六
是近の行動は妙に素早かった。その日の夕方には、瑠璃と朔は荷物をまとめさせられていて、壇ノ団を出ていくことになっていた。長官の部屋に呼ばれた瑠璃が理由を尋ねると「ああいうことをやらかすのなら、もうここに置いておく訳にいかない」と言われた。つまりは団の規律が乱れる原因になるからということらしい。
そもそもあの是近の叫び声がなければ、暁と揖夜が一緒の褥で眠っていたなどということは広まらなかったというのに、そして、それなら俺もお相手願いたいと何人かの男が名乗りを上げる――しかしその相手は瑠璃ではなく朔であるが――こともなかったというのに、その辺の責任は完全に棚上げしている。
「で、どこに行くんですかー?」
馬小屋で出発の準備を整える中、なぜか一緒に出ていくことになった朱利が是近に尋ねた。
「……伊吹ノ宮だ」
是近の答えに朱利がひゅっと口笛を鳴らす。
「また、どうして」
瑠璃が尋ねると、是近は袂から料紙を取り出した。
「今朝報告が届いた。宮で東宮暗殺を企てた犯人が捕らえられたそうだ。それを伝えに言ったらあの騒ぎで……まぁ、ここを出るにはちょうどいい理由にはなったが」
「え!?」
げんなりした顔の是近だったが、瑠璃はまさかという気分だった。てっきり父の個人的な感情で動いているものかと思っていたのだ。
朔の顔も強ばっている。彼は震える声で尋ねた。
「誰」
「主犯は
朔がふるりと首を振る。
「まさか。〈槙〉は〈壇〉の支援者だ」
「そういえば、菖蒲様が〈槙〉が南部に付いたとおっしゃっていた――」
瑠璃が思わず漏らすと、朔が鋭く衝いた。
「菖蒲叔母上? 暁は叔母上とも面識があるのか?」
怪訝そうな声に瑠璃は失言に気が付き、言葉を飲み込んだ。一気に耳が熱くなるのがわかる。
「って、ちょ、長官がおっしゃってたなぁって、思っただけです!」
ぺらぺらと嘘を付け加えてみるものの、朔の疑いを孕んだ眼はどんどん冷ややかさを増していく。
「とにかく〈槙〉が〈壇〉との連携から手を引くかもしれないという話は確かに菖蒲様から聞いていた。そしてその線から槙野政孝の名前が挙がった」
是近が膠着を打ち切る。朔は胡散臭そうに瑠璃を見つめたままだったが、その言葉でようやく話を本筋に戻した。
「しかし、あまりにそれは短絡的じゃないか。第一僕は彼とは会ってもいない」
「酒を運んだ女房が口を割ったんだ。証拠もある。槙野政孝の邸から暗殺に用いられたと思われる毒が見つかった。揖夜は匂いが特徴的だったことを覚えているか?」
是近が問うと、朔は頷いた。
「ああ、飲んだ酒がなんだか苦くて、臭かった。だからほとんど飲めなかったんだ」
「残った酒と比べてみたところ、同一のものだろうとほぼ同定された。南方でとれる煙草を煮詰めたもので、数滴で死に至る」
「じゃあ、つまりはもう宮は安全ってこと? ……戻ってもいいということか?」
「ああ。帝からひとまず戻れと命じられた」
どんどん話を進める是近と朔に、朱利が軽い調子で――それでもいつもよりは真面目な顔で口を挟んだ。
「って、ねぇねぇ、さっきから何の話なんですか? 全然話が見えないんですけど」
すると是近は彼に向き直って突然厳しい声を出した。
「護衛が必要だ。珪朱利、おまえを臨時の
「は……? 帯刀って、えっと東宮の護衛でしょ? なんで?」
「揖夜は瑞穂の第一皇子――つまりれっきとした東宮だ。全力でお守りしろ」
あっさり朔の正体を漏らした是近に、朱利は目を丸くする。
「え、ええと、でもなんで俺?」
「壇ノ団でなんとか使えるのがおまえと暁しかいなかった。禁中には身元の確かな者しか入れないと渋られたが、蘇比出身のおまえには逆に国内の貴族とのしがらみがないと説得した。素行には問題があるが、それを補える剣の腕があるとも。――そして暁は剣の腕を信用で補える。俺と朱利と暁の三人はこれから東宮を守る盾となる」
瑠璃は自分の名前まで出てきて泡を食った。
「は、僕、も?」
瑠璃は飛び跳ねて是近の顔をまじまじと見た。まさか彼の口からそんな台詞を聞こうとは。
どういう風の吹き回しかと不思議に思う瑠璃の前で、是近は至って真面目な顔で頷いた。
「俺はな――見つかった毒に覚えがある。十年前からずっと知りたかった〝ある事件の犯人〟に繋がる毒だ」
「……それって……」
朔が怪訝そうに眉をひそめた。是近は頷く。
「十年前の事件?」
