五
豊明節会、当日。空は澄み渡り、雲一つない絶好の天気に恵まれた。
舞台の周囲を護衛の衛士達がひっきりなしに行き来している。背に矢を背負い、腰に刀を佩いているものの、美しい狩衣のおかげか、雅な席にも浮かずに済んでいた。
前回、朔が宴の最中に倒れたということもあり、当然振る舞われる食事には皆ぴりぴりと気を張っていた。だが毒味が済むと、皆の肩の力が抜けたように思えた。その後は何度も行われた予行演習通りに事が進む。瑠璃はそれらに少々飽きていたし、鬱屈もしていた。
初めは物珍しく思えた、美しくしかし重たい衣装にも。そして、朔の視線の先にいる華やかな舞姫達にも。
瑠璃は舞姫達を最初に見たその日、真面目な顔で是近に問うた。
「〝そいぶし〟ってなんですか?」
是近は飲んでいた茶に咽せて声を失い、隣にいた朱利が「ようやく寝た子が起きたか!?」となぜか大喜びで瑠璃の手を取り、何かを教えようとしたが、是近が慌てて彼を引きずってどこかへ逃亡した。
教えてくれるまでは! と是近を追い回す瑠璃を見かねたのか、萩野が「最初に夫婦として夜を共にする娘のことです」と教えてくれた。
夫婦としてという言葉に瑠璃は瞠目した。そんな話は初耳だったのだ。
「殿下はご結婚されるのですか?」
「添臥は御元服の儀式の一部でございます。本当は二年前、殿下が十四の御歳に行う予定でしたが、殿下のお加減が優れず、未だ延期になっております」
朔が未だに童の姿をしている理由に納得しながら、瑠璃は続けて問う。
「今日の舞姫の中からお選びに?」
「候補の一部でございます。ご縁談は山ほどございます。東宮であらせられますから」
「そ、そうなのですか」
萩野が何を今さらと不可解そうに首を傾げ、瑠璃は礼を言うと話題を打ち切った。
(つまり、あの人達全員が朔のお妃になるかもしれないってことよね)
考えまいとするけれど、どうしてもそのことは頭の中から追い出せないでいた。
確かに今上にも多く妻がいることは知っている。殿舎というのは帝の妃に与えられるらしいし、となると相当な数の妻がいることになる。そして朔が即位した際には、それらの殿舎に住むのは朔の妃達となるのだ。
「はぁ……」
萩野の話から受けた衝撃を思い出してため息をつくと、朔がこちらを振り向いた。
今日の朔は珍しく正装をしていた。といっても元服前なので冠もなく、童直衣という出で立ちではある。袍は濃紫、指貫は濃紺と落ち着いていて、普段より凛々しく見えた。
そして、これまでは動きやすいようにと袿の数を減らしていた瑠璃も同じく五つ衣の正装だ。瑠璃の髪の色に合わせた淡黄と淡青を順に重ねた袿の上に、瞳の色が映えるようにと萌黄の表着が用意され、さらに紗のかかった緑の
萩野を始め女房達も朱利も誉めてくれたが、是近だけがひどく心配そうな顔をしていた。瑠璃の性別に関する懸念なのかもしれないが、もしばれたとしても帝からの直接の願いを今更放り出せないし、この行事を乗切らないと朔の将来がないことは是近にもわかっているのだろう。
「緊張している? それとも挨拶ばかりで疲れた?」
庇に設えた御座に腰を据えた朔が尋ねる。
彼は先ほど、帝、中宮紫苑、檜葉の宮と挨拶を交わし、瑠璃はそれに付き添った。
今日初めて中宮と妹宮に対面したのだけれども、御簾の中の中宮はしっとりとした艶やかな声、檜葉の宮は幼く可愛らしい声をしていた。
特に檜葉の宮の華やいだ声からは兄を慕っている事が伝わって来て、微笑ましく思ったものだ。御簾越しで顔を見る事はできなかったけれども、きっと朔に似た可愛らしい姫君なのだろう――取り巻く雰囲気だけで可憐さが匂ってくるようだった。
思い出して微笑みかけた瑠璃は、朔の曇り顔に気が付く。宴が始まったばかりだというのに彼の横顔にはすでに一日の終わりのような疲れが現れている気がした。
張りつめているのだろうか。余計な気を回させるわけにいかず、瑠璃はしゃんと背筋を伸ばした。
「いえ。そんなことはございません。ご安心下さい。お役目は必ず果たして見せます」
表情を引き締め瑠璃が言うと、朔は安心させるように小さく笑った。
「大丈夫。御簾の前には是近と朱利がいる。暁の出番はきっとない」
瑠璃のために作ってくれた笑顔はひどく儚く美しい。この笑みを壊したくない――そんな事を考えながら、彼のために微笑む。
「私は、殿下の後ろをお任せしていただいていますから。いざとなれば盾にもなれますし、どうかご安心を」
しかし、朔は真面目な顔になった。
「暁、もし何かあった時は――」
朔が言いかけた時だった。大きく太鼓の音が鳴り響き、笙の音が高い空に向かって走り出す。それを合図に御簾が巻き上げられると、桟敷では舞姫達が華麗に舞を始めた。
今日の衣装は全員が揃いの紅の表着、紅から白に徐々に色を変化させる五枚重ねの袿。彼女達は白い花で作られた飾りで長い髪を飾っている。空から降り注ぐ陽光は彼女達に光の衣装をまとわせる。幻想的な美しさは人々の心をさらっていく。
「まるで紅梅が人の姿に化けたかのようですね……」
誰かが呟く。瑠璃も朔も例外なくその華やかさに目を奪われ、会話はそれきり途切れた。
舞の開始と同時に宴も始まったようだった。
釆女が端から続々と現れると、殿上人たちに侍り、甘酒を振る舞い始める。
今日は珍しい玻璃の器が使われていて、それがあちらこちらで光を受けてきらきらと輝いた。
瑠璃が差し入れられた甘酒を朔に差し出すと、彼は目を細めながら、これまた金銀玉で彩られた見事な細工の美しい杯を煽った。
杯には燈台の火がちらちらと反射して豪奢だ。だが、それを持つ人には敵うまいと瑠璃は思わず見惚れる。
「甘酒はあまり好きじゃないけれど、今日は寒いから温まっていいね」
多少くつろいだ様子の朔にほっとして、瑠璃は頷こうとしたが、そのとき何か違和を感じた。外で何かが瞬いた気がしたのだ。朔の持った杯かと思ったけれども、それよりも鋭い光に思えた。
(光? 玻璃の器かしら?)
