目覚めは夢の終わりと共に唐突に訪れた。疲れ果てているのか揺すっても全く起きる気配のない男どもを放置して、瑠璃は北の対屋にある自分の局に着替えに行く。

 地味な上衣を羽織りながら、気ばかりが急いた。

(どうして?)

 昨夜見た夢は見間違いだったのだろうか。どうしても納得いかないことがあった。

 矢から見ることのできた人物は、覆面をつけた人間以外に一人しかいなかったのだ。それがどういうことなのか……瑠璃には答えが一つしか思い浮かばない。

 一刻も早く報告しなければ。だが、着替えが終わり、矢を手に清涼殿へと向かう途中、颯爽と現れた人物に瑠璃は捕まった。


「おや、自ら返しにきて下さったのですか?」


 右近少将正輝は、今日、海松みる色の狩衣を雅に着こなしていた。その茶とも緑とも言えるような落ち着いた色合いが真面目そうな風貌を際立たせている。


「いえ、あの、帝にお話がありまして」

「お話なら私がまず伺いましょう。何か思い出されたのでしょうか?」


 そう言いながら正輝は途中にあった空の局に瑠璃を連れ込んだ。

 瑠璃は屏風と几帳に囲われて落ち着かない気分になる。ここの主は誰なのだろうと殿舎の位置を思い浮かべる。おそらくは女御の一人の住まいのはずだった。

 早くここをやり過ごしたい。瑠璃は誰か人が来てくれることを願いながらも、ひとまず尋ねることにする。


「あの」

「何でしょう」

 正輝はひどく穏やかな口調で促し、瑠璃はためらいつつ問う。

「…………新嘗祭の折りに、少将殿はやはり主上の護衛をされていらしたのでしょうか」

「ええ。もちろん。それが?」

「私、目撃談が全くないことがどうしても気になって。当日衛士の方々がどこで護衛をされていらしたのかなと。ほら、何か見られたかもしれないでしょう」

「私がいたのは階のすぐ脇ですが、特に何も見ていないのですよ。他の衛士達にも聞きましたが、情けないことに皆、舞姫に気を取られて。申し訳ないことでございます」


 瑠璃は頷いた。舞姫に見とれるのは犯人の計算に入っていたのだと思う。そして御簾がその時に開けられるのも。


「舞姫は美しかったですものね。階はちょうど舞台の前ですから、舞姫もよくお見えになったでしょう。あんなことになってしまわなければもっと楽しめたのに。少将殿が羨ましいです」

 瑠璃は慎重に言葉を紡いだ。

「確かにたいへん美しゅうございましたな。特に紫の表着をまとわれた前方の二人は、まるで藤の花のようでした。さすがに東宮妃の候補だけあります」

「藤の花? ……そうですね」


 瑠璃は低い声で相槌を打った。動機はまったくわからないけれども、彼の言ったことが瑠璃の考えを肯定してしまった。

 だとすると、次の一手をどう打つべきか。瑠璃の視線が左手に留まる。


(危険すぎる? でも)


 ためらった瑠璃の右の手をじれた様子の正輝が握った。

「暁殿……」

 ふと見上げると正輝の顔はだらしなく崩れていた。

 正輝の手が、瑠璃のもう一方の手をつかもうとする。

 その感触におぞましさを感じた瑠璃は、我慢できないと思った。どうしても、このまま放置できない。


(ああ、もう、だめ。許せない!)


 確証とともに怒りが湧き上がり、その勢いのまま問うた。


「どうして、あなたは矢を射かけられたのです?」

「は?」


 正輝は鼻の下を伸ばしたまま、きょとんと不思議そうな表情になった。

 弓を使い慣れているかどうか、そして、腕前はどのくらいなのか。自分や朔の手と比べるとよくわかる。


(彼の親指の付け根は固かった。それから手のひらの中央に胼胝)


 それは一昨日、昨日握って確かめた朔の手と同じ。彼は弓の名手。そしてこの男もまた。

 女房の話し声と足音が近づいてくる。ほっとした瑠璃の口が僅かに緩む。


「私、見たのです。本当は。――あなたが東宮に矢を射かけられた直後、橘の木から降りて、何食わぬ顔で護衛を続けられたのを」

 瑠璃の言葉に、正輝ははじめて穏やかな表情を崩して眉をひそめた。

「矢に倒れたあなたに見えるはずがないではありませんか。幻影ですよ。困ったな」


 表情を崩したのもつかの間、正輝はにこやかな笑みで瑠璃を諭そうとする。

 だが瑠璃は首を振って彼の反論を否定した。


「幻影だとしても、やっぱり目撃談がないのはおかしいのです。でも、私が言った通りならば、怪しい人がいたという証言がないことも理解できる。だって目撃者がいても、あなたなら疑われない。衛士が弓を持っているのは当たり前だから」


