六
どこからか小さな泣き声が聞こえた。懐かしく幼い声だ。
『いやだよ! 〝るう〟と一緒じゃないと、うちには帰らないよ! ぼくたちは約束したんだ! ずっと一緒だって!』
ああ、泣いている。大事な、大事な幼馴染が木の陰で踞って泣いていた。
朔は母を失い、同時に〈壇〉にやって来る理由までもを失った。今生の別れを嗅ぎ付けた幼子は耐えきれずに涙をこぼし続けている。
瑠璃は堪らない気持ちになって、小さな朔を抱きしめた。そして精一杯心を込めて彼に言った。六歳の瑠璃が言った言葉を、一言一句間違えずに。
『泣かないで。あたし、いつか都に行くわ。今は一緒に行けないけれど、きっと行くから。あたしが守ってあげる。朔が泣かなくてもいいように』
瑠璃の言葉に、朔は花が咲いたかのように笑ったかと思うと姿を変える。
今の十六歳の姿になって、瑠璃に言い聞かせるように囁いた。
『約束だよ。絶対だ――絶対、ずっと一緒だからね』
幼い頃と同じように与えられる朔の言葉が泣きたくなるほど嬉しい。だけど、瑠璃にはわかった。彼の傍にずっといることができるのは、自分ではないと。
今見えているこの場面、これは――子供だから見ることができた儚い夢なのだと。
(あの約束は――守れないかもしれない)
切るような胸の痛みに、ふと意識が浮かび上がった。とたんにいつものように夢は消えてしまっていて、愁いだけが残る。瑠璃は瞼を押し上げると、目をぐるりと動かした。体が鉛のように重く、首を動かすのも億劫だったのだ。
しかしすぅすぅという寝息に気分が変わった。音の聞こえる方向へ目線を動かし、直後背から発した激痛に小さく呻いた。
「つっ――――」
「あ――大丈夫……!?」
跳ねるようにして褥から頭を上げるのは朔だった。
「朱利! 是近を、それから侍医を呼んできてくれ! 暁が目を覚ました!」
瑠璃には、どうして朔が枕元でうたた寝をしていたのかわからない。
(な、なんで、朔が?)
「起きなくていい。っていうか、絶対起きたら駄目だ、傷が開く」
彼はそう言うと、瑠璃の枕元に手をつき、上に覆い被さった。
「で、殿下――?」
朔の形の良いひんやりとした額が瑠璃の額に密着し、睫毛が触れるほど近くに漆黒の瞳が寄る。
「ああ、熱は少し下がったかも」
鼻先が触れている。温かい息が唇にかかる。それでも朔は瑠璃からなかなか離れない。至近距離でじっと目を覗き込まれ、瑠璃は次第に熱ではないもので頭が煮立ってきた。それでも目を離せないのは、その瞳があまりに美しかったからだ。
(あぁ、……なんて綺麗。星空みたい)
瑠璃がぼうっと朔の目に見とれていると、後ろから是近の地を這うような声が響いた。
「何をしていらっしゃるのですか」
瑠璃には声色で是近が怒っているのがすぐにわかり、そして怒りが朔に向いているのを感じ取り、どうしたのだろうとハラハラする。
「熱をみていただけだ」
朔は慌てた様子で、瑠璃から離れて後ろを振り返った。
「怪我人に手を出すのはさすがにどうかと思いますけどー?」
是近の後ろに立っていた朱利が窺うように朔と瑠璃を交互に見る。責めるような響きがあり、朔の頬が赤くなるのが見て取れた。
「ち、違うって! そんなんじゃない」
「あやしいなぁ」
挑発するような朱利に、朔は気分を害した様子で睨む。そして是近はいつの間にか二人から瑠璃を庇うように褥の前に仁王立ちになっていた。
一気に部屋の中の空気が張りつめ、瑠璃は息苦しさを感じた。だがそのとき、侍医が呆れたように割入った。
「怪我人のいるところで揉めごとは困りますぞ。外でお願いいたします。とにかく、暁殿。傷を診てもよろしいかな」
妻戸より簀子縁に出ると、是近が不機嫌極まりない顔をして朔に訴えた。
「気まぐれでああいったことをされるのであれば、看病はお任せできません」
「だから、本当に熱をみていただけだって」
朔は是近の目を見ずに答える。
