御簾の内側では燈台の光が煌煌と照らされていた。対して薄暗いひさしの間からは相手の顔が見える。

 久方ぶりに目にした女の顔は相変わらず美しかったが、以前と比べて所々に陰りが見えていた。痩せたせいだろうが、疲労感が滲み出している。これが女の栄華を極めた中宮なのかと朔は驚きを隠せない。

 濃い茶色をした長い髪の艶は失われていた。同色の瞳は灰が混じったように澱んでいて、紅を差し真っ赤な唇は、白く塗られたかんばせの上に浮き上がっている。

 それは雪上にぽとりと落ちた椿の花のよう。ただし、今落ちたばかりのものではなく、随分昔に落ちて端から朽ちているようにも思えた。

 薫きしめられた白檀さえ腐臭に思えて、朔は軽い吐き気を覚える。

 庇の燈台に火が入れられたところで、黙って微笑んでいた紫苑が口を開いた。


「相変わらず美しいこと」

義母上ははうえも変わらずお美しい」


 朔がそう言うと、紫苑は大げさに眉をしかめる。


「世辞はいいのよ。あなた知っている? 宮中で一番美しいのは誰かという質問に、誰もが『宮中で一番美しい女性は、中宮紫苑様でございます』と口を揃えるの。――でもね。その後皆心の中で付け加えるの。『一番美しいならば、東宮壇の宮だけれど』と。主上も例外なく、そう思っていらっしゃる。本当に羨ましいわ」


 紫苑がふふふと楽しげな笑い声を上げるのを、朔は黙って聞いていた。


「ところで、何の話をしにやって来たのかしら? あれだけ私のことを避けていたのに。どういう心境の変化?」

 朔は問われて、逆に質問を返した。

「あなたは、……一体僕をどうされたいのです」


 枸橘正輝の後ろについていた人間について考えたとき、朔の頭にはこの紫苑という女の顔しか思い浮かばなかった。

 だがどうしてもわからないことがあった。だから、こうして直接問いに来たのだ。


 十四歳の朔を騙して寝所に誘い込んだ女。

 父の若く美しい妻。


 暗くてわからずに禁忌の中に途中まで足を踏み入れてしまった朔は、月明かりに彼女の顔を知り寝床を逃げ出した。

 もしも、あのとき月に助けられなかったら。未だにその可能性を考えると恐ろしくてたまらない。

 朔は不貞の罪を着せられて、どこか遠くに流されてしまっただろう。それは彼女にしても同じなのに、一体何がしたかったのか。

 彼女が朔を誘惑した。だから、彼は紫苑を疑うことができないでいたのだ。これ以上ないくらいの動機があり、一番疑わしい存在であるにも関わらずに。


(疑いを逸らすのが目的だった? そうやって僕を油断させようとした? それとも)


 ふいに朔の中に湧いてくる謎があった。今まで避け続け、覗こうとしなかった未来。


(もし、僕が誤って義母上と寝ていたら、どうなった?)


 枸橘正輝に強引に押さえ付けられていた瑠璃の姿が蘇った。自分の過去と同じくらいに精神を蝕む像ではあったが、ぐっと堪えて、瑠璃と紫苑を、そして正輝と十四歳の自分を重ね合わせる。

 朔はあと少しで答えの出そうな問いを抱えながら紫苑に尋ねた。


「あれは気の迷いだったのですか」

「いいえ。もちろん本気だったわ」

「本気? 僕にはわからない。あなたは父を愛していないのですか」

「愛しているに決まっているわ――だから〝葵〟が憎い」


 紫苑の口からは確かに母の名が出ているというのに、その目はしっかりと朔を睨みつけている。


「僕は母上ではない」


 朔が否定しても、彼女の瞳の奥の憎悪は少しも弱まらない。狂気の光さえ見えて、朔は怯みかけた。


「主上はそうは思っていらっしゃらない。見ていればわかる。あなたが女だったらどれだけいいだろうと思われている。髪を伸ばさせていたのも、いつまでも元服しないのを許すのも、あの方があなたに女を――葵を望まれているからよ。元服してしまえば、男になってしまうから、だから――」