おかしいと瑠璃は違和感を探し、辺りを見回し――そして目を見張った。
「どうした? 暁」
朔の顔の向こう――桟敷に置かれた屏風の裏側から聳える木の上に、瑠璃は黒い人影を見た。ギリと弓を引き絞る音に朔の耳がそばだった。
そして、カンという弦の弾かれる高い音を聞き、放たれた矢の先でぎらりと光る鏃を見た。慌てて懐剣に手をやるが、凄まじい速さで矢は迫る。
(――間に合わないっ!)
朔が音のした方向を振り向く。瑠璃はとっさに朔に覆い被さった。
「――――朔!! 危ないっ――!!」
矢が風を切る音。直後瑠璃は背に焼けるような激痛を感じた。
「――あ…………」
声が弱り、息ができなくなる。それでも瑠璃は手を伸ばして指差す。霞む視界の中、木の上からは人影は既に消えていた。瑠璃は自分の見た物を伝えなければと必死だった。
(今すぐ、あの、橘の木を、調べないと)
「さ、く……――」
だが、口を開いた直後に目の裏が真っ赤に燃え、瑠璃はあまりの熱さに気を失った。
「あかつき? 今、なんて――――あ」
押し倒される形となって呆然としていた朔は、瑠璃の背に手を回すと顔を青くした。
背に矢が突き刺さっている。そして周辺に生暖かく濡れた感触。手を見ると、それはぬめぬめとした赤に染まっていた。
「暁!」
朔が叫ぶと、周囲で怒号と悲鳴が上がる。異常に気が付いた女房達がバタバタと格子を下げ始め、随身達が朔を取り囲んで殿舎の奥へと隔離しようとする。だが、朔は暁を気にしてその場に留まり叫んだ。
「すぐに侍医を! 女房が矢傷を受けた!」
朱利が飛び込んでくる。言葉を失った是近が真っ青な顔で朱利を押しのけ、暁を抱き上げた。しかし、彼が呼んだのは全く別の名だった。
「瑠璃、しっかりしろ! 目を開けろ!」
「強く抱いちゃ駄目だ。傷が広がる。長官、傷は浅いから落ち着いて。今は俺に運ばせてくれ」
朱利が半狂乱の是近の腕の中から暁を奪おうとするけれど、彼は抵抗する。
「――この子に触れるな!」
是近は掠れた声で叫ぶと、暁を抱きかかえたまま渡殿を駆けていく。まるでそのまま宮を出るのではないかという勢いで。
朔は退出する是近と暁を呆然と見つめた。そして初めて気が付く。彼の髪と瞳は、暁のものとまるで同じ色だと。
「娘、なのか」
(是近の娘? そして――〝るり〟それから……〝僕の名〟)
瞼の裏に唐突に広がる景色があり、朔はそれと同時に春の匂いを嗅いだ気がした。
雪解けの〈壇〉。若葉萌える木々、芽吹く野の花。黄色い花で編まれた小さな花冠を頭に乗せ、金色の長い髪を靡かせて踊る幼い少女。
まるで日の光をまとっているように見えて眩しかった。宮にはない澄み切った光を放つ、綺麗な、綺麗な――朔の大好きだった真昼のような少女。
(ああ)
闇に押しつぶされていた記憶が急激に鮮やかな色を放ちだす。そして、全てが結びつき、混沌がすべて晴れた後に残ったのは一つの名。
「る、う?」
消えかけていたその名が胸にすとんと落ちたとたん、ずっと思い出せなかった面影が暁の顔と重なった。
「あかつき、まさか……君は〝るう〟なのか」
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