「手のひらで計れるものをどうして額で計る必要がございますか」
「とっさで気付かなかったんだよ」
「そんな訳はございません。――とにかく、元々看病は殿下のようなご身分の方がされることではござません。厚着をしていたおかげで傷も命には関わりませんし、ご心配はご無用。次からは下々のものにお任せくださいませ」
まったく納得しない是近はまだ目を吊り上げている。彼の目は凶悪な光をたたえ、誤摩化されないぞと訴えてくる。
(ああ、萩野よりうるさいかもしれない、これは)
昔母がしてくれたように熱をみただけだったのは本当だ。だが、近づいたら瑠璃の翡翠みたいな瞳があまりに綺麗で思いのほか離れ難かった。
そんな胸の内を是近に見透かされているような気がして、朔は落ち着かない気持ちになる。
朔が〝瑠璃〟の看病を申し出たのは、もちろん彼女が心配だったのもあるけれど、朔がやらなければ朱利に役目が行ってしまうのを知ったからだ。
是近は帯刀の頭として事件の調査で駆り出されたため、看病をするのは残る朱利になってしまう。彼もその気だったし、となると、人気のない局に瑠璃と二人きりということになってしまうのだ。
今回朔はどうしても瑠璃の看病をしたかった。
彼女が傷ついたのは自分のせいだったし、責任を感じるからと言っても聞き入れられず、結局はその方が警護しながら看病もできるだろうと屁理屈まで捏ねた。
物事に執着しない朔が珍しく意地になった理由は、暁が幼い頃に共に遊んだ〝るう〟だと感づいたからだ。
まだ彼女に直接は問うていないが、彼女が回復し次第、折りをみて尋ねてみようと思っている。すぐにばれてしまう嘘で否定するかもしれないが。
必死で慣れない嘘を吐く彼女を思い浮かべて思わず頬が緩むと、是近が再び目を吊り上げたので、朔は慌てて表情を引き締め真面目な顔をする。
(看病する別の理由を見つけないと駄目だろうな)
新嘗祭での暗殺未遂事件調査のために手が足りないのは本当で、渋々是近は朔の願いを受け入れたが……信用は先ほどのことで一気に地に落ちてしまったらしい。
(信じられないくらい守りが堅いな……)
朔は是近の態度に呆れ返る。
暁の本当の名も、性別も、そして誰の娘かも朔に知れたと気が付いたのだろう。是近はその分堂々と朔を排除にかかっている。今まで娘を差し出されるばかりで、こんな風に隠されることはなかったので新鮮ではあった。だが、東宮に対して害虫を見るような目を向けるのはどうかと思う。
もしかしたら朱利よりも風当たりが強いかもしれない。理由は――彼女の身分と自分の立場を考えると何となくわかる気はした。
「とにかく、暁は怪我が治り次第、〈壇〉に帰します」
「――え!?」
突然の宣言に朔は目を剥いた。
是近は朔に半眼を向けると畳みかけるように言う。
「手負いの者が殿下のお役に立つとは思えないので。もともと殿下のお立場が安定されるまでの臨時のお役目ですから、すぐにお許しをいただけるでしょう。傷が癒え、完全に復帰した頃にはもうご周囲も落ち着かれていらっしゃるでしょうし。お荷物は要りません」
是近が瑠璃を引き離そうとしているのを感じて朔は焦る。
しかしそれも当然だと思った。お荷物などと厳しい顔を見せているのも建前だろう。父としては娘がこれ以上傷つくのなど見たくないに決まっているし、朔だって瑠璃があんな風に倒れるのなど二度と見たくはないと思う。
それでも――離れ難い。朔は心の隅に芽生えた仄かな気持ちに気が付いていた。
だが、彼女がここにいるのは帯刀だからだ。役職を除されれば、彼女はここから去るしかない。それ以外の理由を彼女に与えることはできるが……本当にそれでいいのか、それが彼女の為になるのかどうか、今の朔にはわからなかった。
「おわかりいただけますね?」
迫力に圧されて朔は頷く。今は頷くしかなかった。
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