 朔は彼女が語る歪んだ妄想に鳥肌が立つのを感じた。


「妙なことを言わないでくれ」

「あなたが憎い。葵が死んで、ようやくあの方の心が手に入ると思ったのに。あなたがいる限り、あの方は葵を追い続けるの」


 一瞬の沈黙の後、朔は尋ねた。


「だから、あなたは、母を殺した?」

「……いいえ?」

 紫苑は笑っていた。

「そして僕も殺そうとした?」

「いいえ? 知っているはずよ。あなたを殺そうとしたのは、枸橘正輝でしょう」

「甥子に全て罪を被せて――その前は槙野政孝にも罪を着せて。十年前の犯人――櫟井佐輔もそうだったのでしょう? 次は誰に罪を被せる気です」

「随分妄想が逞しいこと。でも言いがかりに過ぎないわ。――証拠もないのに下手なことを言えば、自分の首を絞めることになるわよ」


 肝心なところでするりと逃げられて、朔は口をつぐんだ。


「話はそれだけかしら?」

 紫苑がそう切り出したときだった。几帳の陰で待機していた女房が声をあげた。

「そこに東宮はいらっしゃいますか」

 紫苑は面倒くさそうに目を細める。

「ここにいる」

 朔が構わず返事をすると、女房は戸惑った声を出した。

「――殿下、女房の暁が急用だそうです。どうしてもお目通りをと申しておりますが」

「だめだ、帰れと伝えてくれ」


 朔はぎょっとした。


(瑠璃には話を聞かせたくないのに……だから黙って来たのに)


 義母との歪な関係はできる限り誰にも聞かれたくなかった。義母と寝ようとしたなど、瑠璃が聞いたらどんな顔をされるかわからない。

 向けられるのは憐れみ、もしくは軽蔑のまなざしか――。聞かせたくないに決まっていた。

 だが、ここまで来て引き下がるわけにもいかない。


(どうする? 出直すか?)


 曇り顔の朔とは逆に、紫苑はにやりと顔を歪ませる。


「いいえ、入ってもらいなさい。絶対に帰さないで。――例の子かしら? あなたが最近お気に入りの女房。卑しい大陸の色をしているそうね。東宮は色物好みだと噂になっていたわよ。それにしても……二代続けて、身分の低い女を愛するなんて」


 瑠璃が紫苑の標的になるのではと考えたとたん、朔の肌が粟立った。同時に彼女の首にあった青痣が瞼の裏にまざまざと浮かぶ。朔は思わずむきになって否定した。


「彼女はそんなんじゃない」

「今はそう言っているけれど、これから先はどうかしらね」


 後ろで御簾の巻き上げられる音がして、朔は振り返った。そこには瑠璃が青い顔で膝をついている。


「紫苑様、御前を失礼いたします。殿下にお話がございます。わずかで良いので、お時間をいただけないでしょうか」


 瑠璃が近づき朔に手を伸ばす。朔は彼女の手の中に薬瓶を見つけ、彼女がしようとしていることを悟る。薬瓶の本当の持ち主を彼女は明かすつもりなのだ。


「そこで話しなさい」

 紫苑が命じると、瑠璃は囁いた。

「終わりにしましょう。あなたの未来のために悪しき因縁を断ち切るのです」

 その瞳の中に揺るぎない覚悟を見て、怯み小さくなっていた背中を叩かれる気がした。

「……今、夢を見れるの?」


 こんな状況で? 不安に思うのは朔と同じなのだろう。瑠璃の手は震えていた。だが、


「あなたがいる。あなたのためならきっとできる。やってみせるわ」


 瑠璃は言い切ると床にしゃがむ。朔が手を差し出すと縋り付くように握って目を閉じる。朔は彼女の手を包み込み願った。彼女の司祇になりたい。彼女を支えたい、と。

 とたん――引きずられるように一緒に夢へと落ちていた。

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