今朝、有明の月が東の空に昇るころになって、朔にようやく眠りが訪れた。二日寝ずにいた疲れが、瑠璃が手を離したとたんにどっとやってきたのだ。そして起きたら塗籠には男三人しかいなかった。しかも三人が三人とも疲れのため眠りこけていたのだった。

 瑠璃だけが消えたことに気が付いた男達は、慌てて周辺の捜索を開始した。そして梨壷を飛び出した朔が見たのは、金色の髪の女房が襲われているという衝撃的な場面だった。それを目にした後の彼は、矢をどうやって射たか思い出せないくらいの怒りに囚われた。

 右近少将枸橘正輝の見かけに寄らない手癖の悪さは朱利に聞いていた。だが、まさか本当に東宮付きに手を出すとは思わなかった。こんな騒ぎになって油断した自分が腹立たしくてたまらない。

 朔は意識を失った瑠璃を抱きかかえると、渡殿を梨壷へと戻る。

 是近と朱利が正輝を取り囲み激しく問いつめていた。近衛府の人間がどんどん集まってくるが、朔はそれを掻き分けるようにして歩いた。そのとき、


「――うわぁ!」


 後ろで怒号と悲鳴が上がり、朔は振り返る。そこでは詰問されていたはずの正輝が庭に降り、刀を振り回して暴れていた。

 背の傷は深手のはずなのに、猫に追いつめられた鼠のようだ。

 朔は彼に冷たい視線をやる。近衛府にいる分際で、宮中で暴力沙汰を起こすような彼を許す気には到底なれなかった。しかもその相手が瑠璃ならばなおのこと。

 正輝の相手をするのは朱利。正輝の刀を簡単に避け、あえて切っ先が触れるか触れないかの際どい反撃を繰り返している。顔に笑みさえ浮かべた鮮やかな斬撃は、まるで剣舞を見ているようだった。

 やがて正輝は刀を払い落とされて戦意を喪失する。峰で軽く打たれただけのように見えたけれど、力量の差を見せつけられたのだろう。最後は見えないほどの刀さばきで追いつめられて、ふらふらと庭にしゃがみ込んだ。――かと思うと、直後、懐から何かを取り出し、そして大きく呷った。


(あれは――!?)


 朔がそれの正体に気付いた時には、彼は既に地面に倒れて小さな痙攣を繰り返していた。


「毒だ――毒を飲んだ!」


 一気に怒号で沸き上がる庭を前に、朔は呆然と目を見開く。


(なんだって?)


 刑に処される可能性はあったが、それほど重い刑にはならないはずだった。女房への暴力ならば、数ヶ月の謹慎がせいぜいかもしれない。相手の身分次第では、刑に処されないこともあるくらいだ。それなのに。


(しかも、あの瓶は――――)


 庭に転がる一つの瓶を見て、朔はひどい既視感を感じて呻いた。


(服毒だと?)


 ふと見下ろすと、瑠璃の細い首に絞められた痕が生々しく残っていた。朔はぎょっとした後ぞっとした。明らかな殺意を感じて、動揺が震えとなって現れる。


「なんなんだ、これは――」


 今の今まで彼女が手込めにされようとしたのだと思っていたが――これは違う。抵抗したから首を絞めたのかとも思ったけれども、それにしては衣服に乱れがないのだ。殺意が先にあったように思えて仕方がなかった。

 朔は必死で考える。彼がどうして瑠璃をこんな風に襲う?

 彼女が昨晩言っていたことを思い出す。

 もしかして瑠璃は夢を見て何か知ったのだろうか? この渡殿の先にあるのは清涼殿だ。帝に伝えたいことがあったのかもしれない。右近少将が朔の暗殺未遂事件を担当していたことと、何か関わりがあるのだろうか。それとも――


(彼が……犯人だったのか? だとしたら)


