その日の梨壷には珍しく来客があった。宮で一番高貴な男性――帝は御簾の奥で朔と話し合っている。簀子縁で待機する瑠璃には詳しい話は聞こえないが「宴」という言葉をなんとか拾う。神無月となり、季節はもう冬に入った。ならば初雪でも愛でるのかもしれないと宮中知識のない瑠璃は思う。

 ちらと視線をやると、帝の護衛である随身達がこちらを見ている。

 帯刀としての任務は大分板に付いたものの、他の衛士達と比べられると確実に迫力負けしていた。是近や朱利はもちろんそんなことは全くないのだけれど、瑠璃だけは異色の目で見られることが多かった。


(あれが帯刀? 嘘だろ。あの細腕で剣を振るえるわけない)

(もしかしたら東宮の愛玩用おもちゃか?)


 被害妄想かもしれないが、口元を読むとそんな会話が聞こえそうだった。そんな噂を聞いたことがあったから余計にだ。

 無遠慮な視線を送ってくる随身達を瑠璃が睨みつけていると、御簾の中の二つの影の大きな方が動き、外へ現れた。

 そして彼はなぜか庇を素通りして瑠璃の方へと直進し、慌てた様子の是近が遮った。


「部下が何か粗相をいたしましたか」

「いや、話には聞いていたが……随分可愛らしい帯刀だと思ってな。少し二人きりで話をさせてくれないか」


 帝はそうして随身を遠巻きに下がらせ、瑠璃を南庭へと誘い出した。瑠璃は慌てふためきながらも庭へと降りて行った。


 昨日降った雨のおかげで、中庭に植えられた梨の木は光の玉に輝いている。敷かれた玉砂利も美しく洗われてまるで玉のようだった。

 その上に佇むのは壮年の今上帝――由良ノ帝の堂々とした姿。白の御引直衣おひきのうしに赤い袴は帝の平常着なのだそうだが、もし他の者が身に付けたとしても彼ほどには似合わないだろうと瑠璃は思った。


(朔ももう少し歳を取ったら、こんな感じになるのかしら)


 少し前までは可憐な姫君と言って良いくらいの彼だったが、毎日続けている武芸のおかげもあって、体つきがしっかりしてきたように思える。是近や朱利とまではいかないかもしれないが、だんだん男らしくなる彼が瑠璃はこのところ少々眩しかった。

 今は淡い浅葱や藤色の袍が似合うような朔だが、もう少ししたら藍色や葡萄えび染めのような大人っぽい色も似合うようになる。大人になった朔を想像してぽうっとなっていた瑠璃に「本題に入っても良いだろうか」とくすくすと楽しげな声がかかる。


「あ、は、はいっ」

 瑠璃は慌てて姿勢を正す。


「話というのは新嘗祭にいなめさいに併せて行われる宴のことなのだ」

「にいなめさい、ですか?」


 聞き慣れない言葉に固まる瑠璃に、帝はくすりと温かな笑みをこぼした。


「新嘗祭というのは、稲の収穫を祝う神事で、簡単に言うと地方でも行われる収穫祭のようなものだ。姫たちが舞を披露し、余が今年取れた新穀を瑞穂の大日の大御神にたてまつり、食する。そして臣下にも振る舞うための大宴会を行う。それが問題となる宴――豊明節会とよあかりのせちえだ」


 丁寧な解説をしてくれる帝に瑠璃は畏まるが、彼は柔らかい笑顔で話を続けた。


「この間の事件もあるから、今回は慎重にことを運びたい。今までは病だ、物忌みだと言って断ってきたが、あまり公務をさぼっているようであれば、檜葉の宮側に一気に勢力が傾いてしまう。しかも新嘗祭は宮中でも一番と言えるほどの大きな行事だ。今回ばかりは逃げられぬ。かといって、宴に無骨な帯刀をぞろぞろ侍らせるのは興ざめだ。臆病者だと笑われるだろう。だが、女房ならばと思ってな。ただし本物の女房では何かあった時に対応できまい」

