四
その晩、帯刀として宿直に復帰した瑠璃は梨壷の妻戸に寄りかかって朱利と話をしていた。女房姿での勤めなのは、首の紫色の痣を下ろした髪で隠すためだった。痛みはさほどないが、恐怖だけは相変わらず残っていた。いくら抵抗しても押し返せなかった。男の人の力の強さを初めて恐ろしいと思った。
それが朱利にはわかるのか、さほど近づかない距離で、でもいつも見えるところにいてくれた。そういうところは本当に兄のようだと瑠璃は安心した。
「殿下の敵ってどのくらいいるのかしら」
黙っていても落ち着かなくて、気になっていた話題を振ると、朱利も話に乗ってきた。
「黒幕って言われてもねぇ……正直、俺、皆が皆怪しく見えてしょうがない」
「毒の出所を考えると、南部出身の貴族が怪しいわよね。後は北部の槙野、枸橘……」
そう呟いて、瑠璃は是近が怪しい人物は限られていて、すでに犯人に心当たりがあると言っていた事をふと思い出した。
「なんだか複雑そうだったけどさ。もっと簡単に一番得をするのは誰かって考えればいいんだろうな。檜葉の宮ってまだ十三歳なんだろう? 今上陛下には他に御子はいらっしゃらないんだよな? じゃあ妹宮の母親の親族――檜葉野一族、特に左大臣が一番怪しいってことになるよなぁ。でも疑われるのなんて当たり前だから、大きな動きをすれば目立って危険だろうしなー……あ、だから娘を東宮に嫁がせて味方だと見せかけたのか?」
ぶつぶつと漏らしている朱利に向かって瑠璃は懸念を口にする。
「殿下ね、何かご存知で、隠していらっしゃるような気がしたの」
「そうなの? どうして?」
「なんだか随分考え込まれていた気がするし。それにあたし、他にも気になることがあって。少将殿が狼藉したあの場所ね、助けを呼んでも誰も止めに入らなかったの」
瑠璃の存在をまるごと無視した殿舎を思い出してぞっとする。
「誰も? あんな大きな殿舎なのに?」
「おかしいでしょ? 本人も『ここで俺を邪魔しようなんて野暮な奴はいない』って言っていて」
「あの殿舎ってなんて名前だっけ……清涼殿の隣だよなぁ? 主人は誰だっけなぁ。女御も数が多過ぎてよくわからないんだよな」
「女房にあれだけ声をかけておいて知らないの?」
瑠璃は呆れる。
「当然。俺、結構一途だから、人妻にはまったく興味がない」
(へえ、一応、線引きはしているんだ)
それでも一途という言葉はひどい違和感がある。節操があるのかないのかと瑠璃が悩んだ時だった。
「
丁度戻ってきた是近は外に漏れていた話を拾っていたらしくすかさず二人を叱りつける。
「殿下は」
問われて瑠璃は塗籠の妻戸を目で追う。
「あれからずっと休まれているわ」
「溺愛された箱入り息子だもんなぁ。やっぱり昼間の衝撃が大きかったんじゃないかな」
朱利の言葉が胸に刺さる。瑠璃を苛んでいた自己嫌悪がぽろりと漏れた。
「あたしがもっと強ければ、殿下のお手を汚さずにすんだのに……帯刀失格よね」
瑠璃が項垂れると、朱利が呆れたようにため息をついた。
「わかってないなー。今度のことは、力が無いことじゃなくって、もっと別のことを反省するべきだ。暁ちゃんがもし死んでいたら、それこそ殿下は――もちろん俺も長官も――狂ったと思うよ。だからこそ、暁ちゃんはあの時ちゃんと俺たちに声をかけるべきだった。もちろん任務は大事だ。でも君を大事に思う人間がいることを、少しでもいいから頭に入れておいて欲しいんだよ」
朱利が珍しく真剣に説教をして、是近も頷く。
「俺や朱利は剣で殿下のお命をお守りすることができる。そう求められてここにいる。じゃあ、おまえには何ができる? 何を求められているんだ?」
知ってはいたものの、自分の剣の腕が全く当てにされていないことの悔しさで胸がいっぱいになる。
(剣が使えないあたしが、今できる唯一のこと――)
「だから……あたしは、力を使って、犯人を見つけたかった」
絞り出すように答えると是近は大きく頷いた。
「そこまではいい。俺も頼んだことだし、後悔も反省もしている。だが、おまえは今剣を使えないというのに、俺たちを頼らなかった。だからあんなことになったんだ」
「でも――父さんや朱利は殿下の帯刀よ。殿下の護衛が手薄になるのがわかっているのに頼めない。――それに、あたしだってまだ殿下の帯刀なんだもの!」
つい反論すると、是近の目が吊り上がった。
「中身の伴わない矜持など邪魔なだけだ。――何が帯刀だ? おまえは殿下のお気持ちなどまったく考えずに動いているんだぞ」
「殿下の、お気持ち?」
瑠璃が勢いを削がれきょとんとすると、険しい顔をしたままの是近が問う。
「盾になったり、向こう見ずに敵地に飛び込んだり……勇敢と無謀をはき違えた行動ばかりだろう。簡単に自分を犠牲にしておまえは殿下の何を守ろうとしているんだ?」
以前同じような事を問われたが、その時は怒りのせいで考えもしなかった。瑠璃は答えを探して思案に沈む。
(あたしは、朔の何を守りたいの?)
