第四章 暁天の倖姫 晦冥の司祇
一
その夜、梨壷には宿直の帯刀が三人揃っていた。
寝所である塗籠の中にいるのは三人の男と一人の女。周囲に張り巡らされた几帳がいつもに増して迫って来るようで、窮屈で妙に息苦しい。
褥の上にごろんと横になった朔の頭上の几帳際には、まるで置物のように是近が座って眠っている。宿直続きで疲れ果てているようにも見えるが、気配がどこか殺気立っている。
足元では朱利が憐れみを込めた目でこちらに視線を流し、そして左隣では瑠璃が朔の左手を握ったまま既に寝息を立てていた。
彼女の右手には矢が握りしめられていて、
(眠れないんだけど、色んな意味で)
怪我をしてはいけないと、朔はそっと鏃に布をかぶせると、瑠璃を見やる。
昨日もだけれど、彼女は朔の手を握って横になると、あっという間に寝入ってしまった。羨ましいくらいの寝付きの良さ。残された朔は彼女の無防備な寝顔のせいで、一睡もできなかったというのに。
「それ地獄ですよねー」
「うん」
朱利の言葉に朔は素直に頷く。わかってくれる人間がいることは、たとえそれが朱利でも嬉しかった。
(でも替わってやらないよ)
心の中で朔は付け加える。朱利は是近をちらりと見て呆れたように呟いた。
「長官は何も教えてないんでしょうねぇ。ま、男親が娘に教えることじゃないですし」
朔は頷いて、思わず小さな声で愚痴る。
「昨日は小袖姿だったんだ」
朱利は目を丸くした。
「よく耐えましたねぇ」
「だってあっという間に寝てしまうんだから、手の出しようがない」
不満をこぼすと、朱利はにやりと笑った。
「東宮は女嫌い――そんな噂を聞きましたけど、克服されたんですか」
朔はぎょっとする。そのことはできる限りわからないようにしていたつもりだったのだ。
「どこから聞いた?」
「十六になっても女の影が全くないんですから、皆が噂するのもしょうがないですよ。ちらと聞いただけでも、我こそはと添臥になろうとして追い出されたと嘆いた女房の多いこと多いこと。節操がない男が多い中で感心と言えば感心ですけどー」
「僕のことを勝手に探るなよ」
「相手が勝手にしゃべるんですよー」
朔が凄んでも朱利は悪びれない。ごろんと横になると、勝手に話を続けた。
「それにしても、この頃の暁ちゃんは急に綺麗になりましたよねぇ。女房姿になって皆あからさまに態度を変えておかしいんですよ。泥まみれ埃まみれの時には目もくれなかったくせにねえ。右近少将なんて仕事をさぼって毎日見舞いに来ているし」
「そうなの?」
思わず目を剥くと、朱利はにっと笑って朔を見た。
「一応調書を理由にしてますけどねー。あ……気になります? 気になりますよねぇ」
「……べつに」
朔はぷいと顔を逸らすけれど、朱利はかえって身を乗り出してきた。
「俺、殿下のお気持ちがわからなくはないんですよ。だから同情しちゃうなぁ。丁度食べごろの美味しそうな娘が傍にいるのに手は出せないなんて、お気の毒です」
「何を言っている」
際どい話にぎくりとして朔は隣の瑠璃と頭上の是近に目をやる。瑠璃も是近も深い眠りに入っているのに気が付いて、朔はほっと安心する。
「大丈夫ですよ。長官は〝よこしまな気配〟に反応するだけですし」
朱利はからりと笑う。
ふと彼と二人きりで話す機会など今までほとんどなかったことに気が付いた。饒舌な朱利に、彼が密かにこの機会を狙っていたのかもしれないと朔は思う。
「暁ちゃんのことを好きになっても、身分を考えると妃にはできないですよね。女が好んで読む恋物語には身分差ものなんていくらでもありますが、物語の中でさえ恋の成就は難しい。俺、受領の娘が高貴な身分の公達に愛される――そんな話を聞いたことがありますが、娘は生んだ子を身分の高い正室に養子として取り上げられたんですよ。子の幸せを願って諦めたらしいですが、その娘はさぞかし辛かっただろうなあって思いますね」
朱利は痛いところをぐさりと衝いて、朔がたまに想い描くささやかな夢想を叩き潰してくる。
彼が語った話はどこか朔の母――葵と父の話を連想させる。朔は母の苦労も、父の苦労も、そして自分自身の苦労も身に染みて知っている。
(僕が瑠璃を幸せにできないなんてこと、言われなくてもわかっている)
腐りかけた朔は朱利の顔が楽しげなことに気が付く。ふいに思い当たった。
「そうか。だから君には余裕があるのか」
「さぁ? 何のことです?」
朱利はとぼけたが、その笑顔が彼の本音を物語っている。
「なるほどね」
余裕のある朱利の態度を朔は不思議に思っていた。あんな風に瑠璃を誘っているくせに、瑠璃が朔を司祇として
(それに、瑠璃と朱利は……身分はこれ以上ないくらいに釣り合っている)
つまり――朱利はその気になればいつでも瑠璃を手に入れられるのだ。
朱利には渡したくない――そんな想いが沸き上がり、思わず繋いでいた手に力が入ると、
「う、ん……さ、く……」
瑠璃がかすかに眉を寄せる。摘みたての桜桃のように瑞々しい唇から自分の名が漏れ、朔は目を見張った。
(――僕の夢を見ている?)
そう思ったとたん、体の芯が燃えるように熱くなり、思わず体を起こしかけたところで、ちょうど目を覚ました頭上の是近とばっちり目が合った。
静かに見つめ合うこと二呼吸ほど。
「…………どうかされましたか?」
低い声で問われて密やかに手の力を緩め、起き上がりかけていた頭を褥に横たえた。
朔は朝まで一睡もできなかった。
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