翌朝密やかに朔を送り出した瑠璃は、


「例の矢を見せていただきたいのです。何か思い出すかもしれないと思って」


 と、朝一番に訪ねてきた右近少将枸橘正輝からたちまさてるに願い出た。朝起きてからの興奮は今までずっと続いていて、声が上擦らないようにするのが精一杯だった。

 事件の事情聴取を最初に受けた日以降、毎日顔を見せている正輝は、妃の甥だと言っていた。茶色の髪に茶色の瞳という宮中でも比較的濃い色素を持っているのは、血筋が良いせいなのだろう。

 その上、親族が南部の豊かな土地の国守も兼任しているそうで家も裕福らしい。上品な狩衣を颯爽と着こなし、きびきびと動き回っているのをよく見かけていた。

 朱利が女癖云々と言っていたが、実直で真面目そうな、朔や朱利とは別の種類の美男子で、とてもそうは見えない。きっと女の方が勝手に騒ぐのだろうと瑠璃は思った。


「わかりました。すぐに持ってこさせましょう」


 彼は品の良い顔に人の良さそうな笑みを浮かべると、後ろに控えていた随身に矢を持参せよと命じている。

 傷を負ったときに女房姿だったので、瑠璃は治るまでの間は女房姿でいるつもりだった。

 近衛府の人間は帯刀の暁を一応見知っているはずなのに、なぜか正体は露見しなかった。女房の衣を着て、化粧をして髪を下ろしているだけの違いなのにわからないようなのだ。それどころか女房の暁にはまるで態度が違って面白かった。

 これが少年姿であれば「自分でとってこい」になりそうだと苦笑いする。


(男の人は、女の人には優しいのね)


 今までに女性として扱われたことがほとんどなかった瑠璃は、そんな風に感心する。

 てっきり朱利だけかと思っていた。彼は男と女に対する態度が正反対なのだ。朔には冷たいが瑠璃には優しい。彼の態度で自分の性別が露呈するのではと心配なくらいだった。

 しかしよく観察すると是近も瑠璃以外の女性にはやはり丁寧な態度を貫くし、朔だって同じ――そう考えかけたが、


(いえ……ちがう……)


 瑠璃はすぐに否定した。朔の女性への態度は朱利と真逆かもしれない。

 彼は男に対しては意外に気安いし、話しやすい雰囲気がある。だが、他の女房――慣れ親しんだ萩野や、男の姿で接していた瑠璃は別として――にはひどく素っ気ないし、先日の舞姫にもあまり興味を示さなかった。なにより特徴的だったのは、中宮紫苑への態度かもしれない。


(素っ気ないどころじゃなかったものね……)


 顔を一度も上げずに形式だけの丁寧な挨拶をしていた朔。世話話の一つもせずに逃げるように中宮の御座を去った。帝に対する親密な態度や、檜葉の宮に対する兄らしい優しい態度とあまりに違ったので違和感があったのだ。瑠璃がその時のことを思い出していると、先ほどの随身が布で丁寧に包まれた証拠品の矢を持ってきた。


「こちらです」

「触っても大丈夫でしょうか」

「大丈夫です。ですがあまりご無理はなさらないように」


 正輝は瑠璃の青くなった顔を恐怖と勘違いしたのか、そんな風に労る。

 布を開けて矢を手に取る。しかし当然何も起こらない。夢を見るためには眠らなければならない。


「じっくり思い出してみたいので、しばらくお借りしたいのですが」


 正輝はさすがに少し渋ったけれども、熱心に懇願する瑠璃に結局は根負けした。

 とりあえず明日また来ますと彼が退出するのを見て、瑠璃は矢を手に局を抜け出した。

 その足で瑠璃は梨壷に向かう。

 傷は痛んだけれど、もう大体塞がっているようだった。元々固く厚い五つ衣のおかげもあって傷は浅かったのだ。それに宮中の侍医はさすがに腕が良いし、高価な薬はよく効いた。歩くのもゆっくりであればそれほど苦にならない。

 梨壷の簀子縁では是近と朱利が護衛を務めていた。


「暁ちゃん、動いて大丈夫なのか?」

 朱利が問い、瑠璃は頷いた。

「もう大丈夫。傷は塞がってきたから、歩くくらいなら」

「まだ動くには早い、寝ておいた方がいい」


 是近は険しい顔で道を塞ぐ。だが瑠璃が「そうしている間に追い出されちゃうもの。ここにいる間にしておくべきことはしておかないと。――この間の事件のことで話があるの。話すくらい大丈夫でしょう」と訳を話すと苦々しい顔のまま奥へと通してくれた。