瑠璃も頭の中で反芻する。それは瑠璃が六歳、つまり朔が六歳の頃の話。その頃にあった事件――そこまで考えて、瑠璃は目を見開いた。
「
一足先に答えに辿り着いた朔の声は震えていた。
是近は姿勢を正し、膝を折る。突然臣下の顔に戻って朔に向かい合った。それは娘の瑠璃が見たことのないような厳粛な顔で、是近が別の人間に思えるほどだった。
「ええ。私はずっと調べていたのです。まだ見つかっていない、あなたのお母上を弑した犯人のことを」
「まだ見つかってないだって? そんなわけない」
朔が苦々しい顔で吐き捨てる。
「確かに十年前、犯人とされる
「今回と同じ?」
瑠璃はその禍々しさに思わず喘いだ。
「だから私は命じた人間が口を封じたのではないか。今回だけでなく、前回も――と疑っています」
「黒幕がまだ宮にいるということか」
是近は頷くと、神妙な顔で静かに切り出した。
「私は幼少期よりずっと葵様と菖蒲様を守ってきました。その役割は私の誇りでした。葵様が入内されて、直接お守りできなくなったあとも、気持ちだけは変わりませんでした。――だけど、あんなことになって……。どれだけ後悔したことか」
苦しげな告白に朔がはっと顔を上げる。
「まさか――君なのか? 是近。女房達が陰で言っていた、母上の昔の恋人って」
瑠璃がびっくりして是近を見ても、彼は質問に答えず話を続けた。
「再び同じことが起こった今、もう二度と過ちを犯すわけにはいきません。今回帝が大元を断つご決断をなさいました。私はそれに乗ることにしました。今度こそ根を絶ちましょう――十年前から続く、因縁をここで断ち切るのです」
是近は結局過去の恋の肯定も否定もしない。しかし、その力強い言葉は朔の言葉を裏付けているように思えた。
瑠璃は小さく首を振る。
(そんなの、いや)
瑠璃の知っている是近は、母だけを愛していたはずだった。一度こんな話を聞いてしまうとなんだか彼が母に向けた愛の言葉がすべて嘘だったように思えてしまって仕方がない。
「と――」
とうさん、と戦慄くような声がこぼれかけ、瑠璃は一度大きく息を吐いた。
「長官は……あかね様を愛していらっしゃらなかったのですか?」
意を決して問うと、是近は穏やかな顔で答えた。
「もちろん愛していたに決まっている」
そこまで聞いた後、何かを感じ取ったのか、それまで黙って話を聞いていた朱利が朔を連れてその場を離れた。
二人きりになったとたん、是近は切り出した。
「おまえには力がある」
「力? は――なんの話?」
全く話の見えない瑠璃に、是近は淡々と話し始めた。
「おまえの母、〝あかね〟は本当は……〝朱嶺〟と書く」
是近は枝をとると地面に文字を書き付けた。
「本来は〝シュレイ〟と呼ぶらしい。これはな――蘇比の名だ」
「え? シュレイ? ――蘇比?」
瑠璃はさらに混乱する。
「おまえの母さんは、あの山の向こうの蘇比の人間だった。ほら、朱利とあかねの髪の色が同じなのは気付いていただろう? あの髪の色は蘇比の古民族特有のものだ。名の〝朱〟はおそらくそこからとられているのだろうが。そして……おまえの名〝瑠璃〟も母さんがつけた蘇比の名だ」
是近はそこで口をつぐむ。しばしの沈黙の後、言いにくそうに口を開いた。
「母さんはある〝力〟を持っていたと俺に言った。俺は信じなかった。――だが、あいつは精密に描かれた壇の砦の平面図を俺に見せて力のことを説明した。自分で描いたものだと。俺は驚いたよ。教えたことはなかったし、団員以外砦に入れなかったから。だけど入手方法は他にもあるからと俺が信じなかったら、俺達が出逢う前の昔話をしてみせた。俺がガキの頃に埋めた小遣いの在処だ。言われないと思い出せなかったくらいに昔のことだ。信じざるを得なかった。そして母さんはおまえにも同じ力があると言った。あいつが死ぬ少し前のことだった」
瑠璃は目を見張る。
「どういう、こと?」
「触れたもののことを夢占できる能力――あかねはそう言っていた。十六になるころにはその力が発現すると聞いているが、心当たりは何もないか?」
「夢占……って――あ」
この頃昔に比べて夢をよく見るとは思っていた。ただ、瑠璃は『夢を見た』という覚えしかないのだが。
でも――もしそれが是近が言うような力なのだとしたら? 夢占を使って、女御葵を殺し、朔を殺そうとした人物を見つけることができる――?