今までがむしゃらに朔の命を守ろうと体を張って来たが、それでは彼を守れないと是近は言う。
(母さんも、あたしにしか守れないものがあるって……)
夢で見た母の言葉も思い出しながら、瑠璃は必死で考えた。しかし、答えを出す前に、あっという間に軽さを取り戻した朱利の言葉に思考を遮られた。
「ま、次から気をつければいいんだしー、そんなにガミガミ怒らないであげて下さいよ。可哀相じゃないですかー」
「珍しくまともなことを言っていると思ったら……所詮他人事か!? 俺は今、おまえにも話しているんだからな!?」
「えー、俺には必要ないですよ。こんなに真面目なんですからー」
「どこがだ! おまえに足りないのはその真面目さだろう!」
是近が火を噴き、そのまま二人が言い争いをし始める。説教から解放された瑠璃は溜息をつくとひとまず考えるのをやめる。今は他にするべきことがあるのを思い出したのだ。
是近に向き直ると、瑠璃は尋ねる。
「ところで、父さん。頼んでいたもの持ってきてくれた?」
「……ああ。こっそり取ってきたから一晩しか借りられないぞ。これが最後と思え」
是近の手には、正輝の呷った薬瓶があった。例によってくすねてもらってきたのだ。今度は自信があった瑠璃はしっかりと頷く。
「じゃあ、お休みの所悪いけれど、ちょっとお願いしてくる」
そう瑠璃が言うと是近は憂鬱そうな顔をする。そんな彼に朱利がおずおずと声をかける。
「あのー。今日の宿直、休ませてもらってもいいですかー?」
「はぁ?」
是近はむっと顔をしかめたが、朱利は眠そうにあくびをして訴えた。
「寝不足なんですよ、このところ。これじゃあ、いざって時に役に立てないかも」
眠りこけてしまった今朝のことを思い出したらしい。是近が渋々頷くと、朱利は「一休みしたら、すぐ交代しにきますからー」といそいそと退出する。それを横目に見ながら瑠璃はそっと妻戸を叩いた。
「殿下? あのお願いが」
塗籠では燈台の光が消えていた。深く眠りたいから油を足さなくていいと朔が萩野に命じていたのだ。だが、人の気配がないような気がして瑠璃は目を凝らして暗闇の中を探る。
「え――?」
やがて瑠璃は目を見張った。褥はもぬけの空だった。
「父さん――殿下がいらっしゃらない!」
「なんだと? 見張っていたんじゃないのか」
「妻戸に寄りかかっていたわよ」
塗籠から出入りするには必ず妻戸を通る必要があった。だから警護もそこを重点的にやっていれば大事には至らないのだ。
是近が灯りを持って塗籠に入ってくる。光が差してもやはり朔の姿は見つからなかった。
瑠璃がしゃがみ込んで褥に触れると、わずかに温もりを感じた。
「出て行かれたのは、そんなに前じゃないわ。でも――どうやって」
「おい、ここだ」
是近の声に見ると、床板が一部剥がされて開けられている。そういえば縁の下は彼の庭みたいなものだったと思い出した。最初に瑠璃の局に彼がやってきたときも、彼は簀子縁の下に逃げ込もうとしたのだから。
(朔――!)
最後に見た朔の思い詰めた顔が、瞼の裏に浮かび上がる。どくどくと激しくなる動悸で耳が聞こえなくなりそうだった。
「こんなところから、どこに行かれたんだ。俺が探してくるから、瑠璃、おまえはここで待機だ。絶対勝手に動くな」
是近が瑠璃に釘を刺して梨壷を飛び出していく。だが動揺で彼の言葉などまるで聞こえていなかった瑠璃は梨壷の庭へ飛び降りた。そして西を見て思わず息を呑んだ。
「あ……!」
朔が向かった先がわかった気がした。あのとき彼がじっと見つめていたのは、月ではなく、庭からまっすぐに見える殿舎だ。その名称は先ほど知ったばかり。
(多分――弘徽殿だわ)
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