第三章 初めて知る感情

 朔達――壇の宮一行が伊吹ノ宮に到着したのはそれから五日後のことだった。

 朔の住む梨壷の殿舎には様々な職を持つ官吏が勤めていたが、大半の人物は朔が傍に近づけさせない。

 朔が自らの世話をするのを許すのは、唯一年老いた女房の萩野はぎのだけで、彼女は彼の母親である女御葵が入内した時から宮にいる古参の者だった。

 萩野は常にしかめつらで、口うるさい。愛想の欠片もないが、朔にはそれがありがたい。

 朱利は別の若く麗しい女房もいるのにと不思議がるが、朔は「寝首をかかれては敵わないから」と短く返した。


「まぁ、確かに閨じゃ無防備極まりないもんなあ」


 朱利は納得したようだったが、隣にいた暁はきょとんとしている。話の内容がよく理解できないようだった。

 暁と是近と朱利は、日中ずっと朔の周囲を警護し、夜間は北の対屋の一画に与えた局で交代で休むこととなっていた。

 朱利は任官と同時に宮中の女性達の間で噂の人となった。何しろあの美丈夫なのだ。朔も最初彼の体格を羨ましく思ったから、女性達の気持ちはわからないでもない。

 来るもの拒まず、そして来ないものまでも追う朱利の周りは常に色恋沙汰で賑わっている。今も帯刀長たちはきのおさの是近が別件で任を離れているという絶好の機会を見逃さずに、女房に声をかけている。だが、彼の問題行動も今のところは大きな騒動には発展していない。

 それは、暁が彼が騒ぎを起こす前に全て芽を潰してしまっているからだった。


「ちょっと朱利! さっきまたさぼっていただろう! 見ていないと思ったら大間違いだからね!」


 暁はまるで子犬のように朱利につきまとい、本人曰く彼の餌食になりそうな女性を救って回っているらしい――のだが、朱利は暁が止めに来るとひどく嬉しそうな顔をする。

 周りから見ていれば、もしかしてそれを狙っているのではないかと穿てるくらいに。


「妬くなってば」

「妬いてない!! 誤解を招くようなことを言うなよ!」


 だが、朱利はまったく堪えていない。


「相手して欲しいんなら、二年後くらいに相手してやるからさあ。暁ちゃんはきっと美人になるし、唾つけておくのも悪くないよなーとは思っているんだ」

「じょ、冗談! 僕にはそんな趣味はない! ――わぁ、本当に唾つけるな!」


 庭先で駆けずり回っている帯刀二人を見て、書類に目を通していた朔は一人ため息をついた。これは父帝から賜っている仕事の一つで、地方から上がってくる嘆願書や請願書、申請書の一部に決済を出すのだ。中央以外のことも知る必要があると数年前から課されたものであった。

 現在手元には地方靫負所の入所申請書が山となっていて、朔は不備がないかだけ調べると、どんどん決済印を押していく。


「こらぁ! 仕事しろ!」


 庭に響く暁の怒鳴り声や、大げさに逃げる朱利のおどけた声は止まない。


(平和だな……)


 常に帯刀の誰かが朔の傍にいて、周囲を牽制した。それだけでなく是近は時間を見つけては朔を鍛え、身の守り方を教えてくれたし、朱利は面倒くさがりながらも剣術の練習相手をしてくれた。また暁は毒を恐れて食が細くなっていた朔を気にして、自ら食事を作り毒味をするようになった。暁が作るものは素朴だが温かく美味しかった。

 彼らはあらゆる方法で心の安寧を朔にくれようとしていた。おかげで宮にいるとは思えないほどくつろげて体の調子もいい。まるで靫負所での生活がここに引っ越してきたようだった。