(もしかして、あたしが帯刀に任命されたのって……)
先ほどの是近の話と今の話が結びつき、瑠璃は慄然とする。しかし、
「俺としてはその力をおまえに使って欲しくはない」
是近は深刻そうな顔で瑠璃にそう言った。
「え、なんで? 使って欲しいんじゃないの?」
「使えるものは使いたいが……皆にその力を知られれば、おそらく後戻りができない。おまえは利用される――あかねのように」
「利用される? どういうこと?」
是近はそこで大きく息を吐き、人がいないかを確かめるように辺りを見回した。彼の張りつめた顔を見て、これから話すのが長い間秘めておいたことなのだと瑠璃にはわかった。
「おまえの母さんは……その力を使った蘇比の間者だった。当時俺は壇ノ団大尉――今の朱利と同じだな――だったんだが、その俺から砦の情報を探るために彼女は俺に近づいたんだそうだ。俺はすぐに夢中になったよ。知っての通り、おまえの母さんはそりゃあ美人だったからな。しかも、俺は大きな失恋の後だった。そして、彼女もな。似た者同士だったんだ」
「大きな、失恋……」
それがもしかして朔のお母さんの――と瑠璃が窺うように見つめると、是近は肩をすくめてそっぽを向く。そんな風に照れている表情は見たことがなかった。
「壇上のお姫様――葵様と菖蒲様の二人は、どちらも気さくで優しいお方でな。童の時には村の子に混じって一緒に遊んだりもしていたんだ。皆の憧れの的だったし、俺だって例外なく憧れた。だが、もともと身分が違うから高望みなんかしていなかった。彼女のことは大事だったが、それは友人としてだ。母さんの失恋も似たようなものだって言っていたが――詳しくは聞かなかった。男は嫉妬深いんだ」
昔を懐かしむように是近は笑った後、彼はコホンと咳払いをしてそっぽを向く。その耳が赤いのを見て瑠璃は思わず目を逸らした。自分から尋ねたものの、親の若かりし頃の恋話ほど気まずいものはない。
「とにかく、おまえは何か誤解をしているようだから、それは解いておかないと、と思ってな」
「父さんは、母さんのことを愛していたの」
気まずいけれど、これだけは。瑠璃は神妙な顔でもう一度確認した。
「――当たり前だ」
さらに照れた是近はそれ以上の話をするのを嫌い、すぐに長官の顔になって仕事に話を戻した。
「おまえの仕事だが……俺はさっきおまえに力を使って欲しくないと言った。だが、力も使い様だ。幸い瑞穂では力のことは知られていない。表立って使わなければ知られることもない。俺は事件が気になるが、帯刀を引き受ければ長く壇から離れることになる。その間、おまえを一人にするのは無茶をしそうで心配だからな。それよりはおまえを配下にしてさっさと事件を解決した方がいい。主上も伊吹にいるのは解決までで良いとおっしゃった。それならばと俺は帯刀を拝命することにした」
条件を付けている是近に瑠璃は驚いた。相手は帝なのに。ふと昔帝にまみえたときの是近の刺々しい態度を思い出して、瑠璃は尋ねる。
「ね、ねえ、父さんって、もしかして……主上が嫌いなの?」
是近は何を今さらという顔をした。
「大勢の妃にも満足せずに葵様を強引に娶った。あげくに殺したんだ。当然だろう?」
殺すという不穏な響きに瑠璃はぎょっとした。
「で、でも主上が殺したわけじゃ」
「同じことだ。彼には葵様を守り、幸せにする義務があった。〈壇〉の皆にそれを誓ったはずだった。それなのにあんな風に不幸にしたんだ。とにかく――」
不機嫌そうに是近は続ける。
「おまえが殿下を心配するのは、殿下が不安定な立場にあられるからだろう?」
「そうだけど」
瑠璃が見上げると、そこには父の厳しく真剣なまなざしがあった。
「じゃあ、早く殿下の東宮としての足場を固めるのが一番だ。早々に御元服されて妃を娶り、貴族の後見を受けられれば、一気に状況は変わる。敵は半数に減るだろうし、殿下をお守りする人間も倍増する。つまり俺たちは、殿下の廃太子を阻止する端役だ。しかし、おそらく彼を守るのならばそうして差し上げるのが一番いい。わかるだろう? 傍で剣になり盾になるばかりがお守りすることではない。遠くで支えて差し上げる人間も必要だ。国を守る――すなわち国境を死守する。そんな風に守る人間も絶対に必要なんだ。そして、俺は――おまえにそうして欲しいと願っている」
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