 瑠璃は真っ直ぐに正輝を見た。


「しかし橘は舞台の裏ではないですか。私はあのとき正面の階の横にいたのですよ?」

「どなたかそれを見ていらっしゃいますか? 皆が皆舞姫に気を取られていた中で」


 正輝はまいったなと頭を掻いた。


「ですから――私だって皆と一緒です。舞姫に見とれていたと先ほど言ったでしょう」

「当日の衣装は四人全員がの表着だったわ。まるで紅梅みたいと皆が囁いていました。それなのにどうして前二人――しかも紫の表着だと思われたのかしら」

 瑠璃は畳みかける。

「私はしっかり覚えているわ。あなたがおっしゃった紫の表着を二人の舞姫が着たのは、御前試おんまえのこころみの時よ。それを見られたのでしょう?」

「ちょっとした勘違いですよ」

「じゃあ、節会で舞姫が表着に合わせた袿の色を教えて下さいますか? 見とれるくらいですし、高貴な身分のお方ならば特にお詳しいはず。覚えていらっしゃるでしょう?」


 正輝は黙り込んでいた。その目がひどく冷たくて、先ほどの穏やかな人物とは別人にも思えた。一人でここまで追及するのは迂闊だったかもしれない。瑠璃は身震いすると立ち上がる。


「――私、やっぱり主上にお話して参ります」


 くるりと背を向けると、一気に駆け出そうとする。だが、瑠璃は後ろに反り返った。上衣の端を踏まれたのだ。

 自分が女房姿だったことを思い出して、瑠璃は焦る。


「たかが女房と思っていたが……念のためにと見張っていて正解だったかもしれないな」

「何するの、やめて!」

 あっという間に上に覆い被さる正輝に、瑠璃はもがく。正輝の鳩尾に膝を入れ、その隙に几帳をなぎ倒すと、隣の局へと逃れようとする。だが、そこにいた女房は正輝の顔を見たとたん、なぜか肩をすくめて局を出て行った。

「ちょ、ちょっと、助けてよ――!」


 床を這いながら頼みの綱の懐剣に手を伸ばすけれど、手首をねじられたのが傷に響いた。唯一の武器は床に落ちる。派手な音がしても誰も助けに現れない。


「人が見ていた。あなたは捕まるわ」


 塗籠の壁に追いつめられ、瑠璃は肩で息をしながら正輝を睨んだ。と、首に手がかかり、声が奪われた。


「いつものことだ。捕まらないね。傍目には契っているようにしか見えないし、ここで俺の恋路を邪魔しようなんて野暮な奴はいないんだ」

(ここ――?)


 正輝の肩越しに遠く梨壷の屋根が見えた。渡殿をいくつ渡ってここに来たのだろうかと瑠璃は必死で考える。

 そして、ふいに枸橘という姓が記憶の中の何かと重なった。だが、答えに辿り着く前に胸を焼くような苦しさが思考を遮った。

 息ができずに頭が朦朧としてきた時だった。

 ひゅん――と風を切る音が響いた。その音は以前聞いたことのある音――あの新嘗祭の時に聞いた音だった。瑠璃は痛みを思い出して体を縮め目を瞑った。だが、瑠璃には衝撃はやってこなくて、瑠璃のすぐ近くで絶叫が上がった。


「ぐぁあああっ!!」


 瑠璃の首を絞めていた手が緩み、覆い被さっていた体が床に崩れ落ちる。

 瑠璃はひゅうひゅうと音を立てる喉に手を当てて、簀子縁に這い出した。

 バタバタという足音と共に是近の声が渡殿に響き渡る。だが今の瑠璃は音のない世界を彷徨っていた。自分の胸の音だけがどくんどくんと大きく響き、ただひたすら息を吸った。

 体に染み込む空気が甘い。甘過ぎて息を吐くことを忘れるくらいに瑠璃は必死で息を取り込んだ。これ以上吸うことができずに瑠璃が倒れ込むと、すぐ傍にあった大きな温かい手が彼女を抱きとめ、背を撫でた。


「るう」


 低く艶やかな声が耳に染み込んだ。誰の声なのかが一瞬でわかり、瑠璃は涙でぐちゃぐちゃな顔を、さらに歪めた。


「るう、息を吐いて。ゆっくり。そう――上手」


 沸き上がる嗚咽と共にわずかに息を吐くと、彼は彼女をゆっくりと抱きしめる。力が抜けて、ようやく息の吐き方を思い出す。


「間に合って……良かった」


 強く強く抱きしめられ、瑠璃はこれが夢なのではないかと疑った。だが、その腕は揺るぎなく、温かい。規則的に響く胸の音を聞いて気が緩んだ瑠璃は、そのまま闇の中へと意識を滑らせた。

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