九
朔は寝間着である小袖の上に漆黒の袍を羽織る。腰に短刀を収めると、妻戸をそっと開けて簀子縁に出る。見回りに出ていた宿直の是近はこちらを見ておらず、庭に置かれた松明の光で何かを熱心に読んでいた。おそらくは未解決の事件の調書だろう。
朔は彼の目を盗んで簀子縁の下へと潜り込んだ。ほうと安堵の息を吐くと、足音を立てないようにと目的地へ体の向きを変えた。
声がしていたのは梨壷の北の対屋で、瑠璃は今そこで寝込んでいるはずだった。だが、先ほど彼女の声が聞こえたのだ。朱利の声と共に。
瑠璃は女らしく柔らかい口調で話していて、とてもくつろいだ様子だった。最初は新鮮に思いながら声を拾っていた朔だったが、彼女がそんな態度で接するのは朱利だからだと気が付いたとたん、じりじりとした焦躁に苛まれ始めた。そして、
『俺、もう寝るけど暁ちゃんも一緒にどう?』
その声が聞こえたとき、朔は体の血が逆流するかと思った。気が付いたら飛び上がって外に出ようとしていた。
床の冷たさになんとか我を取り戻しはしたが、結局我慢できずに様子を見に行っている。
頭に血が上った朔には瑠璃の返事は聞こえなかった。だから、素直に頷いていたらどうしようといてもたってもいられなかったのだ。
(彼女ならやりかねない)
瑠璃はどうも男女のことに疎い。壇ノ団で朔と一緒に過ごしたときも――それは朔が男だと思われていないだけなのかもしれないけれど――隣に寝ている彼をまったく意識しなかったくらいなのだ。だからこそ朱利のあの言葉は気になる。
(何が優しいお兄ちゃんだよ)
彼が瑠璃の油断を誘って、手込めにしようとしているようにしか思えない。そのやり方は卑怯だと、朔は腹が立つ。
(でも、朱利があんな風に誘ったのは初めてじゃないか?)
今までちょっかいをかけているのは見たことがあったけれど、どれも本気には思えず、からかっているだけにしか見えなかった。だが、先ほどの言葉には朔をひやりとさせるような響きがあったのだ。
本気になったのかも――そんな予感がした。
きっと彼女の女房姿のせいだ。あのせいで、朱利は彼女を女だと意識した。朔は自分もだったから、彼の気持ちがよくわかる。
自分に彼女をどうにかしたいなどという気は多分ないと……朔は思う。彼は女が苦手だし、そういう対象として彼女を見ることに対して罪悪感の方が強いのだ。だからなのか、彼女を他の女と同じように口説いた朱利に対してどうしても怒りが込み上げる。
(彼女は、ずっとあのままでいいのに)
男でも、女でもない、暁のままで。
そう頭で考えるけれど、それは彼の胸にあるものとわずかにずれている気がした。不整合を無理矢理に勘違いだと思い込むと、朔はとにかく縁の下を進む。
夜中に出歩くなど何年ぶりだろう。命を狙われはじめてからは、安全な梨壷内でさえ閉じこもって過ごしていたというのに、今は恐怖心など吹き飛んでいた。
鼠が足音に驚いて逃げ出していく。手のひらに幼い手の感触。自分の物ではない小さな足が瞼の裏に浮かんだ気がした。
(子供の頃、こんなことがあったような……ああ、そうか。縁の下で遊んでいたら母上たちに怒られて、こんな風に二人で逃げたんだった)
〝るう〟を思い出して以来、小さな思い出が蘇っては朔を微笑ませるのだ。
瑠璃に与えた局は北の対屋の南端だった。砂埃で汚れた素足を軽く払うと、
朔は元来た道を戻りかけるが、縁の下から梨壷の
(見つかったら要らぬことで叱られそうだ)
やがて是近はうろつくのをやめる。しかし、彼が止まった場所はあろうことか妻戸の前。
だが季節は冬だ。このままでは風邪を引くだけでは済まないかもしれないと朔は悩んだ。
(北の対屋に空いている局があったはず)
結局再び縁の下を通って隣の建物へと移動した。
むき出しの足の感覚がなくなってきて、朔はひとまず簀子縁に上がる。しかしぐるりと一回りしても格子は全て下げられていて、妻戸も固く閉じていた。内側から開けてもらわなければ、中に入ることはできなそうだ。
(とにかく寒すぎる。火桶が欲しい。それから、衾が欲しいな。それから……)