 御簾越しに見える人影は何か書き物をしている。瑠璃は小さく息を吸って声をかける。


「殿下。少しだけよろしいでしょうか?」


 瑠璃の声に御簾の向こうにいた朔はびくりと体を震わせる。御簾をくぐると、綺麗な漆黒の目の下に軽くではあるけれど隈を見つけて瑠璃は驚いた。


「あれ、お加減が悪いのですか? もしかして、風邪でもお召しになられたのでは」

「寝不足なだけだ」

「寒かったのでしょう。だから衾をお貸ししたのに」


 昨夜、瑠璃は朔と久しぶりに一夜を共にした。夢を見るために必死で頼み込んで、手を繋いで眠ってもらったのだ。

 その際、朔は瑠璃が着るべきだと主張して決して衾を受け取らなかった。では一緒に被りましょうかという提案も撥ね付けられ、結局は瑠璃が衾を着て、朔は瑠璃の上衣を着て眠った。

 朔は怯えた目を瑠璃に向け黙り込む。彼がちらちらと瑠璃の隣に目線を移すのを見て、ふと横を見ると、是近と朱利が怪訝そうな顔で瑠璃達を覗き込んでいた。


「……で、ええと、用事は何」

 なぜだか突き放すような声に聞こえた。瑠璃は首を傾げつつ、思い切って願いを口にした。

「あの、どうしても夢を見たくて。だから昨夜みたいに一緒に眠って欲しいのです」

 直後、周囲の空気が凍り付いた。

「どういうことでしょう?」


 是近がただでさえ厳つい顔に凶悪な皺を寄せて朔を睨んでいた。今にも逃げ出しそうな顔で朔が後ろに後ずさりをしている。

 それを見て瑠璃は、靫負所で是近を怒らせた事件を思いだしたが、後の祭りだった。


「まさか、やっちゃったんですか?」

 朱利が逃がさないとでも言うように、朔の後ろに回り込む。

「な、何もやってない!!」

 朔は青くなって叫ぶ。

「じゃあなんで逃げるのです」

「だからっ――是近、顔が恐いって!」

「父さん、やめて!」


 ただならぬ雰囲気に瑠璃は慌てて朔を背に庇う。だがそれはどうやら是近に着いた火に油を注ぐものだったらしい。


「〝父さん〟だと――おまえ全部自分でばらしたのか? 瑠璃だと、それから女だと」


 あ、と瑠璃が思った時には遅かった。

 瑠璃の〝父〟という言葉を受けたかのように、是近は遠慮なくぶちまける。


「大事な〝娘〟に勝手に手を出されて怒らない〝親〟がいるか!! しかも、相手がまず過ぎる。遊ばれて捨てられるのがおちだ」


 そこで是近は瑠璃を退かせて朔の襟元を掴んだ。


「東宮として、その辺のご自覚はあられるのでしょう!?」


 無礼極まりない態度にも朔はなぜか是近を叱責しないし助けも求めない。瑠璃は後ろにいる朱利に仲裁を求めて目配せをするが、彼は肩をすくめるだけで止める気は全くないようだった。しかも瑠璃と是近が漏らした秘密――二人が親子だという事実にも全く動じていない。


(しゅ、朱利って本当に〝全部〟知ってたの!? あたしと父さんが親子ってことも!?)


 混乱に拍車がかかる瑠璃の前では、朔が是近から逃れようと必死だった。


「本当に何もしてないってば! 頼まれて手を繋いだだけ!」

「手? 瑠璃、おまえそんなこと頼んだのか。なぜ」


 朔から手を離して是近は瑠璃に顔を向ける。朔がけほけほと咳をしているのを見て、瑠璃はここが御簾の中で良かったと心から安堵した。父の首が飛ぶところは見たくない。

 瑠璃はまず朔にかけられたなんらかの嫌疑を晴らそうとする。


「あたしが頼んだんだから、殿下は悪くないの。あのね、朱利が蘇比の言い伝え――ええと、暁天の倖姫と晦冥の司祇の話――を教えてくれて、司祇がいれば夢を覚えていられるって言うから、確かめようと思って」

 瑠璃がそこまで言うと、是近ははっとした顔をして遮る。

「瑠璃、おまえ、まさか力のことまで話したのか?」

「え? ううん」


 とたん、是近はしまったという苦々しい表情を浮かべた。「あ、いや……」と墓穴を掘ったことを誤摩化そうとする是近に、


「力って――何の話?」

 怪訝そうに朔が問い、

「暁……って名、まさか暁天の倖姫から取ったなんて言わないですよねぇ?」


 と、朱利が鋭く重ねた。軽い口調の割にその眼光は鋭く、誤摩化されないという意志が見えた。

 引こうとしない朔と朱利に是近は弱ったように頭を掻く。

 朔が先ほどとは打って変わって責めるような目をして是近を見つめた。


「是近。君が言わないのなら、暁に聞くよ。彼女は比較的口が軽いし、聞き出すのは簡単だから。昨日、僕は彼女のせいで眠れなかったんだし、そういった被害をこれ以上受けたくない。きちんと事情を話してくれ。彼女に僕と寝て欲しくないのは、君もきっと同じだろう?」

