朔の目の前には玻璃はりでできた空の瓶が二つ置かれていて視界を大きく遮っている。

 瓶には見覚えがある。毒薬の入っていた――瑠璃が握っていた瓶だ。

 反対側には玻璃でできたひと際美しい器があった。おそらくは異国製。拳大で空の二つの瓶よりも大きく、何か植物の絵が丁寧に描かれている。器の中には、美器に似合わない茶色の液体がたゆたっていた。


(なんだ、ここは)


 おそらく先ほどと同じ場所に思える。だが隙間から覗く調度類は先ほどまで見えていたのものと多少違うように見えた。何より異なるのは紫苑の顔だ。まだ若く、少女のようにも見え、一瞬妹姫――檜葉の宮と見間違いそうになる。


『お願い。私あの女が憎いの。後から来たくせに、あの方のお心を独り占めして。もう半年もお渡りになられない。私が中宮だというのに』


 朔は切実な訴えに戸惑った。だが、ふと後ろを見ると庇の間に一人の男が座っている。

 男は慰める。その表情は真剣で、彼が紫苑に心酔しているのがわかった。紫苑が涙を零すたびに、彼女を傷つける葵への害意が膨れ上がるのが目に見えるようだった。


『あなたの御為になるのならば、どんなことでもやってみせましょう』

『ありがとう、佐輔。あなただけが頼りなのよ』


 その名には聞き覚えがあった。調書にあった葵を弑した男、櫟井佐輔だ。紫苑は朔の目の前の空瓶を一つ取り上げると、茶色の液体を注ぎ分ける。白い手が差し出され、ためらいも無く佐輔は手を伸ばした。

 紫苑の手から玻璃の器が男に渡ったとたん、景色の移り変わりが加速した。



 次に朔が目を開けた時、目の前にあった瓶は先ほどと変わらず一つだった。しかし、瑞々しさを失った紫苑の顔が時の経過を如実に表していた。


『あの女が消えてもう十年になるというのに、主上のお心はまだ葵にあるの。瓜二つのあの顔がある限り、主上のお心は手に入らないのかもしれないわ』


 嘆き声をあげる紫苑の目の前にひれ伏しているのは、朔に毒を盛った槙野政孝だった。


『何をおっしゃいます。紫苑様はご正妃ではございませんか。可愛らしい姫宮様もお生まれになりましたし、主上のお心が紫苑様にあられるのは明白でございます。宮様のためにも、なにとぞ、お心をお変えいただきますよう』

