訝しげな顔をした萩野がこちらを窺っている。
「近衛府の人間がお話があるとのことなのですが」
「通してくれ」
亡き右近少将枸橘正輝の後任はまだ決まっていない。残された左近少将
正輝の陰に隠れて地味に見えたが、仕事は丁寧、博学で有能だと聞いていた。縁の下の力持ちといったところだろう。事件の残務処理も忙しいとは思っていたが、どうしても気になって独自に調査を頼んでいたのだ。
「殿下のおっしゃる通りでした」
開口一番、実光は言った。
「毒薬はつい最近作られたものでした」
瓶を前にずっと考えていたら、ふと浮かんだ考えがあった。夢の中の瓶と櫃の中にあった物の色や粘性が異なっているように思えたのだ。
実際手に取った時に抱いた違和感は、時間が経つにつれて大きくなった。
夢を思い出してみると、確か、紫苑は枸橘正輝に渡した瓶に全ての毒薬を注いだはずなのだ。なのに、櫃の中から取り出したとき、瓶には毒薬が詰められていた。
――まるで、紫苑の自害を誘う呪詛のようにも思えた。
「どこで手に入れたかわかるかな」
「毒は材料さえあれば比較的簡単に作れるでしょうから、特定は難しいのですが……」
「材料が採れるのは、南部か」
それだけでも国の半分だと考えると特定は困難かとがっかりする朔に、実光は「しかし」と袂から取り出した木札を差し出す。
「こちら、中宮の局から見つかりました。硯箱が二重底になっておりまして」
「木簡? 珍しい」
「瑞穂では紙が流通しておりますが、他国ではそうとは限りませぬので」
「中宮が個人的に異国と取引していたと?」
まさか、と朔は目を見開く。
「とにかくお読みくださいませ」
目を通すと、暗号めいた文章があった。解読は出来ないが『朱』という文字に目が止まったとたんに、なぜだか全身を悪寒が駆け巡るのがわかった。拍車をかけるように実光は言った。
「蘇比の者と通じていたのではないかと」
「蘇比? どうして」
心の隅に引っかかっていた地名にぎくりと顔が強ばる。
「まず、あの薬瓶は蘇比でよく作られている玻璃細工です。それから木簡には署名があります。最後にある『朱璃』――これはおそらく蘇比の名。瑞穂では植物から名を取る慣習がありますが、あちらでは宝玉を表す文字を使う事が多いのです」
実光は木簡を指差しながら説明するが、朔には後半はあまり聞こえていなかった。
「しゅり」
あまりに聞き慣れた響きに思わず瞠目する。朔は立ち上がると、萩野を呼ぶ。
(まさか)
偶然の一致だと思いたいが、それがあまりに重なると偶然だとは思えない。
彼が言った言葉が急に耳に蘇り、朔の頭を内側から揺らした。
『蘇比ならまだ結婚できるから大丈夫』
思い返せば、彼が瑠璃に対する態度を変えたのは『暁天の倖姫』の話をした直後だった。
(あいつが欲しがったのがもし瑠璃ではなく――倖姫という巫女姫だったとしたら?)
つじつまは合う。
考え過ぎかと思いながら、やって来た萩野に言付ける。
「早急に是近に文を届けてくれ」
「文は届けられませぬ」
なぜか命令を拒む萩野の言葉に朔は思わず声を荒げた。
「いいから一刻も早く!」
だが萩野は淡々と答えた。
「いえ、無駄でございます。本人は門で殿下に対面を求めておりますので」
憔悴した様子の是近は簀子縁で項垂れた。話を聞いた朔は半ば呆然と問う。
「瑠璃が消えた?」
「三人で〈壇〉まで向かっている途中、〈
「〈櫟〉?」
聞いて思い出すのはそもそもの発端である十年前の〝櫟井の変〟。嫌な予感に身を震わせる。
「……朱利は?」ある種の確信を持ちながら朔は尋ねる。
「それが、一緒にいなくなったのです。周辺を探しましたが見つからないので、瑠璃がわがままを言って宮に戻っていないかと――」
最後まで聞かずに、朔は庇の隅で待機していた実光に命じた。
「すぐに〈櫟〉の靫負所に早馬を出すように。蘇比との関所と閉じろと。主上には私から話を付ける」
彼は雷に打たれたように立ち上がり退出する。後ろ姿を見送った朔は是近に問う。
「朱利は十年前に瑞穂にやって来たと聞いた。それは母上の暗殺事件の前? それとも後?」
今の今まで別件だと気にしていなかった、十年前という奇妙な一致。毒と十歳の少年になんらかの繋がりがあったと考えれば、事件は全く別の顔を見せる。
「前――だったと思います。門前に行き倒れるようにしていて――……まさかあいつをお疑いなのですか?」
是近はあり得ないと首を横に振る。長年の付き合いだ。是近に疑えというのも無理な話だと思った。
「あいつは、瑠璃の力を知っている」
「ですが、ご存知でしょう。殿下がいらっしゃらなければ使いようが無いではありませんか」
「それはそうだけど」
確かに朔がいなければ瑠璃の力は使えない。だが何か彼しか知らない事情があるのかもしれない、朔はそう思った。とにかく嫌な予感が消えない。瑠璃を取り戻すのが先だった。
「瑠璃を取り返す。是近――一緒に来てくれるか」
周囲を気にしながら囁くように問うと、彼は瞠目する。
「……帯刀の任は解かれたはずですが?」
「じゃあ僕一人でも行くよ」
壁に立てかけている弓と矢を手に取ると直衣を脱ぎ捨て、萩野に持って来させた地味な狩衣を身につける。腰に刀を佩くと簀子縁に飛び出した。是近は慌てて追って来る。
「殿下。いけません。本気であいつをお疑いなのですか?」
信じがたいというように繰り返される問いに、朔は疑念の根拠を示す。
「義母上の母屋にあった木簡に〝朱璃〟という名があったそうだ」
「……しゅり?」
さすがに眉をひそめた是近に「――瑠璃という名だけれど、璃がつく名は蘇比に多いのかな」と瑞穂では珍しい〝瑠璃〟という名の由来について問うと、彼はぎょっと目を見開いた。
とある確信を持って朔がじっと見つめると、
「実は……私の妻の本当の名は
是近は観念した様子で、ずっと秘めておいたらしい瑠璃の母親の素性を手短に語る。
「――そうか」
度重なる符合に、朔は一つの答えを導き出しながら、厩へと大急ぎで向かった。
「馬術の訓練に出る」
そう言い渡し、旅装に戸惑う馬番を強引に押し切って、朔は宮を飛び出した。
宮に戻ってから武術ばかりにかまけていたわけではない。苦手だった馬術も是近に鍛えられていた。
(こんな風に役に立つとは)
そう思いながら手綱をとる。
「国境を越える前になんとか追いつく」
既に隣国との関所に早馬を出している。時間は稼げるだろうと思った。
「傷が開かないようにと、瑠璃は荷馬車に乗せていました。そう急ぐ事は出来ません」
「だといいけど」
もし本当に〝瑠璃の誘拐〟を目論んでいるのであれば、あちらも必死だ。
朔は猛然と馬を飛ばした。
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