 朔は答えを探して何気なく殿舎を見上げ、そこが自分の嫌いな場所だと知る。漂う空気にひんやりとしたものを感じた朔は瑠璃を抱えたまま、足早にその場所を去った。




「――う、るう」


 呼びかけられて瑠璃は目を開ける。目の前に三つの顔があったが、瑠璃は迷わず一つの名を呼ぶ。


「あ……朔……?」

「怖かっただろう? 大丈夫?」


 頷きつつも思わず涙ぐむと、彼の手が恐る恐る瑠璃の手を握りしめた。是近が横で唸るけれど、朔はその手を離さなかった。

 是近は仕方なさそうに、ため息をつく。


「殿下の弓のおかげだ。もう少し助けるのが遅かったら死んでいたかもしれない」

「弓って……あれ、殿下が?」


 驚いて瑠璃が尋ねると、朱利が感心したような声をあげた。


「梨壷から射たんですよ。あの距離で中てるとは思いませんでした。灯籠も釣ってありますしただでさえ難しいのに。そこまでの腕の者は武官にもそうそういない」

「夢中だったんだ」


 朱利が珍しく朔を誉め、朔がきまり悪そうに壁を見る。そこには彼の弓が立てかけられていた。

 それっきり皆が黙り込む。沈黙を破ったのは瑠璃だった。


「あの人は?」

「…………死んだよ」


 是近が憂鬱そうな声で告げる。


「うそ、なんで」


 瑠璃は驚愕したが、朔が次に言った言葉で更に目を丸くした。


「自害した」

「自害……!? どうして」

「瑠璃、おまえは昨夜何を見た?」


 迷ったような沈黙の後、是近が問う。


「あ――……殿下に矢を射かけていた覆面の人と少将殿の顔しか矢からは見えなくて……」


 瑠璃は夢で見たことと、それから自分が予測したことを説明した。


「なるほどな。自分が犯人だと発覚するのを恐れたのか……となると、動機は?」


 是近が家系図を書きながら考え込み、朔が是近を手伝いながら重い口を開いた。


「やっぱり檜葉の宮いもうとの皇位継承を狙っての事だと思う。枸橘正輝は左大臣檜葉野満政ひばのの息子なんだ。最近〈橘〉が檜葉の宮側について結びつきを強めたことは広がっているだろう? それは正輝が枸橘家の長女の婿になったからなんだ」


 この中で宮中の人物についてすべて把握しているのは朔だけだった。

 皆家系図を睨んで、関係を頭の中に叩き込んでいく。


(ああ。それが、〈橘〉が〈壇〉を切ったという話に繋がるのね)


 あのとき薄れかけた意識の中で瑠璃が気にしたのは枸橘という姓だったようだ。

 随分前に菖蒲に聞いた話を頭の中で反芻する。宮中の政略結婚は、一つ決まっただけで随分大きく勢力が傾く。あまりに自分に縁のない世界に瑠璃は唸った。


「そして満政の妹は中宮紫苑。つまり正輝は妹檜葉の宮の従兄でもあるんだ」

「なるほど。じゃあ、動機は十分なわけですねー。少将は一族から帝を出して、将来の権力を手中に収めたかったんでしょうか。ま、犯人が自害で一件落着して、良かったじゃないですか」


 軽く言う朱利の言葉にも、朔はどこか納得いかない顔をしていた。家系図をじっと睨んでいた彼はやがて、ぽつりと呟いた。


「だが、左大臣の檜葉野満政は僕に娘を嫁がせようと動いていたし、歩み寄りを見せていたのに。……なにより、毒が気になるんだ。正輝が飲んだのは、例の毒だったんだろう」


 是近が渋い顔で頷くけれど、朱利は不思議そうに訴える。


「つまり全ての犯行は彼が行ったってことで、問題ないじゃないですか?」


 朔はゆっくりと首を横に振ると、家系図の名の横に数字を入れていく。

 まず帝が四十。満政のとなりには四十三、紫苑の隣は三十二。檜葉の宮が十三。そこまで見て、瑠璃はそれが年齢だと気が付く。全て覚えている朔の頭に驚いていると、彼は正輝の隣にも数字を書き込んだ。


「正輝は現在十八歳なんだ」


 それが何か……と考えた直後、瑠璃ははっとして手を打った。


「十年前の事件の時には、まだ八歳だよ。八歳の子供が毒を盛ったりできるかな? 混入ができたとしても、どうやって毒を手に入れたのかな」

「殿下は何をおっしゃりたいのです」


 是近が真面目な顔で問うた。


「正輝はただの駒だ。黒幕が、きっといる」


 朔はふと立ち上がると庭に降りる。そして殿舎の向こうに沈み行く月をしばしの間静かに見つめていた。

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