兵衛介ひょうえのすけの分際で、私を諭そうというの? その役職も兄の力あってこそというのを忘れたの』

『いえ、そのようなことは。左大臣には本当に感謝しております。ですが』


 頑な政孝に、紫苑は泣き顔をやめる。大きく溜息をついたかと思うと、その顔にみるみる刺々しい笑みが沸き上がった。紫苑の豹変に、朔は政孝と一緒に息を呑んだ。


『檜葉野と枸橘の縁談を取りやめても良いのよ』


 あからさまな脅迫に政孝は青くなっている。


『そんな――今更〈橘〉を切るなど。〈橘〉がつくからと〈槙〉は南部についたのです。共倒れとなる〈槙〉の行く末はどうなるのですか』

『今まで通り〈壇〉に付けばいい』

『そんなに簡単なことではございませぬ』

『私にはどうでも良いことだわ』


 政孝は絶句し、しばしそのままひれ伏していた。

 紫苑は隣の瓶を手に取ると、例の大きめの瓶から薬を注ぎ分ける。

 時が経ち、どろどろに澱んだ液体は、櫟井の時よりも随分時間をかけて瓶の底へと落ちていく。

 紫苑は瓶に丁寧に蓋をすると、政孝の頭の傍に置いてその場を去る。やがて政孝は何かに憑かれたような顔でそれを手に取った。

 そして、同時にまた場面が飛んだ。



『叔母上』


 そう言ったのは、今日の昼にこの世を去った人間だった。紫苑の甥である枸橘正輝は、親族からの気安さか、仕事中とは違いずいぶんとくつろいだ表情をしている。


『新妻とも恋人とも上手くやっているようね』

『おかげさまで、楽しく過ごさせていただいておりますよ』

『さっそくだけれども、あなたを見込んで少し頼みがあるのよ』


 正輝はにやりと笑った。普段の真面目そうな彼とは随分違う酷薄な印象。この顔をする彼ならば、朱利の言っていた女癖が悪いという話も納得できそうだと思う。

 彼はまるで冗談のようにさらりと言った。


『目障りな〝揖夜の君〟を再び、でしょうか? 確かにこの頃の警戒はすごい。宴にも出ずに閉じこもっておられるし。あれではそうそう手が出せませんからね。狙いは新嘗祭というところでしょうか?』


 紫苑は是とも非とも答えずに、飄々と言った。


『あの子がいる限り、あなたはいくら出世しても兄満政を越えることはできないわ』

 紫苑の辛辣な言葉に正輝は苦い顔をする。

『父は、私にあとを継がせようとは思っていない。幼い頃から私はできが悪いと疎まれているのです』

『そうね、兄は妹の椿ばかりを可愛がっていた。あなたはさぞかし悔しい想いをしたでしょうね』


 紫苑が慰めを言うと、正輝は頷く。


『せっかく私が家のためにと枸橘に婿に入って、これから皆で檜葉の宮を盛り立てていこうというのに、父は椿を東宮に嫁がせ、外戚の地位を得ようとしている。東宮との間に御子が生まれれば父の天下。次代を私に譲るつもりはなく、自分が栄華を極めるつもりなのがあからさまではありませんか!』


 熱が入り過ぎてふうふうと息をする正輝は、黙り込んだ紫苑を見て気まずそうにすると、言い訳をするように続けた。


『とにかく、中宮である叔母上をないがしろにするなど、一族への裏切り。許されることではございません』

『槙野政孝の件で兄は私を切ったのでしょうね。この間は上手く口を塞いでくれたけれど、尻拭いはこれまでだと言われたわ。兄を頼りに好き勝手し過ぎたのかしらね』


 紫苑がため息をつくと、正輝が膝を進める。そして内緒話をするように囁いた。


『私ならば上手くやります。良案があるのです』

『やり方は任せるわ。でも決して無理はしないでね。あなたが捕まって、私や娘にまで累が及べば、檜葉野の栄華はそこで終わる』

『わかっております。決して尻尾をつかませはしません。槙野政孝などのような失策は犯しません』


 自信のみなぎる表情にも紫苑は無表情を貫いた。


『念のために、これを渡しておくわ。万が一のときは、これで檜葉野――檜葉の宮を守りなさい』


 紫苑は母屋の隅にひっそりと置かれた櫃の蓋を開けて、そこから例の拳大の丸い器を取り出す。

 彼女がそれを斜めに傾けると、とぷりとぷりという音と共に視界が濃い茶に染まる。

 紫苑の手元の瓶――今朔の視点がある瓶に液体が注がれたのだとわかった。


『これは……』

 最後の一滴までが注がれた瓶を手渡された正輝は顔を歪めた。

『これを受け取る覚悟がないのならば、あなたには今後一切何も頼まない。そして頼まれもしない。大臣の座は諦めることね』

『まさか他に宛てでもございましょうか』


 正輝はその顔に焦りを現した。


『あなたの替わりなど、いくらでもいるの』


 紫苑はにやりと顔を歪めた。見ているだけで呪われそうなその禍々しい笑み。

 最初に見た少女のような彼女とは既に別人だ。彼女が抱いていた一途な想いはいつしか別物に変成しているように思えた。

 正輝が瓶を懐に仕舞うと、辺りは闇に包まれる。

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