朔はふいに思い出した。壇の靫負所で瑠璃が腹痛を訴えて寝込んでいたとき、明け方の寒さが堪えて無意識に彼女の隣に潜り込んでいたことを。そして懐かしく暖かな夢を見て、ひどく心地よく目覚めたことも。
思い出すと、寒さが身に染みる気がした。とたん、朔は一つ小さなくしゃみをした。
「だれかいるの」
妻戸が小さく開く。朔は慌てて縁の下に潜ろうとしたけれど、一瞬遅かった。
「――――殿下!?」
屏風と几帳で囲まれた瑠璃の局は思いのほか狭く、しかし暖かかった。肌に張り付いていた冷気が緩むのを感じて、朔はほっと息を吐いた。
「どうされたのです、こんな夜更けに」
瑠璃は朔を褥の上に座らせると燈台に火を入れた。炎がじわりと大きくなり、几帳に映し出された二人の影を艶かしく踊らせる。朔は瑠璃の目を見ることができず、俯いたまま答えた。
「……ちょっと眠れなくて、散歩していた」
「そうなのですか? こんなに寒いのに?」
瑠璃は朔を意識していないのか、小袖姿だということを忘れているのか、薄い衣のまま朔に向かい合っている。普段上衣で隠れている体の線が見えて、目のやり場に困った。
これでも女とばれないと安心しているのだろうか。朔はきょとんとしている瑠璃に忠告する。
「ええと、暁。僕も一応男なんだけど」
「え? ああ、申し訳ありません」
瑠璃は慌てたように朔から上衣を取り上げる。しかし自分でまとおうとはしなかった。
「待っていて下さい。私の狩衣をお持ちしますから」
どうやら彼女は朔が女物を着せられて怒っているとでも勘違いしたらしい。立ち上がり衣を探しに行こうとする瑠璃に朔は大きくため息をつくと言い直す。
「君が寒いだろう、自分で着ておいた方がいい」
「大丈夫です」
(ああ、もう。意味が通じないのか)
疎い彼女に苛立って朔は仕方なく言った。
「体の線がわかる。それだと女にしか見えないよ」
「――――」
瑠璃は瞬く間に固まって、自らを見下ろした。そして胸を慌てたように押さえた。
「――こ、これは詰め物でございます!!」
大嘘を吐く瑠璃の耳はやはり真っ赤だった。往生際の悪い瑠璃に朔は呆れかえった。
「寝るときにわざわざ詰めるの? 何のために?」
(だいたい、それ、詰め物に見えない)
衣を押し出すその胸は、それほど豊かなわけではない。だが確実に瑠璃の性別を朔に教えるものだった。
朔が思わず見入っていると、瑠璃は手にしていた衣を胸に抱き、彼の視線を遮った。そして「見ないでください!」と真っ赤な顔で朔を睨む。
朔が目を逸らさないと、誤摩化せないと悟ったのか、瑠璃は眉尻をくたりと下げた。
「し、知っていらっしゃった?」
「知っているよ、もう。逆にどうしてばれないと思えたんだ」
「だ、だって。上手に変装していたつもりだったし! い、いつ、わかったのです?」
以前触れた時に気が付いたと言おうとしたけれど、どう説明しても誤解されそうなので朔は切り出し方を変えた。
「君、〝朔〟って僕のこと呼んだの、覚えてないわけ?」
「え、うそっ」
瑠璃は口を手で覆う。
「それから、是近が動揺して〝瑠璃〟って呼んでいたのも」
「し、知らない! うそ、父さんたら!」
瑠璃は可笑しいくらいにぼろぼろと真実をこぼしていく。ああ、そういえば、その時にはもう瑠璃は気を失っていたなと朔は思い出しながら続けた。
「僕が諱を教えたのは、家族以外だと是近とその娘だけだよ。君は家族でも是近でもないから……つまり――君が〝るう〟だ」
朔の断定に瑠璃はしぼんだ花のようにへなへなと床に座り込む。
「覚えていたの?」
「すっかり騙された」
潤んだ声を不思議に思いながら朔は頷く。
「ごめんなさい」
「どうして偽ったの。髪まで切って」
「…………靫負所に入りたかったの。そしてゆくゆくは近衛府に配属されたかった」
意外な答えに朔は驚いた。
「どうして近衛府に?」
瑠璃は一瞬目を丸くして、泣きそうな顔をした。朔はその痛々しさに胸を突かれる。
「……それは覚えていないの……ですね」
彼女は朔の質問に答えずに微笑む。その笑顔が寂しげで、朔は必死で頭の中を探ろうとする。
(暁が幼馴染の〝るう〟だった……それ以外に僕はまだ何か忘れている?)