「それは、そうですが」

 だが是近は迷いを捨てない。

「長官、何を悩んでいるんです? 俺達ってそんなに信用ならないですか?」

 朱利の言葉に是近はじっと床を見つめた。

「私は……瑠璃を……危険な目に遭わせたくないだけなのです」

 やがて是近は朔に懇願するように訴えた。

「この子は、私がいくら言ってもあなたのために危険なところに飛び込んでいく。この間のように。……そうですね。私が言うより、あなたが言い聞かせて下さった方が効果的なのかもしれない」

「……僕のため?」


 瑠璃との約束を覚えていない朔が不思議そうに問う。朔の様子を見て是近が何か言いたげに瑠璃を見やる。触れてほしくないと瑠璃が首を横に振るのを見ると、彼はすぐに口をつぐんだ。

 沈黙が落ちる。やがて珍しく朱利が真面目な顔で言った。


「とにかくさぁ、事情を知らないと何が起きるかわからないじゃないですか? 知っていたら皆で守れる。長官一人より三人で守る方が確実ですよー……そうですよねえ? 揖夜」


 朱利は親しみを込めてそう呼んだ。東宮としての彼に問うのではなく、彼個人に問うつもりなのだ。まず自分を守るなどという提案に瑠璃は驚いて、朔の代わりに否定する。


「な、何馬鹿なこと言ってるの、殿下が護衛なんて」


 しかし朔は眉をぴくりと跳ね上げた後「いいよ、僕も守る」と不敵な笑みを浮かべて頷いた。


(え、な、なんで?)


 ぎょっとする瑠璃の隣で、何が決め手だったのか、是近は弱り切った顔で瑠璃の力について切り出した。




 いつの間にか人が払われた梨壷には、是近の声だけが密やかに響いていた。瑠璃に話したときとは違い、是近は倖姫の力のことだけを手短に語った。


「……つまり、暁には夢で過去や未来を見る能力があるってこと?」

 聞き終えた後、朔が静かに問うた。是近は厳かに頷く。

「おそらくは。そして、その力を補助する人間が司祇ということでしょうか。実は晦冥の司祇については『倖姫が選ぶ』ということと『司祇を得なければ倖姫が力を使えない』ということくらいしか私も知らないのです。いつ生まれたのかも、どこにいるのかもわからない」

「え、司祇を得なければって――つまり、あたしが、力を使えないってわかってたの!?」


 瑠璃が思わず不平を漏らすと、是近は「それがどういう意味なのかわからなかったんだ」とわずかに気まずそうに言った。


「……それで、夢ははっきりと見えた?」


 会話に割り込んだ朱利が問うような目で瑠璃を見て、そして是近をちらりと見る。渋い顔をした是近は無念そうだ。

 視線を一挙に集めて、瑠璃は「多分」と頷く。

 昨晩朔に助けてもらって見た夢は、かなりささやかなものだったけれど、瑠璃はしっかりと覚えていた。守り袋から見えたのは久々の母の顔とまだ若かった父の顔だった。



 おそらくはまだ瑠璃が三つくらいのときだ。べそをかいた幼子に母は厳しく、しかし優しく言い聞かせていた。


『ほら、瑠璃、このくらいで泣いてちゃ駄目。あなたはうんと強くならなければいけないんだから。大事な人を守るためにね』

『つよく? だいじ、ひと?』

 辿々しい言葉で瑠璃が問うと、母は頷く。そして瑠璃の小さな両手を握った。

『そうよ。あなたが守ってあげるの。もしかしたら、すごく難しいことかもしれない。だけど強く強く願えば、きっとあなたの大事な人も力を貸してくれる。二人なら、きっとなんでも乗り越えられる』


 何かを指導するような様子の母を後ろで見ていた父は、呆れ顔で腰に手を当てている。


『おい、あかね。こんなちびに何を言っているんだ。第一、言っていることが逆だ。守るのは、男の役目だろう?』

『いいえ。確かに男には力で敵わないかもしれないわ。でも、力だけでは守れないものがある。女だからこそ守れるものもあるの。それに――瑠璃だからこそ守れるものも』


 私だって妻として、母としてあなたたちを守ってるわよ?――くすくすと笑って髪を撫でる母を、瑠璃はきょとんと見つめていた。



 それはあまりに短く淡い夢だった。だけど、仲睦まじそうな両親に囲まれた自分を遠くから見つめ、瑠璃は泣きそうになりながら起きたのだ。

 あなたにはできると母が励ましてくれている。そして、瑠璃のこの力は彼を守るためにあるのだと母が言っているように思えて仕方なかった。


(母さん。あたしは、朔を守ってあげたいの。だって、きっと彼があたしの〝大事な人〟なんだもの)


「……だから、今度は矢を借りてきたの。上手くいくかもしれないって」

 瑠璃が持ち込んだ矢を皆の中心に置くと、

「矢――って、これ、僕を――君を射たもの?」


 朔がぞっとしたような顔で問う。瑠璃は頷いた。


「持ち主がわからないって言っていたから、右近少将にお借りしたの。もしかしたら持ち主――犯人の顔が見られるかもしれない」

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