 そんなことを思いながら見ていると、萩野が「あの二人は子犬と親犬がじゃれているようでございますね」とのんびり言い、朔は頷いた。


「騒がしくて敵わないよ」


 朔はあっさり言ったが、長年朔の面倒を見続けてきた萩野は言葉通りにはとらなかった。


「その割に羨ましそうでございますね。混ざって遊んでこられればよろしいのに。御元服なさるとそうはいきませんよ。なさりたいことは今のうちにしておかれるべきでは」


 頬に朱が混じるのを感じると同時に朔は立ち上がった。


「――弓を引いてくる」


 弓を持ち簀子縁に出ると、すかさず子犬の方が声を上げた。


「あ、弓のお稽古ですか? 御供いたします!」



 朔は女が苦手だった。――特に裳着もぎをすませ成人を迎えた若い女達が。

 暗く重い色の長い髪。眉毛のない顔に、笑えば崩れ落ちる濃い化粧。鼻を刺すような香の匂い。それからまとわりつくような甘ったるい視線が彼は気持ち悪くて仕方がなかった。どんなに美人だと言われても朔にはわからなかった。真に美しかった母、葵は別だとして、宮の特殊な美意識はとても受け入れられるものではなかった。

 それらの苦手意識が決定的な嫌悪に変わったのは、彼が十四歳ときのこと。誰が仕組んだのか、誘い込まれた局に夜伽がいたのだ。

 いずれ世継ぎを作らねばならないことは理解していたし、最初はこんなものかと思って誘いに乗ろうとした。しかし、手ほどきしようとした者の顔を見て、朔はこの世の中の何もかもが信じられなくなった。

 その者の名は誰にも告げていない。恐ろしくて告げられなかった。なぜなら――


「殿下。矢がこぼれております」


 朔はその声にはっとして打ち起こしていた弓を下ろす。足元を見ると矢が落ちていた。過去に入り込み過ぎて、落ちた音にも気が付かなかったらしい。


「集中されないとお怪我に繋がります。どうかなさいましたか」


 朔は目の前の化粧もせず、痛々しい香りもしない、短く明るい髪をした目映いを見つめた。


(女、か)


 はじめて疑ったのは、あの夜だ。暁が寝込んでしまった時のこと。彼は暁の背をさすったが、どう考えても男のものではなかった。童だからだと言われても納得いかない。触れた場所は驚くほどに柔らかかったのだ。

 あれから朔は暁をじっくり観察することが増えた。今このときもそうだ。潤んだ大きな瞳に長い睫毛、白桃のような肌や桜桃のような唇も、女にしか見えない。だが……


(この短い髪は、有り得ないんだよな……)


 耳の横で角髪を結うという童男の髪型は、朔の方がやや華やかであるものの、色違いと言ってもいい。

 瑞穂では民の髪は長い。男も髻を結わえるほどに長いが、女はさらに長いのだ。背の中ほど――男の長さとなるとそれは世俗を捨てた尼か罪人くらいしかいない。

 そして本人は自分が男だと言い張っている。朔にはいくら考えても男と偽っている理由がわからなかったが『女なのだろう?』と無理矢理追及する理由も持っていなかった。


(朱利は知っているのだろうか)


 なんだかひどい胸騒ぎを感じる。以前彼が言った言葉が引っかかっているのだ。


『蘇比ならまだ結婚できるから大丈夫』


(あれはどういう意味だ? 自分が娶ろうと言うのか?)


 朱利が故郷に暁を連れて帰る――そう考えると、胸の奥に潜む何かが朔に『取り返しがつかないよ』と警告を発するのだ。


(ああ、なんなんだ、これは)


 頭を振ると元の黒色に戻した髪が視界を遮る。隙間から漏れ出る柔らかい色に触発されるものがあり、顔を上げる。けれど少年姿の暁を見たとたん、それはあっけなく散った。


「殿下?」


 暁が怪訝そうに矢を渡し、朔は無言で受け取った。弦に番えると再び弓を打ち起こして引き分ける。きりきりと弦が高い音を立てる。放つ前に既に当たるか外れるかはわかっていた。重心が歪み心乱れたまま――これでは中たらない。

 朔の予想通りに矢は的の枠を掠め土に突き刺さり、乾いた厭な音を立てた。

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