黙り込むと、瑠璃が急にしゃんと背筋を伸ばし、慌てたように彼の思考を遮った。
「いいのです。大したことではないのです。ええと、父の仕事みたいに、国を守れたらいいなって、ずっと憧れていたのです。でも男の人じゃないと武官になれないでしょう? だから」
瑠璃は笑顔ですらすらと言うけれど、どこか苦しげに見えて朔はどうしても焦った。一瞬だけ親しげになった言葉が、元に戻っているのも気になった。
(瑠璃は嘘を吐くとき、言葉が不自然になるけれど……そのせいか?)
どちらかというと朔が覚えていない何かのせいで、彼女が心を閉ざしたような気がして、朔は焦燥に駆られる。
「僕は何を忘れている?」
「忘れたままでいいのです」
瑠璃は念を押すが、朔はそれが拒絶されているようで気に入らない。
「君がそんな風に言うのなら、僕は逆に絶対に思い出したいって思ってしまうけど」
「忘れたままの方が、ありがたいのです。本当に」
瑠璃の泣き笑いの表情を見ていると朔は頭の中で色んな感情が渦巻くのを感じた。怒り、それから――感じたこともないくらいのもどかしさ。
瑠璃は食い入るように見つめる朔から目を逸らす。
「そろそろお部屋に戻らなければ。父が心配します。私がご案内しましょうか」
追い出されそうになっているのを感じて、とっさに朔は拒んだ。
「いや、いい。戻りたくない」
そして状況を思い出して少々焦った。
(こんな夜更けに瑠璃に連れられて戻れば、誤解した是近に殺されそうだ)
朔は追い出されないために話題を提供した。
「さっき話し声が聞こえたんだ。朱利と何か話していただろう? あれ、何?」
「――あ、聞いていらっしゃったのですか」
瑠璃は慌てる。
「塗籠のすぐ裏だったから、聞こえるよ。暁天の倖姫とか晦冥の司祇とか、なんとか言っていたけど」
「……私、結構おもしろい夢を見るのです。でも起きたら内容は忘れてしまって。勿体ないなって常々思っていたのです。そうしたら朱利が蘇比の話をしてくれて――」
朔は盗み聞いていたのでそこはさらりと流した。
「司祇を見つければいいって話だろう。口説き文句にしては凝っている」
「く、口説き文句……?」
瑠璃はぎょっと目を剥いた。
「一緒に夢を見よう……ってことだろう? よくそんな気障な台詞が吐けるもんだよ」
朱利の言っていた『司祇と繋がると』というのは、あからさまに夜を共にするという意味。
そう考えて朔は頭に血が上る。先ほどの瑠璃の己への拒絶を思い浮かべ、もしかしたら、彼女は朱利にはまんざらでもないのかもしれないと思うと余計に頭にきた。しかし朔はその感情には名前を付けられない。初めて知る感情だった。
「司祇は僕かもしれない。晦冥――つまりは
結局は朱利と同じことを言っている自分が情けなくて腹が立つ。
(馬鹿か、僕は。何を張り合っている)
そう言い聞かせてみるものの、腹の中が煮えるようだった。朔は今、自分を抑える術を知らなかった。
「え? 新年とお聞きしていましたが」
瑠璃は素直に話に食いついている。朱利の口車にすぐに乗ってしまいそうなのが目に見え、そういうところがまた彼を不安にさせる。
「年が明ける直前だったと聞いている。晦は沈み行く国を連想させる。だからこそ、不吉さを打ち消すために、それと、これからは明るくなるばかりだという祈りも込めて、名を〝はじまり〟を表す朔とつけたとか……」
それは少し大きくなってから父に聞いた話だ。晦冥という言葉から引っ張り出しただけのこじつけに近い思い出話だった。
朱利が言っていた倖姫とか司祇というのはあくまで朱利が彼女を口説くために出した話に違いない。だから晦がどうこうというのは、今は全く関係がない事柄だ。
わかっていても対抗してしまう自分の必死さがあまりにも滑稽で、朔は冷や汗をかいた。
(一体何を言っているんだ、僕は。これでは瑠璃が変に思う)
自分が自分でないようで、朔はもう彼女の顔を見ることができない。きっと笑われて軽く流される――いや、いっそ冗談にしてしまいたいと思っていたが、
「ええと、では試してもいいでしょうか?」
瑠璃は朔のでたらめな言葉を信じたのか、ひどく深刻な顔で朔の手を握った。細く冷たい指が彼の指に絡まる。朔は息が止まり、首を絞められたような気さえした。
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