八
「うーん……やっぱりだめだわ」
その日の夜のこと。瑠璃は何度となく目を覚ましてはため息をついていた。
今日、瑠璃は自らに課題を与えて床に入ったのだ。それは持ち物を使って夢を見て、情報を探るというもの。使うのは身に付けていた守り袋だ。どうせならばそれを与えてくれた母の姿を見たいと願ったのもある。
だが直前まで夢を見ている感覚はあるのに、目覚めと共にどうしてもそれは頭からすり抜けていくのだ。覚えていようとして覚えてられるものではないのかもしれない。
しかも瑠璃の欲しいのは、内容をかなり詳細に覚えていなければいけない情報だ。これではまるで役に立たない。
「……どうすればいいの」
瑠璃は気分を変えようと褥から起き上がる。そして傷の痛みがさほど強くないのを確認すると局を抜け出した。
夜風は冷えた。ぶるりと震えると瑠璃は袿の前を合わせて濃紺の空を見た。大きく息を吸い、吐くとそれは白い雲となった。
「あれぇ?」
後ろから聞き覚えのある軽い声がかかり、瑠璃はびくりと振り向いた。
「寝てなくていいの? 是近に怒られるよ」
朱利だった。
「あたしがここに居たっていうのは内緒にしていて。眠れないのよ。朱利はなんでここに?」
彼がおやと眉を上げるのを見て、瑠璃は口調が女に戻っていることに気が付いた。慌てて口を抑える。だが、朱利は「今は俺しかいないから、大丈夫」と微笑んだ。
(あ、朱利の前では男だと偽らなくっていいんだ……)
とたんに肩の力が抜けるのがわかる。隠しごとでかなり無理をしていたのだと自覚した。
「さっきまで
朱利は烏帽子から溢れた赤い前髪をかきあげる。いつもの仕草に疲れが見えて、瑠璃は自分の不在で負担が増えていることを申し訳なく思う。三人で回していた仕事を二人で回しているのだ。疲れて当然だった。しかも北の対屋の局は瑠璃が占領しているため、休むためには
「ありがとう。迷惑かけてごめんね」
心からの礼を言うと、朱利は首を横に振る。
「いや? あれは襲撃に気付かなかった俺の落ち度でもあるしね。是近も自分を責めている。だから早く君を安全なところに移したいって考えているんだよ」
「朱利って……意外と優しいのね」
気を遣われた瑠璃は少々驚きつつ、朱利を見上げた。するとすかさず彼はにやりと笑う。
「そうだろ? 惚れちゃった?」
「それさえなければいいのにね」
くすりと笑うと、瑠璃は肩をすくめた。朱利は不本意そうな顔をするものの、すぐにいつもの笑顔に戻る。
「で、暁ちゃんは何を悩んでいるんだ? 優しいお兄ちゃんに教えてごらん」
お兄ちゃんという響きが心地よくて、口がわずかに軽くなる。
(詳しいことを言わなければ、きっと朱利にはわからないわよね?)
「うーん、夢を覚えておく方法ってないのかなって」
「夢?」
「夢って、起きたら忘れちゃうじゃない? まるでその場所にいるかのようにはっきり見ているし、聞こえているのに、起きたとたんになにもかも霧みたいに消えてしまうから勿体ないなって」
朱利は瑠璃の話を全部聞き終わると、なぜか妙に楽しげに笑った後に言った。
「そういう時は〝
「しき?」
「知らない? 蘇比には暁天の倖姫と晦冥の司祇っていう唄があるんだ。……そういえば瑞穂では聞かないし、知らなくてもしょうがないか」
「え? 倖姫? 司祇? って何」
耳慣れない言葉だった。尋ねてばかりの瑠璃にも朱利はいやな顔をせずに教えてくれた。
「倖姫は夢を見る人間。それから司祇は倖姫を補助する人間で、司祇と繋がると倖姫がかなり鮮明に夢を見られるらしい。昔俺のばあさんがよく唄ってくれたんだけど……ええっと、
――東より来る風 凍みを解かば 真赭の木々 花盛りけり
暁天の倖姫 夢紡ぎ 晦冥の司祇 夢織れば 夢うつつとなりにけり
陰陽二つの力かしづけば 今昔 いわんや行く先も思うがまま 繁栄の礎とならむ――
そんなの、聞いたことない?」
朱利は節を付けて唄った。庭に響き渡る声は妙に雅びで、彼が一瞬どこかの貴公子にも思える。そのせいもあったけれど、なにより瑠璃は暁天という響きにどきりとしながら首を振る。暁――誰がその名をつけたのか。それは是近だ。
(まさか、そこからとったの? 父さんはこの唄を知っていた?)
そう考えるのが自然かもしれない。
瑠璃は疑い半分のまま朱利に尋ねる。
「つまり、司祇を見つければ夢を覚えていられるかもしれないってこと? 倖姫とか司祇って、どこにいるの? どうやってそうだとわかるの?」
だが彼は困った顔で首を傾げた。
「さあ? 俺が知ってるのはさっきの唄くらいだからなぁ……」
がっかりする瑠璃の前で、朱利はふわぁと大きなあくびをすると立ち上がる。そして伸びをすると体を震わせた。
「それにしても寒いな。俺、もう寝るけど暁ちゃんも一緒にどう? 俺が暁ちゃんの司祇で、すごくいい夢が見られるかもよ?」
それはまるで彼が女房を口説いている雰囲気と同じで、瑠璃は思わず目を瞠った。
(ま、まさか口説いているの?)
そう感じたとたん朱利に対してわずかだが初めての恐怖を覚える。
先ほどお兄ちゃんと言った彼と印象にずれが生じて、動揺しつつ首を横に振った。すると朱利はそれ以上押さずに、にっと兄のような顔で笑う。そして言い忘れたとばかりに囁き声で付け加えた。
「あ、そうそう、調書を取りに右近少将が来ているでしょ? あれ、気を付けておいてね、女癖悪いってよく聞くから」
「……朱利に言われたら悔しがると思う」
瑠璃がそう言うと、彼は肩をすくめて宿直所に戻っていく。その姿があまりにいつも通りなので、瑠璃はほっとした。
(……なんだ、さっきのはからかっただけね?)
局に戻りながら瑠璃は小さく呟いた。
「晦冥の司祇か……」
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