「――つまり私に女房と偽れとおっしゃるのですか?」

「帯刀三人のうちで女房となれるのはそなただけだ」


 是近と朱利が女装をしている姿を思い浮かべて胸が悪くなりながらも、瑠璃は即答した。


「やります。やらせて下さい」


 帝は少し心配そうに瑠璃をじっと見やる。


「殿上人の中には目の利くものが多い。目を付けられては後々厄介なことになるかもしれない。私はこれ以上是近の恨みは買いたくないが、それでも息子を守るためのいい案を他に思いつかない」


 父の名を気にして再び顔を上げたとたん、ざっと風が吹いた。頬に冷たいものを感じて目を開けると白く柔らかい欠片が空から雪が降りてきていた。


「あの子の一番近くで守ってやってくれ」


 雪に見とれて気が付いた時には既に帝の姿はなく、声だけが風に乗って瑠璃の耳に届いていた。




 梨壷に戻ってその話をしたときの朔、是近、朱利の顔は三者三様だった。

 朔はどこか心配そうな顔で瑠璃を見つめ、是近は憤怒で顔中を赤くし、そして朱利は今にも笑い出しそうな顔をしていた。


「暁ちゃんが女房に女装? なんだか複雑なことになってるねぇ。ぶくく……あっはっは!」


 とうとう笑い出しながら朱利が言い、瑠璃はきっと彼を睨んで牽制する。


「俺は許さんぞ。女房だと!? まさかあの方最初から目を付けて――!? それか、菖蒲様と共謀して俺を陥れようとしていらっしゃるのか……!?」


 是近は顔を真っ赤にして怒っていたかと思うと床を叩いて悔しがる。普段冷静な父とは思えない。言っていることも奇妙奇天烈だった。


「大丈夫なの? 体格は何とかなるかもしれないけど……うん、なんだか他に色々問題はありそうだし……第一髪はどうするんだ?」


 大騒ぎの中、朔が一人冷静に尋ねる。


「なぜか知らないのですが、丁度いい髢があったそうです。菖蒲様が届けて下さっていたらしくて」


 瑠璃は先ほど早速届けられた包みを指差す。


「菖蒲様……! やっぱり俺を出し抜く機会を窺っておられたな!」


 是近が大声で叫んで、瑠璃は思わず耳に手で蓋をした。


「ちょーかん、嵌められていますよ、絶対。暁ちゃん、可愛いですし、気に入ったらそうそう手放そうなんて思わないですって」


 朱利が茶々を入れると、是近は泣き出しそうな声で「絶対許さんぞ!」と叫んで、どこかへ駆け出した。方向が西なのでどうやら帝のおられる清涼殿らしいが、是近の身分では殿上できない。きっと門前払いになるだろう。


「大丈夫ですってー、俺が守ってあげますってばー」


 朱利がそう言いながら後を追っていくと「おまえが一番信用ならん」と是近が振り向きざまにすかさず衝いた。

 騒がしい二人が帯刀の役目を放棄して梨壷が静かになると――もちろん周囲に萩野や随身は残っているが――朔が不安そうに瑠璃を見つめた。


「一番近くにいるってことは、その分暁の危険が増すってことなんだ。それでもいいわけ?」

「帯刀の任を頂いた時に、既に覚悟はできております」


 瑠璃が微笑むと、朔は訝しげに顔をしかめた。


「どうして僕のために命を張れる? 僕は自分にそんな価値があるとはとても思えない」


 彼はかつての自信も誇りも失ってしまっている。胸の内の幼い皇子の姿は今にも消えそうで、瑠璃は面影を必死でつなぎ止めようとする。


(あなたが覚えていなくても……あたしは、絶対に忘れないわ)


 瑠璃はそっと立ち上がると簀子縁に降りる。そしてぐっと伸びをして、大きく深呼吸をした。

 どうか少しでも彼の心を温めることができますように――そう願いながら瑠璃は朔に背を向けたまま、一気に言った。


「私は、殿下が作られる国を見たいと思っています。きっとおひさまが輝くきらきらした国になる――あなたにはそれだけの力がきっとあるって、私はずっと信じているのです」

「暁、君――」


 怪訝そうな声が後ろから聞こえたが瑠璃は振り向けない。頬が雪を溶かすほどに熱くて、目頭も涙で溶けそうで、激励以外の感情が滲み出ているように思えて仕方がなかったのだ。

 瑠璃は振り向く替わりに言った。


「ほら、初雪ですよ、殿下。……綺麗ですねぇ」

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